2008-09-12
■[どくしょ][ごろく]ろーまにんのものがたり~めいそうするていこく(した)~

こんらんしめいそうしつづけたろーまにんのものがたりもいったんこのかんでおわりです。つづきはまたこんど。。。
さてなにからしるそうかとまようところだが、とにかくうえ・なか・くだと3かんつづいてばたばたとしたないようであった。ゆいいつ、こうていあうれりあぬすのちせいのかんはいままでのこうていのちせいがそうであったように“あんしん”してよむことができた。しかし、それもながつづきはしなかったのだが。。。
「めいそうするていこく」をつうじてかんじたことはろーましゃかいにおいてしんこうしゅうきょうであったきりすときょうのかげがだんだんとおおきくなってきたことだ。たしかにこんらんにつぐこんらんでひへいしきったろーましゃかいにおいて、じゅうみんたちはあしたをもしれぬというじょうきょうであったろうとおもう、そのようなじょうきょうかで「しんじればすくわれる」とささやかれればにゅうしんしてしまうにんもおおかったろう。
とうじのろーまていこくのじゃくたいかしひへいかするいっぽうであったことをしるすてがみがしょうかいされている。
かるたごのしきょうでじゅんきょうしせいじんにれつせられるきぷりあぬすからゆうじんにあてたてがみだ
きみはいう。われわれのせかいをしんかんさせふあんにおとしこんでいるおおくのふこうのげんいんは、きりすときょうとたちにあると。なぜならわれわれきりすときょうとが、きみたちのかみがみをうとんじているからだというりゆうをあげて。
だが、ひじりなるわれわれのきょうてんにふれようともせず、それゆえにしんりからとおいところにいきているきみでも、つぎのいちじはみとめざるをえないだろう。それは、ろーまはもはやおいた、ということである。いぜんはしっかりとだいちにたっていたがんけんなあしも、いまではおいて、じぶんじしんのしんたいのおもみをささえきれないでいる。
(ちゅうりゃく)
ていこくはおいつつあるのだ。そのていこくにわかくてかつりょくにみちていたじだいとどうようのちからつよさがまだきたいできると、きみはおもっているのかね。
しゅうまつにちかづけば、なんであろうとじゃくたいかする。にちぼつがちかくなればたいようのひかりもよわまり、あさがちかづけば、がつのひかりもよわまる。
これが、せかいのさだめだ。これがかみのおきてだ。うまれいずるものすべては、しぬことをうんめいづけられている。せいじゅくののちにはろうかが、おいののちにはしが。きょうりょくだったこっかもじゃくたいかし、きょだいであったものもしゅくしょうかする。よわくなり、ちいさくなり、やがてきえるのだ
P.214-216
このすべてに3せいきごろのろーまていこくのすがたがきざまれているとおもう。
そしてこのようなじだいはいけいのなかでのきりすときょうがどのようにしゃかいにしんとうし、そしてたいとうのよういんをEric.R.Doddsきょうじゅの「ふあんのじだいのいきょうとときりすときょうと」のなかからしおのしはつぎのようにしょうかいしている。
きりすときょうかいがさんせいきのろーまにんにあたえるのにせいこうしたものは、おおくのにんがそれなしにはいきることがむずかしいきぞくこころであった。
ひとびとをくるしめるのは、じぶんはどこにもぞくしていないというこどくかんなのである。
ばんぞくにすべてをうばわれてむらをはなれるしかなく、としにりゅうにゅうしてきたひとびと。
(ちゅうりゃく)
これらのひとびとが、きりすときょうのこみゅにてぃにくわわることで、にんげんてきなおんかさをえられたのだ。だれかがじぶんのことを、げんせいでもらいせでも、しんぱいしてくれるとおもえたのであった。
P.187
これはいまげんざいのにっぽんにもつうじるのじゃないだろうか?ふあんかんとしゅうきょうのむすびつきじゅうようだ*1。
じだいのかわりめにしゅうきょうはどんどんいりこんでくるんだな。。。
このじだいはまだろーまていこくときりすときょうはてきどうし。それがだんあつやはくがいをうけながらもしぶとくねづよくきりすときょうはのこっていく、そしてさいしゅうてきにはろーまていこくをじょうっ取ってしまう。
“きりすときょう”このかんいこうのじゅうようなきーわーどだ。
さいごにこうていまるくす・あうれりうすみかどの「じせいろく」よりのしょうかいであるふんをしるします。
たましいがにくたいからはなれねばならないときに、それをやすらかにうけとめることができたら、なんとすばらしいことだろう。だが、このこころのじゅんびは、にんげんのじゆうなりせいによってたっしたけっかでなければならない。きりすときょうとたちのように、かたくななまでのおもいこみではなく」
2008-08-29
■[こらむ][どくしょ]ひかれるきもちと、かんがえるきもち

きのうこうにゅうした「ろーまにんのものがたり〜めいそうするていこく〜」をけさからよみはじめた。
きもちのうえではいちねんいじょうまっていたので、さっそくきもちはどんどんしおのしがえがく“ろーまわーるど”へとびきこまれていっている。
ろーまわーるどへとびきこまれ、またいちだんといたりあ・ろーまのちへのあこがれをつよめるとともに、しおのしがえがくろーませかいは2せんねんまえのできごとであるにもかかわらず、そこでかたられるないようはどこかげんだいのくにでおこなわれているようなないようばかりであり、いつもおもうことだが「いまもむかしもかわらない」ってのがすなおなかんそうだ(まだよみきってないが)。
まいかいよんでいておもう、「なんでかこにこれだけのきょうくんがあるのにげんだいにいかされないのだろう」と。。。
おなじようなことをるねっさんすじだいのまきあべっりも「せいりゃくろん」のなかでつぎのようにいっっている
かこやげんざいのことにおもいをめぐらせるにんは、たとえこっかやみんぞくがちがっても、にんげんというものはおなじようなよくぼうにかられ、おなじようなせいこうをもっていきてきたことがわかるであろう。
だからこそ、かこのじょうたいをくわしくまなぶものは、げんざいのこともよういにはんだんがつき、このひとびとのこういをさんこうにして、たいさくをたてることもできるのである。
また、かりにかんぜんにおなじじょうたいがかこにみだせなかったとしても、ほんしつてきにはおなじなのだから、げんざいのことへのたいしほうも、よういにみとおしがつくというものである。
しかしこのきょうくんは、おうおうにしてむしされるか、たとえよんだにしてもりかいされないか、でなければいせいしゃにつうじないかして、いかされないばあいがおおい。
それゆえ、じんるいはいつになってもあいもかわらず、おなじしゅうたいをくりかえしているわけである。
まきあべっりのじだいも、げんだいにいきるわたしたちのじだいにおいてもかこのきょうくんはなにもいかされていないようである。
にんげんはせいちょうしているのでしょうか?
さあつづきをどんどんよみましょう
2008-08-27
■[こらむ][そのほかざっき]ふえるいっぽうです

じゅうどうせいふくしのふせいせいきゅうにかんするしんぶんきじからはじまり、いろいろとげんじょうなどをさいきんかんがえている。
きになるきじ - Fere libenter homines id quod volunt credunt
ちょっときになること - Fere libenter homines id quod volunt credunt
というようなじょうきふたつのえんとりーでわたしがさいきんかんじるところをかいてみたのだが、にっぽんてわざりょうほうきょうかいでしょうかいされているここすうねんの“じゅうどうせいふくし”“はりし”“きゅうし”こっかしけんのじゅけんしゃすうおよびごうかくしゃかずはじゃっかんのぞうかりつていかはあるもののいまだに“みぎかたあがり”となっているそうだ。
だい16かいこっかしけんがっこうべつごうかくはっぴょう|にっぽんてわざりょうほうきょうかい
このきじによると、
こんかい、じゅけんしゃすう・ごうかくしゃかずのぞうかりつはそれぞれじゃっかんげんしょうしているとはいえ、こっかしかくごうかくしゃがまいとしのべ1まん5せんにんもちりょういえとしてよにおくりだされていることにちがいありません。われわれがぜんかいもしてきした「ちりょういえきょうそうじだい」のほんかくてきなとうらいに、これからちりょういえになるにんも、すでにちりょういえとしてかつやくしているせんせいも、しんけんにしょうらいをみすえていかなければならないのではないでしょうか。
とある。
ほんとうにこんごのことをかんがえていかねばならない。“てきのえがきほう”がひつようだ。
ついでにうえのきじにかんするほそくで、「こっかしけんごうかくしゃがまいとしのべ1まん5せんにんもちりょういえとしてよにおくりだされている・・・」とあるが、この「こっかしけんごうかくしゃのちりょういえ」というもののなかにはいまやいたるところにそんざいし、まだふえているかいろぷらくてぃっくやえきまえくいっくまっさーじ、すーぱーせんとうにあるまっさーじなど*1のばでしじゅつ(このばあいしじゅつというのがただしいかはわかりませんが)をされているかたがた*2のかずはいっってはいない。
つまり“むしかく”なのだ、じぎょうしょには“なんらかのしかくもち”がひとりいるかいないかだそうだ。じっさいにはたらいておられるほうにはなしをきいてみたりすると、じぎょうしょごとにけんしゅうきかんをもうけて*3、ひととおりのちしきをあたえられたあとぎょうむにつくばあいがほとんどで、ひどいところではにゅうしょくしたそのにちからげんばにたつところもあるそうだ。
これではただでさえはりきゅういん・せっこついんがふえていっているよのなかなのにそれにくわえてじょうきのようなしじゅつところがふえては“ともくい”じょうたいとなってしまう。
それよりもしじゅつをうけられるかたがたがせいかくなはんべつきじゅんをえられないのがいちばんのもんだいだとわたしはかんがえる。たしかに“ゆうしかくしゃ”によるしじゅつであろうが、そうでなかろうがうけられるかたがたにとって“きもちのよさ”“かいてきさ”をもとめられるだけならば、どちらでもよいのだろう。ただやはり“けんこう”“かいふく”といったものをもとめられているかたがたにとってはげんじょうはおおいにもんだいがあるだろう。
せいかくなじょうほうのていきょうがひつようだ。




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>なんでかこにこれだけのきょうくんがあるのにげんだいにいかされないのだろう
「はっそうのてんかん」ということばのえいきょうがでてるのかなぁとおもいました。
もちろんはっそうのてんかんもだいじなんですが、すごくしやのせまいとらえかたをしているような。
てくのろじーのしんぽとどうじににんげんののうりょくじたいもしんぽしているとかんちがいし、「どうすればべすとなけっかがみちびきだされるか」というしてんでみず「かことちがうはっそうで」ということにこしつしているというか・・・
まだねおきであたまがおきてないため、こめんとがごちゃごちゃしてすいません。。
>「どうすればべすとなけっかがみちびきだされるか」というしてんでみず「かことちがうはっそうで」ということにこしつしているというか
どうなのでしょうね?わたしはげんざいもかこのじんぶつにおいてもなにもみずからがまちがえようとしてあらたなことをはじめているわけではないとおもいます。ことをはじめたじてんではそれが“BEST!”なせんたくだったのでしょう。
かえさるかまきあべっりのことばに「たとえどんなにわるいけっかでおわろうとも、そもそもはじめられたきっかけはぜんいであった」というものもあります。
だから、べつに“いかされない”ってのがふつうなのかもしれませんね