2009-01-08
そーしゃる・びじねす
ざっきちょう |
6にちのあさひしんぶんちょうかんにしょうがくゆうし(まいくろ・くれじっと)の「ぐらみんぎんこう」でしられるむはまど・ゆぬすさんのいんたびゅーきじがでていた。いんしょうてきなふれーずがあったので、ぬきかきしておく。
にっぽんのひとびともじゅうようなやくめをはたせる。りえきのさいだいかをゆめみるめがねをはずし、しゃかいてききぎょうのめがねをかけてみてはどうか。せかいがまったくちがってみえるだろう。
しばらくまえは、「かぶぬしのけんり」がこわだかにしゅちょうされ、きぎょうにとってのひょうかは、りえきのさいだいか、それもたんきかんのけっかをもとめるものだった。ゆぬすさんは、それにまっこうからはんろんして、こういう。
わたしたちはしほんしゅぎをあやまってかいしゃくしている。びじねすとはきんもうけのことで、りえきのさいだいかがそのしめいという。このかいしゃくはにんげんをきんもうけのどうぐとみなす。あやまったかいしゃくだとおもう。
わたしたちはりこてきなめんだけにもとづいて、びじねすのせかいをつくった。むしのぶぶんもしじょうにもちこめば、しほんしゅぎはかんせいする。わたしはそれを「そーしゃる・びじねす」(しゃかいてききぎょう)とよぶ。
とうしかはさいだいのりえきをもとめてとうしするのではなく、しゃかいもんだいのかいけつのためにとうしする。とうしさきは、しゃかいもんだいをかいけつしようというもくてきをもつかいしゃ。けっかてきにりえきがでるかもしれないが、はいとうはうけない。なぜなら、しゃかいもんだいのかいけつにこうけんすることでまんぞくかんがえられるからだ。じっさい、ふらんすのだのんなどのおおてきぎょうが、こうしたしゅしにさんどうしてじぎょうにとりくんでいるという。
みりょくてきないけんだとおもう。みちはけわしいだろうが、こうしたびじねすがじょじょにひろがることで、おおくのにんにとって、せかいはもっとへいわですみやすくなるはずだ。
2009-01-07
ちちのものがたり
ざっきちょう |
しょうがつにじっかにかえったとき、おもいたってせんそうとうじのはなしをきいてみた。とうじのことはちちにもははにもあるていどはきいていたが、とくにちちのしょうねんじだいについて、おぼろげなきおくをすこしせいりしてみようとおもったからだ。
ちちはおとこ5にんおんな5にんの10にんきょうだいの4おとこである。ちょうなんはかいぐんにしがんしてふぃりぴんのれいてしまでなくなった。じなんはちいさいころにびょうししているので、とうじ、しょうがくせいだったちちや、3おとこであるちちのあにが、くうためのかせぎてになっていた。
ちちのちち、つまりわたしのそふがどうしていたか。じつはそこがもんだいだった。いるにはいたが、1ねんのうち10かがつはかんとうほうめんにたびにでて、ばんざい(まんざい)をやるたびげいにんとしてくらしていたのだ。「いえをたずねていって、ばんざいをひろうする。ふつうは2にんでやるが、うでがいいからひとりでやってた。まあ、からだのよいかわらこじきさ」。そうちちはいっった。かえってくるのは、のうかんきだけ。おきんはほとんどもちかえらず、むすめのうちきにいったこにだけきもののおびなどをあたえた。そして、のうさぎょうがおわると、またたびにでる。そのくりかえしだったという。
いっかのだいこくばしらがいないから、せいかつはくるしい。にほんぜんたいがまずしかったし、ちいきのにんたちのくらしもひどかったが、そのなかでもごくひんのぶるいだった。いものつるをたべるのはにちじょうさはんじ。やぶれたずぼんをはいてがっこうにいっても、じぶんだけべんとうがない。しかたがないから、ひるやすみ、くうふくにたえながらこうていですごしたという。しろいごめしには、めったにありつけない。そふがかえったときは、いもごめしをたべることもあったが、そふはじぶんだけごめしのぶぶんをたべた。それがゆるされたじだいであり、かぞくであった。
ひびののりくちをしのぐため、かわにでかけてたにしをとらった。からからみをとってあらってからうるのである。せんじちゅうのきちょうなたんぱくげんでもあったろう。ちちのはは、つまりわたしのそぼと、がっこうからかえったちちたちがとおくまでとりにいき、そこそこのきんになったという。
ちちのこくみんがっこうのきろくをみておどろいた。5ねんせいでたいじゅうが20きろだいしかない。いまなら3ねんせいのたいじゅうである。もともとこがらだが、それにしてもこまい。いちばんしたにせいいくじょうきょうのひょうかがあり、あんのじょう、「か」とかかれていた。いがいにもびょうけつはすくないが、「じこ」でやすんでいるにちがけっこうある。いえのしごとのせいでつうがくできなかったにち、このようにかかれた。
そうしてかけいはひのくるまだというのに、うまを2あたまもかっていた。かいぬしは「ちょうきしゅっちょう」でふざいだから、うまをはしらせるのもくさをたべさせるのも、ちちとちちのあにのしごとだった。いまはじょうばすることはないが、そうとうなうでまえだったという。だが、けいばのきしゅがらくばするように、めいしゅでもおちることはある。ちちもいちどなげだされ、したたかにじめんにからだをうちづけた。ちちいわく「きんがなくてあたらしいていてつがかえない。うまはあしがいたいからどうろじゃなくてわきのくさのところをはしるだろ。だからおちやすい」とか。
うまにかんしては、もうひとつえぴそーどがある。たまにかえってくるそふが、あるときあいばにのって、たんぼのようすをみにいった。しばらくすると、うまだけかえってくる。どうしたのかとしんぱいしてちちたちがみにいくと、そふはたんぼのなかでひっくりかえってねている。「いんしゅじょうば」のせいである。でいすいしたそふをつれかえるのもたいへんなしごとだったそうだ。
そふはせんご、のういっけつでたおれたのをきに「ばんざい」をとめた。つえをつけばあるけるていどにたちなおったが、ばんねんはすっかりなみだもろくなり、かつてのほうとうじのおもかげはなかったという。わたしはまったくきおくにないが、ちいさいころにいっしょにうつっているしゃしんがあるから、すこしだけじんせいがかさなっている。もう20ねんいじょう、そのしゃしんをみていないが、おぼろげなきおくでは、そふはわらっていたようなきがする。
2009-01-05
2009ねんのはじまり
りせっとはされずにおなじかおをしてきのうのつづきのはるがはじまる
あたらしいねんがはじまった。そのしゅんかん、あたらしいじぶんにうまれかわれるようなきもするが、なかなかそうはいかない。じぶんはじぶん。かおもおなじなら、せたけもおなじ。たちいふるまいもいきかたのりゅうぎもそうかわるものでない。
ただ、このぶろぐにかんしては、すこしへんこうすることにした。いちにんしょうを「ぼく」から「わたし」にあらため、げんかくにまもってきた「だ」ちょうをゆるめて、「である」ちょうもつかうことにした。たいしたりゆうはないが、かきことばで「ぼく」としょうすることになんとなくいわかんをおぼえるようになり、「だ」ちょうのしばりがきゅうくつになった。そういうわけだから、きがかわってもとにもどすかもしれない。
あたらしいねんは、きょねんのえんちょうせんじょうで、よりよくいきられたらとおもう。それは、じぶんがどういきるかにかかっている。にんは、うまくいかないことがあるとだれかのせいにしたがる。わたしもそういうゆうわくにかられるときがあるが、うまくいかないのは、たいていじぶんのせいである。もちろんうんふうんはある。とくにてんさいやじこは、なかなかさけられない。
2にちのあさ、じっかちかくのちいさなじんじゃではつもうでをした。「じぶんでできることはじぶんでがんばりますから、じぶんやかぞくがふりょのさいがい、じこにまきこまれませんように」。100えんだまひとつで、どれほどのごりえきがあるかわからないが、いつものように、そういのった。もちろん、じぶんをとりまくしょううちゅうだけでなく、せかいのひとびとがうまくいってほしいとはおもう。だが、わたしがいのったところでどうなるものでもないし、いうまでもなくせかいのもんだいはてにあまる。
ただ、せめてしんぶんつくりをになうひとり、そしてうたよみとして、みずからのしごとやうたをつうじて、けっかてきに、いまよりゆたかでおおくのにんがしあわせだとおもうよのなかのこうちくにこうけんできればとおもう。きしゃもうたよみもふつうは「ぼうかんしゃ」のたちばだが、がんりきあるぼうかんしゃがうみだすことばのちからは、きっと、いくらかのたしにはなるだろうから。
2008-12-29
ああねんがじょう
やっとひととおりねんがじょうをかきおえた。のみかいをおえてきたくしてから、こーひーでよいをさましてさぎょうにとりかかる。ぷりんたーでいっきにおもてうらをいんさつし、まんねんひつでひとこと、かきそえた。よったいきおいでへんなことをかかなかった…、としんじたい。
さいしょにだすのはぜんぶで170まいくらい。ねんねんすこしずつふえてきたが、しんぶんきしゃとしてはおおくもなく、すくなくもないといったところだろう。しるかぎり、おおくだすきしゃは400まいくらいだす。そうなると、えいぎょうはがきといっしょである。
ださないにんからきたときのため、10まいくらい、よびをのこしておいた。いんくきれで、もういんさつできない。さあ、これでゆっくりねむれる…。
そうおもったら、なんと、かんじのまちがいがいちかところあるではないか。はずかしことに「たんかをよむ」となっている。いっしゅん、「べつにそのままでいいじゃないか」とあくまがささやいたが、なんとかあらがって、しゅうせいえきでなおすことにした。これで1じかんちかいろすだ。やれやれ。でも、みぜんにふせげてよかった。ゆうしゅうなこうえつかかりになれるかも。
まちがいといえば、かこさいだいきゅうのまちがいは、きょうちょでほんをだしたときのことだ。せわになったにんたちにおくったのはいいが、びんせんに「ごはいどくください」とかいてしまった。うけとったにんはめんくっただろう。「はいんでよめってか!」。もちろん、あたまのなかでは「ごこうらんください」とかいたつもりなのだが、のうのかいろがどこかでくるってしまった。いまおもいだしてもはずかしいが、「たんかをよむ」とかいているようでは、ぼくもしんぽがない。
いや、ふみとどまっただけしんぽしたといえるかもしれない。らてんてきごつごうしゅぎのぼくは、そうしてじぶんをなっとくさせるのだった。そろそろ、あさがくる。るどう゛ぃこ・えいなうでぃのぴあのをききながらくーるだうんして、ひるまでねむることとしよう。
そのはなはうちにひらかむえいなうでぃがねじ(ねじ)まくようにうえこむたねの
2008-12-28
もちゅうはがき
ざっきちょう |
くれになったとじっかんするのは、もちゅうはがきがとどくことだ。こんねんは、れいねんにもましてかずおおくのもちゅうはがきがとどいた。そのほとんどは、ぼくのしっているにんからの、かぞくがなくなったためねんがじょうをえんりょするというしらせだが、ごくしょうすう、しらないにんからのもちゅうはがきもある。ぼくのしりあいがなくなったという、そのにんのかぞくからのしらせだ。
あおきそういちろうさんがなくなったというしらせも、そのひとつだった。おくさんからのもちゅうはがきによるとこんねん5がつ29にちに82としでえいみんしたという。せんご63ねん。さいごのへいしが、またひとりめいどのたびにでたことになる。
あおきさんをしゅざいしたのは3ねんまえのことだ。しがんしてだいいち4きかぶとたねよかれんしゅうなまとなったあおきさんは、ひょうごけんたからづかしのたからづかかいぐんこうくうたいにはいぞくされた。とっこうたいとしてしぬかくごだった。だが、はいせんまじかのかいぐんには、まんぞくにとべるひこうきはほとんどない。たからづかげきじょうをねぐらに、くうしゅうをさけながらやけあとのせいりやあてのないくんれんにあけくれるまいにちだった。そんなあおきさんにでばんがきた。しょうわ20ねん7がつちゅうじゅん、ほんどけっせんにそなえて、あわじしまのあながにせんかん「やましろ」のしゅほうをすえつけるこうじのはんちょうとしてのにんむだ。
これが、あおきさんをれきしのいちこまにきざむことになった。あおきさんはいっそくさきにぶじあわじしまにわたったが、つづいてとくしまのぶようからおおぜいのしょうねんへいしをのせてしゅっこうしたきはんせん「すみよしまる」がなるとかいきょうでべいぐんきのじゅうげきをうけた。ぎせいしゃ82にん。ほとんどがしょうねんへいだった。あびきょうかんのなかで、いまならちゅうがくせいかこうこうせいのねんだいのわかものがいのちをうばわれた。
あおきさんは、あわじしまがわにいて、かろうじていきのびたしょうねんや、いたいをつぎつぎとろくにあげた。ちまみれになりながらのさぎょう。ただむちゅうに、けんめいにふねとりくをおうふくした。なくなったのも、ひきあげたのもしょうねんたち。せんそうがあと2しゅうかんはやくおわっていたら、しなずにすんだしょうねんたちだ。あらためて、せんそうをおわらせなかったれんちゅうのつみふかさをおもう。
しずおかけんにしゅざいにいき、そのときのことを3じかんほどはなしてもらった。そのあと、かいどうそいのいざかやでいっぱいどうかとさそわれた。だが、そのよる、とうきょうでようじがあったため、ふほんいながらことわらざるをえなかった。あおきさんは、くるまでもよりのしんかんせんのえきまでおくってくれた。すでにですくになっていたぼくは、やすみをりようしてのしゅざいしかできないから、なんどもあうことはできない。まさに、いちごいちえだった。
あおきさんのはなしとたすけられたしょうねんへいのはなしをもとに、なるとかいきょうのひげきについて、きじをかいた。あおきさんのはなしがしんぶんきじになるのははじめてだったこともあり、「このねんれいまでいきていてよかったとただただかんしゃしております」というていねいなてがみをもらった。しゅざいさせてもらったのに、こちらがきょうしゅくしてしまうような、しかし、うれしいてがみだった。
あおきさんたちのたいけんだんは、そののち、おなじたからづかかいぐんこうくうたいですごしたしんどうかねひとかんとくのたいけんをもとにつくられたえいが『りく(おか)にあったぐんかん』(やまもとやすひろかんとく)でもしょうかいされた。たすけたあおきさんとたすけられたかとうしんぺいさんが、じっさいにしゅつえんもしている。せんそうのおろかさが、これでもかとばかりにえがかれるえいがだ。
たしかにじつにひかがくてきで、じつにせんりゃくにかけるふこうなせんそうだった。だが、そのはいけいには、いのちをかけたしょうねんたちのじゅんすいなきもちがあったことはたしかだ。あおきさんのしをいたみながら、60すうねんまえのしょうねんへいのきもちにおもいをはせた。
