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にち よう ちょう

2008ねん11がつ03にち(がつ) きぬたまちまでばすにのってやまぐちかおるてん。むかいじゅんきちのあとりえにむかってあるく。

しょうごまえ。しぶやからせいじょうがくえんいきのばすにのりこむ。このばすにのるのは、ばんしゅんのにちようびのごご、きよかわたいじきねんぎゃらりーにでかけていらい(id:foujita:20080416)。きぬたさつえいじょのとうほうぷろでゅーさーかいぎにしゅっせきのため、しょうわ31ねんからきぬたにかようようになったといたやすじがのっていたばすということで、ながらくのってみたいろせんだったので、だいはしゃぎだった。これからもたまにでものりたいものだと、ふつふつとおもったところで、ふとこころにとまったのは、「きぬたまち」のていりゅうしょでげしゃすればせたがやびじゅつかんまでとほじゅうぶんだということ。こんどこのろせんにのるのはせたがやびじゅつかんいきのときになるかしらとおもって、とうじわくわくしたものだった。


そんなこんなで、きせつはめぐって、ほんじつもえにえがいたようなあきひより……といいたいところだったけれども、どんよりとどんてんのさんれんきゅうのさいしゅうび。せいじょうがくえんいきのばすは、せたがやとおりにいるとどんどんじょうきゃくがふえてゆき、「のうだいまえ」をとおりすぎると、こんどはすこしずつへってゆく。とうきょうのうだいはぶんかさいであるところの「しゅうかくさい」のまったださかでだいにぎわい。いぜんでかけた「しゅうかくさい」のたのしきついおく(じかせいわいん!)にひたっていたら、しゃないあなうんすがきぬたまちのていりゅうしょをつげていることにきづく。あわててこうしゃぼたんをおす。せたがやおろしうりしじょうとせいそうこうじょうにはさまれたさっぷうけいなみちをしばしちょくしんするうちに、きぬたこうえんのせたがやびじゅつかんのたてものがみえてきた。ぶじにたどりついて、ほっとあんしん。どんてんのした、じさんのべんとうをつかう。でざーとのみかんでかわいたのどをうるおす。



ごご1ときすぎ。せたがやびじゅつかんのきかくてんじしつにて、《やまぐちかおるてん としとでんえんのはざまで》をけんぶつ。


やまぐちかおるは1907ねんげんたかさきしにうまれ、1925えんにじょうきょう、とうきょうびじゅつがっこうににゅうがく。1930ねんとふつし、1933ねん6がつにきこく。ひとりのがかのかいこてんをみるということは、そのじだいはいけいととしふうけいにおもいをはせるということでもある。まずはそのてんでたいへんむねがわくわく、《どうぶつえんのふうけい》(1928ねん)をみて、これも「とうきょうふうけいし」のひとつだなあといっさくじつにでかけたうえののことをおもいだしたり、すずきしんたろうによるどうじだいのせいぶつがをほうふつとさせるつやつやとしたしきさいとぞうけいのおもしろさにみとれたり、どうにゅうぶからさっそく、えをみるたのしみにうきうき。せんごになると、そうさくにますますあぶらがのって、かれどくじのひょうげんをふかめてゆく、そのかていがじつにすばらしいのだった。いちまいいちまいのさくひんをひたすらみつめる。さくひんをじけいれつにてんじしつつ、「こうずから」とだいしたこーなーやしょうひんとすいさいをあつめたしょうとくしゅうがそうにゅうするというしんぷるなてんじこうせいがたいへんこのましかった。


てんらんかいぜんたいをふりかえってみると、ただたんじゅんにやまぐちかおるのぞうけいとしきさいがすきだなあと、いちまいいちまいのえにみとれてばかりだった。さいごのいちまいのえをみたあとも、じゅんろをぎゃっこうしてなんどかいきつもどりつして、てんらんかいのくうかんのけうなひとときをしんたいにしみこませる。そふぁでてにしたずろくのかんとうのさかいただしやすしかんちょうのぶんしょうに、「せいじゃくなふんいきのただようかんかくのさわやかさ」、「1930ねんだいから1960ねんだいのもだーんなぞうけいかんかくのおもむくままに」というくだりがあって、そうそうとうなずくことしきり。やまぐちかおるのえをみているじかんは、なにがしかのすきなしのことばのひとつひとつ、およびそのつらなりにみをまかせているかんかくのようだ。……というようなこともけっきょくのところ、やまぐちかおるのえをみているうちにどうでもよくなってくるのがそうかいなのだった。ただえをみているだけでいい。さいごはすとんと、ここにえがあるだけでいい、というきもちになる。



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やまぐちかおる《かすみくさ》(1947ねん)、すゆきないとおる『かえりたいふうけい』(しんちょうしゃ、しょうわ55ねん11がつ30にち)くちえより。「なかのさかうえのこおろぎ」というぶんしょうで、すゆきないとおるがこのえをしめして、《えというものはこういうものなのだ、えがくということはいがいになんのもくてきもせいこころもない、こういうふうにえがくことがえをえがくということだ、えにひつようなのはえだけ、それいがいはすべてゆうがいむえきのざつおんみたいにすぎない》というふうにいいたかった、というくだりがある。そして、《「かすみくさ」をみていると、わたしはふしぎに、いまじぶんはひとりだというきがする。いいえはみなそうなのかもしれない》というふうにむすんでいる。



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せたがやびじゅつかんhttp://www.setagayaartmuseum.or.jp/)で11がつ3にちから12がつ23にちまでかいさいの、《やまぐちかおるてん としとでんえんのはざまで》のちらしには、しにさいしてえがかれた《おぼろがつにりんぶするこどもたち》(1968ねん)がつかわれている。こんかいのてんらんかいのさいごにみることになるえ。なにひつかん・きょうとげんだいびじゅつかん(http://www.kahitsukan.or.jp/frame.html)へじかいのきょうといきのさいにでかけようとおもっているところ。



ひるさがり。つぎは、むかいじゅんきちあとりえかんをけんぶつすべく、げんまきかいわいへでかけるけいかくだった。こうていはどうしようかしらとじさんのくぶんちずをさんしょうすると、あるいて1じかんほどでいけそう。せっかくのどんてんなので(しがいせんがけいげん)、あるいてゆくとするかと、きぬたこうえんをとおりぬけて、かんぱちをおうだんして、てくてくとひたすらあるきつづける。このあたりのみちをあるくのははじめて。どうろぞいいのこうがいのさっぷうけいなまちなみがそこはかとなくこころさびしいのだったが、さくらしんまちにさしかかると、ぜんからしっているまちなので、なんとなくきもちがあかるくなる。さくらしんまちにいると、きゅうにまちなみがしゃれてくるのだった。ちょいとつかれたので、とおりがかりのどとーるでひとやすみ。


くろとうくるみをかじってこーひーをすすりながら、きのうのささましょてんで840えんでかった、うみのひろし『しつないのとし 36のへやのものがたり』すまいがくたいけい028(すまいのとしょかんしゅっぱんきょく、1990ねん4がつ20にち)をくる。うみのひろしこれくしょん3『あるいて、みて、かいて―わたしの100さつのほんのたび』みぎぶんしょいん(asin:4842100656)をかんこうちょくごにほくほくとよんだときはじめてしったほんで、さっそくよんでみたいとこころにきざんだほんのひとつだった。ほとんどわすれかけていたところで、きのうささまでひょいとてにしたしだいだった。じょん・ごーるずわーじーが1917ねんにかいたしょうせつ、『じんせいのこはるびより』をびきながら、《しょさいにかざったえをみながら、かんがえごとをするというのは、しょさいにおけるえのあるやくわりをかたっているのかもしれない》うんぬんというくだりで、ふとさきほどのてんらんかいでみたやまぐちかおるのしょうひんをおもいだして、しばしほうしんする。こじんのくうかんにかざられたえのこと、てんらんかいばのえとはちがうふだんぎのさっかをほうふつとさせるしょうひんのこと。《かきのあき》というえのことをおもいだす。



そんなこんなで、きょうもどとーるにながいしてしまった。「う゛ぃよん」でおみやげのばーむくーへんをかって、ふたたびげんまきにむかって、てくてくあるいて、ようやくつぎなるもくてきち、むかいじゅんきちあとりえかんにたどりついた。


せたがやびじゅつかんはきぬたこうえんの「ほんかん」とともに、みやもとさぶろうきねんびじゅつかん(http://www.miyamotosaburo-annex.jp/)、きよかわたいじきねんぎゃらりー(http://www.kiyokawataiji-annex.jp/)、むかいじゅんきちあとりえかん(http://www.mukaijunkichi-annex.jp/)として、3つの「ぶんかん」をゆうしている。いずれもがかのきゅうきょ(みやもとさぶろうはあとち)がそのまませたがやくにきぞうされたもので、みやもとさぶろうときよかわたいじはいずれもいぜんでかけたおり、ささやかながらもしばしのみちたりたじかんをすごすことができたので、さいごの1つ、むかいじゅんきちにもでかけたいものだとおもっていたのだったが、なかなかきかいがめぐってこなかった。いっかんしてこみんかをえがいていたことでしられるがかで、えそのものにあんまりきょうかんがわかなかったということがあったのだけれども、こんしゅうは《しょせきのしごと むかいじゅんきちのばあい》とだいしたてんらんかいがもよおされるというので、「おっ」とけんあんのむかいじゅんきちあとりえかんにでかけるぜっこうのきかいだとおおいによろこんだしだいであった。


というようなわけで、むかいじゅんきちのあとりえへやってきたのだったが、そのしきちぜんたいがなかなかけうなくうかんとなっていて、もんからいりぐちのとびらへのかずあるからしてすばらしかった。ぎいっととびらをおしてにゅうじょうりょう200えんをはらって、あとりえにいる。きよかわたいじきねんぎゃらりーとおんなじように、あとりえのくうかんがいかにもがかそのにんをほうふつとさせるかんじで、くうかんにいあわせるだけでみちたりたきもち。ああ、きてよかったとふつふつとうれしいのだった。てんじそのものもきたいどおりにまんきつ。くうかん、てんじりょうほうをおおいにたのしんだ。


びじゅつかとほんないししゅっぱんとのかんれんをみるのは、いつもそれだけできょうみぶかい。てんじはせんごがしゅで、むかいじゅんきちのばあいもはいせんごのざっしじゃーなりずむのもりあがりとともにしごとをふやしていっったさまがうかがえて、そのてんじぶつをあれこれぎょうし。しょうわ22ねんの「ふじんあさひ」にある、《まちにみるかみかたち》というかっとがすてきだった。かわいでしんしょのかんばやしあかつき『にゅうしゃしけん』(しょうわ30ねん)をみて、むらむらとぶつよくがしげきされる。ほんのてんらんかいのたびにぶつよくでそわそわしてしまうのはこまったものだ(でもほしい!)。2かいにさしえのてんじがあり、くわしいせつめいはなかったのだけれど、あ、このえはどうとんぼりのしょうちくざをえがいたものかしらと、いちもくみてこころうばわれたえがあった。かくにんすると、『おおばん』のさしえだという。「しゅうかんあさひ」の『おおばん』については、5ねんいじょうもまえにやまもとためさぶろうの『じょうほういまとむかし』をかったおり、なにかとむねおどらせていたものだったとなつかしい(とうじのわがきろく:http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/days/image/2003-01_28.html ←いずれもすでにわがしょだなにはのこっていない。とおいめ……)。「ふじんあさひ」ともどもしょうわ30ねんだいまでのざっしじゃーなりずむあれこれについて、いろいろとしげきをうけたのもたのしいことだった。1かいのろびーにこしかけて、にわをながめるひとときもなかなかのものだった。



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わがしょかにあるたぶんゆいいつのむかいじゅんきちのそうていほん。ひらたはげきしぇいくすぴあものがたり』(ぶんひさしどうしゅっぱんぶ、しょうわ22ねん4がつ30にち)。すうかげつまえのごたんだこしょてんでどうしてもかいたいものがみつからず、むりやりかったほん(300えん)。こんかいのてんらんかいでは、「いわなみしょうねんしょうじょせかいぶんがくぜんしゅう」のらむ/のがみやよいこわけ『しぇいくすぴあものがたり』がてんじされていて、このほんのことをおもいだした。こちらはらむのほんやくではなくて、ひらたはげきじしんがしょうねんしょうじょようにものがたりになおしたもの。



むかいじゅんきちあとりえかんですっかりみちたりたきもちになって、もときたみちをもどってばすとおりにでる。とうしょのよていでは、このままちょくしんしてせたがやとおりまででてそぼのねむるおてらでおはかまいりをしたあとせたがやせん、というよていでいたのだけれども、ちょうどしぶやいきのばすがやってくるのがしかいにいっった。ばすにのって、ほんじつのしゅっぱつち、しぶやにもどってみると、にちぼつまでにはまだだいぶじかんがあった。

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