『にきはりきゅういん』いんちょうぶろぐ RSSふぃーど

2008-11-20 こころざし(こころざし)

にかいほどこのぶろぐでけんがくしゃのことをかいたのですが、だれかがけんがくにくるとかならずねたにするわけではありませんけどいろいろとはっけんしたりかんがえのまとまることがあるのでこんかいもけんがくのれぽーとをまじえながらのしっぴつです。

あきになるとはりきゅうがっこうへていしゅつしているきゅうじんひょうからのけんがくがいります。じっさいにさいようするかはわかとして、あらたなじんざいかくほのもくてきもあってきゅうじんひょうはまいとしていしゅつしています。

じょしゅはげんそくとしてけんしゅうかいにさんかしているがくせいのなかからさいようするのですが、がくせいかいいんのとうろくがなかったりそつぎょうがくねんのがくせいがいなければけんがくしゃのなかからさいようすることもあります。わたしじしんもとうじのとうようはりいがくかいしがしぶにはさんかしていましたけど、しがしぶではじょしゅをさいようしてくれるばしょがなかったのでほかのちほうそしきでさいようしてもらったけいいがあります。

でも、がくせいじだいのけいけんはとてもたいせつでありりんしょうかのぎじゅつにふれてはなしをきいておくたいけんがあるのとないのとではのびりつがおおはばにちがってきますので、けんしゅうかいにまったくさんかもしたことのないがくせいをさいようしたときにはそれだけくろうがどちらにもおおきくなりますし、けっきょくはしっぱいにおわったけーすとはけんしゅうかいみけいけんしゃばかりでしたからこのてんだけはおさえるようにしています。

さてこんかいのけんがくしゃはせんげつにひきつづきしゅうしょくきぼうがぜんていではありましたけど、「どうしてもけいらくちりょうで」というしせいではありませんでした。まだまだはりきゅうぎょうかいというものをけんぶんあたというかんじであり、はりきゅうがっこうへのにゅうがくどうきをきいても「おやにすすめられたから」ということでみずからはりきゅうしをえらんだわけではないとのことです。

けいらくちりょうかんれんのけんしゅうかいにはわとけいぞくてきにさんかしているとのことですが、がっこうでおしえられるふかくさしたりでんきしげきをくわえるはりがはだにあわないということがおおきなりゆうであり、しんねんがあるわけでもなさそうです。

ここでおおきくはなしのかじをきらせてもらいまして、わたしはべつにはりきゅうしをめざしたどうきがどんなものであってもかまわないとかんがえています。わたしじしんがせんてんせいのしかくしょうがいしゃでしょうがっこうよりもうがっこうにざいせきしていたため、「しょうらいはあんま・まっさーじ・しあつ・はりきゅうのしごとをするのだ」とすりこまれていましたし、あるていどのはんだんができるねんだいになってもにっぽんのしかくしょうがいしゃはめぐまれたかんきょうがあり『てんしょく』とかいてもかごんではないでしょうから、このせかいをめざすことにうたがいをもちませんでした。

せいがんしゃにおいては「じぶんがはりきゅうというぎじゅつによってすくわれた」というたいけんからのにんよりも、「なにかてにぎじゅつをもっておきたい」「いりょうだからちょるかも」とおかねめてきのにんのわりあいのほうがたかいのがじじつでしょうし、いしゃのかけいでふたりめ・さんにんめをいがくぶにいれるのはしきんなんだからはりきゅうがっかへとかだつさらのためにやがくがあったからなど、かんじゃさいどにすればせすじがさむくなるようなどうきのはりきゅうしのほうがむしろおおいでしょう。

けれどしかくしゅとくまでのかていではりきゅうというものがすきになり、はりきゅうというぎじゅつのめざすものにめざめてくれればなにももんだいはありません。たいひをしてしまいますが、いしゃやかんごふなどはもくてきいしきがはっきりしていますしもとめられるきそがくりょくもそうとうなれべるではありますけど、じっさいにそのしょくぎょうにじゅうじできるかどうかとはべつもんだいです。

いしゃであればげかてきなてさきのぎじゅつをこうしできるかというもんだいがありますしぷろじぇくとをとうかつできるりーだーしっぷももちあわせているかというせいかくじょうのようそももとめられます。あえてかんごさむらいではなくかんごふというひょうげんをしましたが、やきんのあるしょくばかんきょうにもたえられるか・ぷろじぇくとのさぶりーだーにてっしきれるか・しゅっけつしているきずぐちをみてもへいじょうしんをたもてるか・りふじんなかんじゃのことばをうけながせるかなど、りそうろんでしょくぎょうくんれんをうけはじめてもだつらくしてしまうけーすはきっとおおいことでしょう。

ですからはりきゅうしも、かんぽうりろんにもとづくいがくたいけいとせいよういがくのりょうほうがりかいできるか・しゅほうしゅうとくにひつようなてさきをもちあわせているか・ぷろじぇくとはちいさくてもりーだーしっぷがとれるか・みがってなかんじゃのたいどやことばにたいしょできるか・しょうにからふじんからろうじんまであらゆるねんだいにたいしょできるか、そしてりふじんでふあんていなほうりつのみぶんせいどにたいおうしたけいざいかんねんをゆうしているかとすべてがたっせいされるひつようはないにしてもいっしょうがいのしごととするにはかなりはーどるのたかいしょくしゅであり、けいざいてきにめぐまれるけーすはしょうすうはであることをにんしきしているかでしょう。

けんがくしゃのほうへはなしをもどしまして、けいらくをけいさつすることでみゃくしんでのへんかはりかいできなくてもはらしんのおおきなへんかはしろうとでもわかりますから「おもしろい・おもしろい」をれんぱつしたけんがくしゃがかこにいました。

おおむねはひょうじょうからよめていたのですが、「おもしろいというのはこのようなはりきゅうじゅつがそんざいしていたことかかんじゃのへんかか」とたずねたなら、しんたいがそくざにおおきくへんかさせられることだといいます。「それはじぶんをちゅうしんにどのようなあぷろーちをしようか・どんなはりきゅうをほどこしてみようかというはっそうだろう」とつっこんだなら、ちょっとふしぎそうなひょうじょうです。

このじてんでわたしはらくせんをきめていたのですけど、「はりきゅうというものはびょうからだをなおすためにそんざいしているものであってはりきゅうしのためにそんざいしているものではないだろう」とせつめいしました。さらに「はりきゅうというぎじゅつははりきゅうしがほどこせるものでありこじんしさんもおおくふくんでいるだろうが、それはかこのいじんたちがつみあげてきてくれたこうせきのうえにのせてもらえるからであり、そのかげにはきちょうなかんじゃのぎせいがかずおおくあったことをかんがえているのか」とてをやすめずにつっこみます。

このけんがくしゃは、はりきゅうというしょくぎょうくんれんはうけましたけどはりきゅうしというしごとにんにはほどとおかったということです。

あるけんがくしゃははりきゅうというものがかんじゃのためにそんざいしていることはがくしゅうのなかでさとっていましたけど、だれがやってもぎじゅつてきなさはけいけんでうまるようにかんがえているふしがありました。

はりきゅうがっこうへにゅうがくしてじつぎがはじまると、まずじぶんのしんたいへはりをさすくんれんからはじまります。きくところによるとこっかしけんとっぱのためにはじゅぎょうじかんがとくにじつぎじかんがたりず、このくんれんをしないというじょうほうもありますがそれではげかてきなてはぜったいにそだたないでしょう。そしてすこしごうはりがささるようになるとくらすめーとへのとげはりれんしゅうがはじまり、はんとしもすればとげはりすることがおもしろくてたまらなくなり、はりきゅう=はりをしんたいへさすこととかんきょうになれてしまいずしきがたんじゅんかしてしまいます。わたしじしんもこのたんじゅんかしたずしきはたいけんしているのですが、そこからいかにしてはりきゅうじゅつのほんすじにじこかいかくでもどせるかがぽいんととなります。けんしゅうかいへのさんかは、さいたんでさいてきなほうほうだとおもいます。

こんかいのけんがくしゃですけど、ぜんじゅつのようにはりきゅうぎょうかいをけんぶんなかのだんかいであり、でんとうはりきゅうにあこがれをもってはいますけどつよいいしをもっていたわけではありません。

しかし、こころざし(こころざし)がありました。にゅうがくごもまだはりきゅうというものにぎもんをもちつづけていたものがせんぱいからのちりょうでらくになり、「これはかんじゃさんにかんげんせねばならないぎじゅつだ」とかんがえるようになっていたことです。

げんざいのしゃかいじょうせいやはりきゅうぎょうかいのなかでこのぎじゅつをはってんさせつぎのせだいへでんしょうさせるためにひつようなものは、「こころざし」であるとひさびさにおもいだしたきがするたいけんでした。

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