2009-01-05
■The long and winding road
しょうげきをうけた。
さくねんまつにもじさつみすいをおこしており、そのきわもきにかけていた。
なんということだ。
とうだいそつ、おおくらしょうにゅうしょうし、そののちしゅうぎいんぎいんに。
TVたっくるなどのばんぐみにもしゅつえんしていた。
ぞくっぽいひょうげんだが、じんせいのかちくみだな、とおもっていたものだ。
それが、2006ねんのにせめーるじけんでいっぺん。ぎいんじしょくにおいこまれた。
あまつさえ、いのちをたたれることになってしまうとは。
ねんまつにNHKでほうそうされた「みえないことはふこうじゃない」というばんぐみをみた。
ぜんもうのふうふとそのかぞくのどきゅめんと。
むすめがふたりおり、うえのこはぜんもう、したのこはたけしつね。
つまのしかくしょうがいはいでんてきなものであり、こどもにもうけつがれるかのうせいがあった。
ぼくはつねづね、いでんせいのしょうがいがあるばあい、こどもをつくることは、あるいみざんこくなことにつながるのではないかとおもってきた。(しんしょうをわるくされたらもうしわけありません。)
でも、このふうふのすがたをみて、こころをうたれるおもいがした。
じんせいにしんしにむきあっている。しょうがいをいいわけにせず、じりつしたせいしんをもち、みのりあるじかんをすごしている。
しょくじちゅう、ちょうじょがさらをおとしてさってしまうしーんがあった。
かのじょはどうようしてしまう。もうがっこうにてどうようのけいけんをしたきわ、せんせいに「あぶないからさわらないで」とたしなめられたことがあったためだ。
そんなむすめにちちはきぜんとしじする。
「じぶんでおとしたものだ。じぶんでかたづけなさい。」
かのじょはわれたさらにふれるとけがをしてしまうとおもい、なきさけぶばかり。
ちちはむすめのてをつかみ、げきをとばす。
「じぶんでやりなさい!つよくにぎらなければけがはしない。」
ちょうじょはゆくゆく、おやもとをはなれ、じりつしたせいかつをおくることになるだろう。
そのさいのことをかんがえ、ちちはけっしてことばをゆるめない。
・・・ないてしまった。
じぶんのようにぬるまゆにつかってそだったにんげんとは、じんせいのあつみがちがいすぎる。
でも、しょうがいのじゅようとせいしんのじりつというてんでは、とてもためになるばんぐみであった。
ちなみにこのおとうさんはもうじんの100kmまらそんでにっぽんとっぷれべるのたいむをもつ。
つまは、ぜんこくでかつやくするそぷらのかしゅだ。
じんせいは、ほんとにむずかしいものだ。
やまがあり、たにがある。ことばではたやすいが、じつにけわしいみちのりがまちうけることもままあろう。
それをあらためてしらされる。
えいがをきわめているにんが、いずれどんそこにつきおとされるかもしれない。
ぜつぼうのふちにいきたえだえでいきるにんが、ぼうだいなどりょくやこううんなめぐりあわせにより、いつかかんきのなみだをながすにちもあるかもしれない。
そしてそのてんかんがあるのか?いつおこるのか?は、だれにもわからない。
そうりだいじんになってもいしゃになっても、こうふくなじんせいはかならずしもやくそくされない。
そのうらがえしで、どんなにまずしいかていにうまれても、おおきなしょうがいをだえても、みちたりたじんせいをおくることはじゅうぶんにできうる。
なんかじぶんへのえーるみたいになっちゃったな。