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Fere libenter homines id quod volunt credunt このぺーじをあんてなについか RSSふぃーど

2008-09-12

[][]ろーまにんのものがたり~めいそうするていこく(した)~ 01:02 このえんとりーをふくむぶっくまーく

ろーまにんのものがたり 34 (34) (しんちょうぶんこ し 12-84)

ろーまにんのものがたり 34 (34) (しんちょうぶんこ し 12-84)

こんらんしめいそうしつづけたろーまにんのものがたりもいったんこのかんでおわりです。つづきはまたこんど。。。

さてなにからしるそうかとまようところだが、とにかくうえ・なか・くだと3かんつづいてばたばたとしたないようであった。ゆいいつ、こうていあうれりあぬすのちせいのかんはいままでのこうていのちせいがそうであったように“あんしん”してよむことができた。しかし、それもながつづきはしなかったのだが。。。

「めいそうするていこく」をつうじてかんじたことはろーましゃかいにおいてしんこうしゅうきょうであったきりすときょうのかげがだんだんとおおきくなってきたことだ。たしかにこんらんにつぐこんらんでひへいしきったろーましゃかいにおいて、じゅうみんたちはあしたをもしれぬというじょうきょうであったろうとおもう、そのようなじょうきょうかで「しんじればすくわれる」とささやかれればにゅうしんしてしまうにんもおおかったろう。

とうじのろーまていこくのじゃくたいかしひへいかするいっぽうであったことをしるすてがみがしょうかいされている。

かるたごしきょうでじゅんきょうしせいじんにれつせられるきぷりあぬすからゆうじんにあてたてがみだ

きみはいう。われわれのせかいをしんかんさせふあんにおとしこんでいるおおくのふこうのげんいんは、きりすときょうとたちにあると。なぜならわれわれきりすときょうとが、きみたちのかみがみをうとんじているからだというりゆうをあげて。

 だが、ひじりなるわれわれのきょうてんにふれようともせず、それゆえにしんりからとおいところにいきているきみでも、つぎのいちじはみとめざるをえないだろう。それは、ろーまはもはやおいた、ということである。いぜんはしっかりとだいちにたっていたがんけんなあしも、いまではおいて、じぶんじしんのしんたいのおもみをささえきれないでいる。

(ちゅうりゃく)

ていこくはおいつつあるのだ。そのていこくにわかくてかつりょくにみちていたじだいとどうようのちからつよさがまだきたいできると、きみはおもっているのかね。

 しゅうまつにちかづけば、なんであろうとじゃくたいかする。にちぼつがちかくなればたいようのひかりもよわまり、あさがちかづけば、がつのひかりもよわまる。

 これが、せかいのさだめだ。これがかみのおきてだ。うまれいずるものすべては、しぬことをうんめいづけられている。せいじゅくののちにはろうかが、おいののちにはしが。きょうりょくだったこっかもじゃくたいかし、きょだいであったものもしゅくしょうかする。よわくなり、ちいさくなり、やがてきえるのだ

P.214-216

このすべてに3せいきごろのろーまていこくのすがたがきざまれているとおもう。

そしてこのようなじだいはいけいのなかでのきりすときょうがどのようにしゃかいにしんとうし、そしてたいとうのよういんをEric.R.Doddsきょうじゅの「ふあんのじだいのいきょうとときりすときょうと」のなかからしおのしはつぎのようにしょうかいしている。

きりすときょうかいがさんせいきのろーまにんにあたえるのにせいこうしたものは、おおくのにんがそれなしにはいきることがむずかしいきぞくこころであった。

ひとびとをくるしめるのは、じぶんはどこにもぞくしていないというこどくかんなのである。

ばんぞくにすべてをうばわれてむらをはなれるしかなく、としにりゅうにゅうしてきたひとびと。

(ちゅうりゃく)

これらのひとびとが、きりすときょうこみゅにてぃにくわわることで、にんげんてきなおんかさをえられたのだ。だれかがじぶんのことを、げんせいでもらいせでも、しんぱいしてくれるとおもえたのであった。

P.187

これはいまげんざいのにっぽんにもつうじるのじゃないだろうか?ふあんかんとしゅうきょうのむすびつきじゅうようだ*1

じだいのかわりめにしゅうきょうはどんどんいりこんでくるんだな。。。

このじだいはまだろーまていこくきりすときょうはてきどうし。それがだんあつやはくがいをうけながらもしぶとくねづよくきりすときょうはのこっていく、そしてさいしゅうてきにはろーまていこくをじょうっ取ってしまう。

きりすときょう”このかんいこうのじゅうようなきーわーどだ。

さいごにこうていまるくす・あうれりうすみかどの「じせいろく」よりのしょうかいであるふんをしるします。

たましいがにくたいからはなれねばならないときに、それをやすらかにうけとめることができたら、なんとすばらしいことだろう。だが、このこころのじゅんびは、にんげんのじゆうなりせいによってたっしたけっかでなければならない。きりすときょうとたちのように、かたくななまでのおもいこみではなく」

*1:さいきん、まちなかをがいせんしゃせいしょのいちぶをよみながらはしったり、ちほうのどうろぞいいみんかのかべに、くろじにきいろのもじでせいしょのいちぶがかかれていたりする。これもかんけいあるかな

2008-08-29

[][]ひかれるきもちと、かんがえるきもち 23:54 このえんとりーをふくむぶっくまーく

きのうこうにゅうした「ろーまにんのものがたり〜めいそうするていこく〜」をけさからよみはじめた。

きもちのうえではいちねんいじょうまっていたので、さっそくきもちはどんどんしおのしがえがく“ろーまわーるど”へとびきこまれていっている。

ろーまわーるどへとびきこまれ、またいちだんといたりあろーまのちへのあこがれをつよめるとともに、しおのしがえがくろーませかいは2せんねんまえのできごとであるにもかかわらず、そこでかたられるないようはどこかげんだいのくにでおこなわれているようなないようばかりであり、いつもおもうことだが「いまもむかしもかわらない」ってのがすなおなかんそうだ(まだよみきってないが)。

まいかいよんでいておもう、「なんでかこにこれだけのきょうくんがあるのにげんだいにいかされないのだろう」と。。。


おなじようなことをるねっさんすじだいのまきあべっりも「せいりゃくろん」のなかでつぎのようにいっっている

かこやげんざいのことにおもいをめぐらせるにんは、たとえこっかやみんぞくがちがっても、にんげんというものはおなじようなよくぼうにかられ、おなじようなせいこうをもっていきてきたことがわかるであろう。

 だからこそ、かこのじょうたいをくわしくまなぶものは、げんざいのこともよういにはんだんがつき、このひとびとのこういをさんこうにして、たいさくをたてることもできるのである。

 また、かりにかんぜんにおなじじょうたいがかこにみだせなかったとしても、ほんしつてきにはおなじなのだから、げんざいのことへのたいしほうも、よういにみとおしがつくというものである。

 しかしこのきょうくんは、おうおうにしてむしされるか、たとえよんだにしてもりかいされないか、でなければいせいしゃにつうじないかして、いかされないばあいがおおい。

 それゆえ、じんるいはいつになってもあいもかわらず、おなじしゅうたいをくりかえしているわけである。

しおのしちしょう 「まきあう゛ぇっりごろく」P.186より

まきあべっりのじだいも、げんだいにいきるわたしたちのじだいにおいてもかこのきょうくんはなにもいかされていないようである。

にんげんはせいちょうしているのでしょうか?

さあつづきをどんどんよみましょう

future-humanfuture-human 2008/08/30 11:27 やまざきさん、こんにちは。
>なんでかこにこれだけのきょうくんがあるのにげんだいにいかされないのだろう
「はっそうのてんかん」ということばのえいきょうがでてるのかなぁとおもいました。
もちろんはっそうのてんかんもだいじなんですが、すごくしやのせまいとらえかたをしているような。
てくのろじーのしんぽとどうじににんげんののうりょくじたいもしんぽしているとかんちがいし、「どうすればべすとなけっかがみちびきだされるか」というしてんでみず「かことちがうはっそうで」ということにこしつしているというか・・・
まだねおきであたまがおきてないため、こめんとがごちゃごちゃしてすいません。。

caesarkazuhitocaesarkazuhito 2008/08/31 00:10 よしおかさん
>「どうすればべすとなけっかがみちびきだされるか」というしてんでみず「かことちがうはっそうで」ということにこしつしているというか
どうなのでしょうね?わたしはげんざいもかこのじんぶつにおいてもなにもみずからがまちがえようとしてあらたなことをはじめているわけではないとおもいます。ことをはじめたじてんではそれが“BEST!”なせんたくだったのでしょう。
かえさるかまきあべっりのことばに「たとえどんなにわるいけっかでおわろうとも、そもそもはじめられたきっかけはぜんいであった」というものもあります。
だから、べつに“いかされない”ってのがふつうなのかもしれませんね

2008-08-27

[][]ふえるいっぽうです 00:25 このえんとりーをふくむぶっくまーく

じゅうどうせいふくしのふせいせいきゅうにかんするしんぶんきじからはじまり、いろいろとげんじょうなどをさいきんかんがえている。

きになるきじ - Fere libenter homines id quod volunt credunt

ちょっときになること - Fere libenter homines id quod volunt credunt

というようなじょうきふたつのえんとりーでわたしがさいきんかんじるところをかいてみたのだが、にっぽんてわざりょうほうきょうかいでしょうかいされているここすうねんの“じゅうどうせいふくし”“はりし”“きゅうし”こっかしけんのじゅけんしゃすうおよびごうかくしゃかずはじゃっかんのぞうかりつていかはあるもののいまだに“みぎかたあがり”となっているそうだ。

だい16かいこっかしけんがっこうべつごうかくはっぴょう|にっぽんてわざりょうほうきょうかい

このきじによると、

こんかい、じゅけんしゃすう・ごうかくしゃかずのぞうかりつはそれぞれじゃっかんげんしょうしているとはいえ、こっかしかくごうかくしゃがまいとしのべ1まん5せんにんもちりょういえとしてよにおくりだされていることにちがいありません。われわれがぜんかいもしてきした「ちりょういえきょうそうじだい」のほんかくてきなとうらいに、これからちりょういえになるにんも、すでにちりょういえとしてかつやくしているせんせいも、しんけんにしょうらいをみすえていかなければならないのではないでしょうか。

とある。

ほんとうにこんごのことをかんがえていかねばならない。“てきのえがきほう”がひつようだ。

ついでにうえのきじにかんするほそくで、「こっかしけんごうかくしゃがまいとしのべ1まん5せんにんもちりょういえとしてよにおくりだされている・・・」とあるが、この「こっかしけんごうかくしゃのちりょういえ」というもののなかにはいまやいたるところにそんざいし、まだふえているかいろぷらくてぃっくやえきまえくいっくまっさーじ、すーぱーせんとうにあるまっさーじなど*1のばでしじゅつ(このばあいしじゅつというのがただしいかはわかりませんが)をされているかたがた*2のかずはいっってはいない。

つまり“むしかく”なのだ、じぎょうしょには“なんらかのしかくもち”がひとりいるかいないかだそうだ。じっさいにはたらいておられるほうにはなしをきいてみたりすると、じぎょうしょごとにけんしゅうきかんをもうけて*3、ひととおりのちしきをあたえられたあとぎょうむにつくばあいがほとんどで、ひどいところではにゅうしょくしたそのにちからげんばにたつところもあるそうだ。

これではただでさえはりきゅういん・せっこついんがふえていっているよのなかなのにそれにくわえてじょうきのようなしじゅつところがふえては“ともくい”じょうたいとなってしまう。

それよりもしじゅつをうけられるかたがたがせいかくなはんべつきじゅんをえられないのがいちばんのもんだいだとわたしはかんがえる。たしかに“ゆうしかくしゃ”によるしじゅつであろうが、そうでなかろうがうけられるかたがたにとって“きもちのよさ”“かいてきさ”をもとめられるだけならば、どちらでもよいのだろう。ただやはり“けんこう”“かいふく”といったものをもとめられているかたがたにとってはげんじょうはおおいにもんだいがあるだろう。

せいかくなじょうほうのていきょうがひつようだ。

*1:ほかにもあろままっさーじ あしうらまっさーじ なんかもある

*2:ぜんいんがぜんいんではありませんが

*3:きかんはさまざま 2しゅうかんのところもあれば3にちかんぐらいのところもあった

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