あけましておめでとうございます。
しんねんそうそう、きゅうゆうからかりうけた『ぎゃらくてぃか』をみてうつとしたきぶんになったり、がんたんだというのにあまぞんからにもつがとどいてぺりかんびんのおじさんにもうしわけなくおもったり(でもってとどいたのは『ゆりせいじんなおこさん』の2かんだったりする……)と、のどかにすごしているむらかみです。
みなさまがたにおかれましては、2009ねんが「うわー」とか「あれー」とか「ひぎゃー」とかなんない、それなりにあんおんなねんであることをおいのりしております。
さて、ほんだい。
うちみたいなちょうへきちにおたちよりのほうなら、えいがれびゅーけいさいとのごひいきもいくつかおもちであろう。
おそらく「2008ねんはきろくやぶりのりょうさくそろいだった」といったかんがいは、もはやあきるほどめにしていることだとおもうが、やっぱりうちでもそうかかずにはいられない、いっしゅいようないちねんであった。
しごととかていをだえたちゅうねんおとこのみのうえなれば、しゅうに2ほんいじょうもげきじょうかよいするのは(じかんてきにもけいざいてきにも)しょうじきけっこうなふかではあったが、こうやってれいねんとおり、ねんかんべすとのせんしゅつなんておあそびきかくをやっていると、ならんださくひんたいとるのきらほしのごときごうかさに「2008ねんというこのねんに、えいがをみるにんでいることができて、ほんとうによかった」としみじみよろこびをかみしめずにはいられない。
こじんてきにも2008ねんは、うまれてはじめてねんかんげきじょうかんしょうほんすうが100ほんをこえる(がくせいじだいだって3けたはいったことなかった)というじゅうじつしたいちねんだった。ま、それもこれも、めずらしくしごとによゆうがあったからというだけのはなしで、こんねんはれいねんぺーすがいじできればいいなぁ、といったところだろう。
とまぁ、まえおきはどうでもいくて……。
べすと10なんていって、とてもじゃないけど10ほんだけなんてえらべないのよ!(きゅうわらい)
というわけで、いっさくさくねんにひきつづき、せいきのべすと10いがいに、これだけはどうしてもすてるにおしいというさくひんたちのみで、けいこうべつに5つのばんがいべすと3をえらんでみたので、まずはそちらからごかくにんを。
● にんのしたづみをわらうな! ほうがのそこぢからべすと3 ●
さつえいじょしすてむほうかいのちいくせいそう、あらたなすてーじにいりつつあるほんぽうえいがかいのそうのあつさをさいにんしきさせてくれた、きたいのしんえいたち。
『きゅうか』@もんいはじめ
らすとのじょうちょうさにわかさがでたけど、だいざいといいえんぎのひきだしほうといい、ろうれんなてわざとひょうかしていい。
『もうそうしょうじょおたくけい』@ほりていいち
このつぎのさくひんがけっこうやっつけしごとぽかったときいてこくくざんねんにおもっている。
『あおいとり』@なかにしけんじ
たんせいにしてまよいのないうつくしいしょさをおもわせる、せいせいどうどうのえんしゅつ。しょじょさくにしてきょしょうのふうかくさえかんじられる。
● えいがすきによるえいがのえいがべすと3 ●
ちょくせつくちにしたらどんびきってわかっているけど、それでもつたえずにはいられないおもいのたけを、それぞれのほうほうであぷろーちしためいさくたち。ずばり、てーまはめです。
『ほっと・ふぁず おれたちすーぱーぽりすめん!』@えどがー・らいと
うぉー! ともりあがるところがさいだいのなかせぽいんとっていうのも、あくしょんえいがあいのたまものだとおもう。
『ぼくらのみらいにぎゃくかいてん』@みしぇる・ごんどりー
しょうじきこんかいもびみょうなごんどりーふしなんだが、あいのふかさではまけてない、ということで。このにんのばあいあいのうざさもあるんだけどね。
『とろぴっく・さんだー しじょうさいていのさくせん』@べん・すてぃーらー
これのかんそうをかけなかったのはさくねんのつうこんこと。きわめてまっとうかつちょっきゅうしょうぶのよいえいが。
● だめにんげんとよばないでべすと3 ●
えいがのできふできとはべつじげんで、いつまでもだいじにおもっていきたいしんみつなさくひん。いやそれ、じぶんがだめにんげんだからってこくはくにしかなってないな。
でてくるにんたちひとりのこらずだめなにん。であるにもかかわらず、みごとにくっせつしていないふっ切れほうがここちよい。
『じぇりーふぃっしゅ』@えどがー・けれっと&しーら・げふぃん
おろかなおんなのじつれいならばまいきょにひまがないが、だめなじょし(あるいはだめだとおもっているじょし)って、こういうめんたりてぃなのかとしみじみわかった
『いざべら』@ぱん・ほーちょん
にほんごじまくそふとのはつばいをこころからねがう。とりあえず1がつにしねまーとでこうかいするので、きょうみがあればぜひ!
● どうていとしょじょのばんかべすと3 ●
ふわくをこえたってちゅうがくせいのむすめがいたって、せいしんてきなどうていきしつはなおらないんです、てはなしをしたら、じょしにおもいっきりひかれた。そんなかなしいおやじのこころのささえたち。
『ぐみ・ちょこれーと・ぱいん』@けらりーの・さんどろう゛ぃっち
おとこはつらいし、
『じゃーまん+あめ』@よこはまさとこ
おんなもつらい、
『おれたちにあしたはないっす』@たなだゆき
おとことおんなじゃなおつらい。それでいいのさ、いいんだよ、あうもわかれもゆめんなか。
● もんくがいえないめいさくのべすと3 ●
これをらんくいんさせておかないと、えいがぶろがーとしてのししつじたいをうたがわれかねないといういっしゅのえくすきゅーず。
こーえんきょうだいのこっちのらいんなら『ふぁーご』にとめをさすでしょ、といういいわけ。
『ぜあ・うぃるびー・ぶらっど』@ぽーる・とーます・あんだーそん
ゆでんをほりあてるまでなら、らぴゅたのてでぃすぜめまでとならんで、しょうがいさいこうのえいがにしてもよいです、といういいわけ。
これはほんとうにすきだしかんしんしたえいがだけど、これいじょうのけっさくがあまりにおおすぎました。
というわけで、かぎりなくごーじゃすなぜんざをへて、もったいぶってはっぴょうするべすと10。
いやしかし、れいせいにみると、2008ねんのこうかいさくから、このくみあわせでこの10ほんをえらぶにんって、やっぱちょっとへんだわ。
ちゅうこうせいのじさつにかんするほうどうえいぞうなどで、しんみょうなかおをしたかんぶきょういんたちがでてきて「ほんこうにいじめはなかった」などとはつげんするようすをめにするたび、いつもきょうれつないわかんをもたずにいられなかった。
がいとうするこじんにかんしていじめがあったかなかったかというにんていならばいざしらず、がっこうないにいじめそのものがいっさいそんざいしないなどというじたいはぜったいにありえない。にんげんがしゃかいてきせいぶつとしてつながっていくかぎり、あくいをもってあいてのじんかくをそこねようとするこういは、ぜったいになくならない。おとなしゃかいのなかにだってとうぜんいじめはあるし、くにとくにのかんでだっていじめはある。きょくたんなはなし、ふくすうのにんげんがどういつくうかんにそんざいすれば、ひつぜんてきにいじめもはっせいするのだ。
にもかかわらず「いじめはない」などというげんちをおおまじめでくちにしているのだとすれば、そのじんぶつは《すくいようのないむしんけい》というきゅうきょくのあくいをもって、じぶんじしんもいじめにかたんしているというじじつを、かたるにおちたもおなじであろう。
そのちゅうがっこうはへいおんなまいにちをとりもどしつつあった。すうかげつまえ、いじめをくにしてじさつをはかりみすいにおわったのぐちというせいとは、いっかそろっていずこともしれぬべつのまちへとひっこしていった。《かがいしゃ》というれってるをはられたくらすめいとたちは、げんこうようし5まいいじょうときめられたはんせいぶんをていしゅつし、がっこうがわも「あいてをおもいやるきょういく」をはたがしらに、さいしゅっぱつをあぴーるするのによねんがなかった。
そんななか、いちれんのそうどうをくにしてきゅうしょくしたたんにんきょうしのかわりに、ひじょうきんこうしのむらうちがもんだいくらすにはけんされる。きょくどのきつおんをもつむらうちは「そのかわりにほんきではなします」とせんげんするや、しょぶんされたのぐちのつくえをきょうしつにはこびこみ「こんにちは、のぐちくん」とはなしかけはじめた。
というわけで、ほんさくは「いじめはなかった」といったるいのれとりっくにひそむぎまんをてっていてきにゆるさないそんざいが、きょういくのげんばになげこまれたらどうなるか? というめいだいをつきづめたえいがである。あべひろしえんじるむらうちというきょうしのこうどうはあまりにかげきで、それだけをとりだせばりありてぃかいむのしこうじっけんてきいんしょうさえあたえかねないが、《ものがたりてきなもりあげ》と《こちょうされたきゃらくたー》をきょくげんまではいじょして、ひょうめんじょうはあくまでもたんたんとすすむけんじつなえんしゅつによって、ちにあしのついたりありてぃをもってうったえかけてくるさくひんになった。
たんたんと、とはかいたものの、それはけっしてたいくつをいみしてはいない。いくつものじゅうようなかーどをふせたまましんこうするものがたりは、むらうちのこういによってしだいにたかまるきょうしつないのふおんなくうきとしんくろすることで、くるしいほどのあっぱくかんをかんきゃくにあたえつづける。かんとくのなかにしけんじは、ほんさくがしょうぎょうえいがでびゅーつくということだが、こけおどしにたよらないせいとうはのえんしゅつを、みじんのまよいもみせずにつらぬいたしゅわんは、すでにしてべてらんのふうかくさえかんじさせた。
むらうちきょうゆのせいとたちへのあぷろーちをひょうして、きょうしとしてのしゅわんにぎもんをていするのは、もっともなはんのうではあるものの、おおいにすじちがいであることはいなめない。
さくちゅうでぐたいてきにかたられることはないが、おりにふれむらうちがなつからとりだすしゃしんにみられる、「ど〜んとこ〜い」とでもいいだしかねないじしんまんまんなひょうじょうをしたわかきにちのかのすがたと、かんぷうふきすさぶがっこうのおくじょうでぎりぎりとこぶしをにぎりしめるげんざいのたいひをめにすれば、そのかこになにがおこったのかは、ほとんどめいはくになったもおなじだ。
いちめんをとりだせば、それじたいもせいきゅうでひとりよがりなぶぶんもあるむらうちのこうどうが、それでもひとにぎりのせいとたちのこころになにかをのこしていったのは、むらうちがきょうしであろうとするいぜんに、じぶんのなしたこういのせきにんからけっしてめをそむけずにいきる、ひとりのにんげんにすぎなかったからにほかならないとおもう。
mystery のやくごとしてもっともてきせつなものは「すいりしょうせつ」というのがていせつだろう。
とはいえ、たんじゅんにならべられたじょうけんから「すいり」をしてしんそうにみちびくだけのしょうせつでは、おそらくだれもまんぞくすることはないはずだ。ほんかくみすてりのていぎとして、ふぇあぷれいのげんそくをあげるむきもすくなくないだろうが、どんなにさくちゅうのきじゅつにきゃっかんせいがたもたれていたところで、みためどおりに1+1=2というかいけつがみちびかれることに、こうふんをかんじるどくしゃがいるとはおもえない。
がぞうをみてもらいたい。
これはとうきょうろーかるの12ちゃんねるで、こうはくうらばんぐみとしておおみそかにほうそうしている、くらしっくのとしこしこんさーとのぽすたーである。
ずらりとならんだしゅつえんしゃたちのうち、りょうたんにいちするのはしかいやくのはいゆうNと、しきしゃのI。まがうことなくはげである。
このじじつをしるしたうえで、はげであることのかなしみやよろこび(そんなものがあるとすれば、だが)をとったものがしぜんしゅぎてきな「しょうせつ」だとすれば、このがぞうのなかから「かくされたなんらかのしんじつ」をよみとり、「いがいなけつまつ」へとみちびくのが「すいりしょうせつ」である。
というわけで、しゅつえんしゃたちのがぞうをよくみていると、ひとりだけぼうしをかぶったおとこがいることにきがつく。う゛ぁいおりにすとのFだ。
いっけんすると、いじょうのことから「このがぞうのなかには、さんにんのはげがいる」とけつろんづければ、すいりしょうせつのいっちょうあがりのようにおもわれる。にゅうねんなかんさつにもとづいたすいりによってかいけつがみちびかれるといういみでは、すいりしょうせつのていぎはすでにしてみたされているからだ。
にもかかわらず、だれもがそれではなっとくしないだろう、とかんじられてしまうのは、ぼうしのおとこ=じつははげというてんかいが、じゅうにぶんにろじかるだったとしても、いがいせいといういみではまったくありきたりのけつろんであるからにほかならない。
それでは、とふたたびがぞうをにゅうねんにかんさつしてみよう。
すると、しきしゃIとう゛ぁいおりにすとFのまには、はげではないにんがはさまれていることにきづかされる。
あるいはこれは、しゅつえんしゃのならびじゅんになんらかのきそくせいがあるしょうこなのではないか? そうおもってよりよくかんさつをすすめると、う゛ぁいおりにすとFとはいゆうのNのまには、3にんのにんげんがはさまれていることにきがつく。
いじょうのことから、「このがぞうではきすうばんごうのところにははげのにんげんがうつっている」というほうそくせいをすいりして「ひだりからごばんめにいちするばれりーなのUも、じつははげなのだ」というかいけつをみちびきだしたとしたらどうだろう? だいぶ、はなしがみすてりらしくなってきたとかんじないだろうか。
どこからみてもはげにはみえないのにじつははげというじょうきょうは、ぼうしのおとこ=じつははげよりよっぽどみすてりらしくかんじられる。ようするにみすてりにとってじゅうようなのは、ろじっくよりもいがいせいなのだ。
それがどんなにいようなけつろんであっても、ろじっくとのたいらそくがたもたれているかぎりは、ゆいいつむにのしんそうであるというくりしぇは、ほんかくみすてりでよくめにするものだが、そこにいわれるろじっくは、あくまでもさくちゅうでたんていがしんじつとみとめたけつまつにとうたつするためのろじっくであって、かならずしもげんじつせかいでつうようするひつようはない。
ほんかくのほんかくたるゆえんは、1+1=3あるいは1+1=Aといった、およそろじかるとはいいがたい「すいり」に、どれほどのりありてぃがふよされているかというてんにこそかかっているのだとおもう。ようするにみすてりのおもしろさは、ひとえにこの「ありえないろじっくにどうやってりありてぃをあたえるか」というてんにかんして、そのさくしゃならではのどくじのてくせをはっきする「かたりのてくにっく」にいぞんするものなのだ。
ぜんじゅつのれいでいうならば、うつくしいじょせいのがいかんをもったばれりーなUは、じっさいにははげのだんせいだった、というけつろんをみちびくために、かれがじょそうをしていちりゅうのばれりーなとなるにいたったけいいにかんしてこうみょうきわまりないふくせんをはっておくのがえらりぃ・くぃーん。そのきんだいてきなばりえーしょんとして、ふくそうとうさくやびようせいけいといったものがたりようそをたくみにもりこむのがありすがわありすといったところか。
おなじおうごんきさっかでもでぃくすん・かーであれば、しんれいしゃしんをえんようしておかるとふうみのあじつけをするだろうし、くりすてぃともなると、じつはしゃしんにうつっているのはぜんいんはげだった、あるいはかめらまんもはげだったというはなれわざをひねりだしそうだ。
ばれりーなUはとくしゅないでんししっかんのもちぬしではげになってしまったのだとすればしまだしょうじだし、じつはかのじょはそもそもにんげんではなかったとすればあやつじぎょうにん。にたまごせいそうせいじではげのあにきとふたりひとやくをえんじていたが、さつえいじきにはほんにんがうつっていたので、ほんとうははげじゃなかったとすればごうげつりんたろう。ようかいあでらんすのしわざだとすればきょうごくなつひこ。いちおくすべつるっぱげじけんならせいりょういんりゅうすい。しゅつえんしゃぜんいんでじんるいさいきょうをかけたばとるがはじまるのはにしおいしん。いしのちからではげだってふさふさになるのがまいしろおうたろう。
きょうもどこかでみすてりさっかは、ありえないろじっくをありえないといわせないために、ぜんしんぜんれいをかけてあらたなそうさくにとりくんでいるのだろう。
いやあ、みすてりて、ほんとうにおもしろいものなんですね。
ちなみにおれじしん、にげもかくれもしないはげなので、とうがいてきすとがもうはつのふじゆうなだんせいをべっししているというくじょうはいっさいうけつけないからそのつもりで。
じぶんでもよそうがいにたのしくよめたのでおどろいてしまった。
おそらくこれ、いぜんのわたしであったら、かんないにしかけられたびっくりはこのかずかずがとりっくにむすびついてこないてんとか、そもそも《びっくりかん》であるひつぜんせいがまったくないこうせいとかを、もうれつなきょうざめとかんじたはずだけど、おそらくそれって、ななめでなければまったくいみがないななめやしきのはんざいとか、ほんじんであることがてーまとふかぶんになっているほんじんさつじんじけんとかをきじゅんにかんがえていただけで、あやつじにとってそういうぶぶんはわとどうでもよいことなんだとわかったいまでは、すこしもまいなすようそにならなかったのだろう。
あやつじのとりっくはいつも「ふぇあかあんふぇあかととわれれば、たしかにあんふぇあじゃないけど、しんじょうてきにはまったくもってなっとくがいかねぇ!」といったかんじのいじのわるさにみちているのだが、こんかいのいけしゃーしゃーとしただましっぷりは『どんどんはし、おちた』とならびしょうされるはなれわざといえよう。ここまでくると、どうあってもえいぞうかふかのうなさくひんをつくりあげようというくらいじょうねつにつきうごかされているとしかおもえないくらいだ。
それならばどこがそんなにたのしくよめたのかととわれれば、「まったくもってなっとくがいかねぇ!」しんそうを、さくひんないではきっちりとたいらそくのあったものにするために、さくしゃがしかけたさまざまなくふうそれじたいがばつぐんにおもしろくかんじられたのだ。とりわけほんさくでは、かくきゃらくたーのにんげんせいやそのかこのけいけんまでもが、ほわい・だにっとのかくとなるもちべーしょんをかくりつするために、ぎゃくさんされてつくられているというじじつにりつぜんとしてしまった。
きゃらくたーそのものがみすてりとしてのしかけにほうしするようそにすぎないというすたんすは、でびゅーさくである『じゅうかくのだてのさつじん』とちっともかわっていないわけだが、こうまで「しょうせつとしてのおもしろさ」がこうじょうしているというじじつには、すなおにかんしんしてしまった。
それにしても、よみてがわのいしきがかわったおかげか、さいきんではみすてりをよむたのしみが、ものがたりそのもののおもしろさよりも、しょせんはえそらごとにすぎないなぞときになんとかしてげんじつみをもたせようとして、さくしゃがどんなかぜにくふうをこらしているかというてくせみたいなものをよみとくことにいこうしていっているようなきがする。
きわめてかんかくてきなひょうげんだが、あやつじのそれは「ひっくりかえし」で、ありすがわのばあいは「ずらし」、しまそうは「きょくだいか」で、ごうげつやかさいは「ふくざつか」みたいなきがするのだが、うーん、うまくまとまらない。
というわけであしたは、もうちょっとつっこんでみすてりろんをてんかいします。
くら
ちゅうがくせいくらいだったら、おもしろくよめる(みすてりどくしゃのてきせいがあればですけど)んではないでしょうか。わたしもちゅうがくせいくらいからあやつじさくひんよんでましたし。ほんさくはかんがとりっくにからまないところがぽいんとなんですよね。だからこそほんかくどがたかいかなとおもいました。
>しまそうは「きょくだいか」
それはすごくなっとくです(わらい)
きな
>ごうげつやかさいは「ふくざつか」
こんめいかとも?(わらい)
しゅってんもとのみすてりーらんどしりーず、じもとのとしょかんではじどうしょ(YAふくむ)じゃなくていっぱんしょあつかいなんですよー。
わかってないのか、それとも「おとなのほんどくんでみよう」とまよいこんできたこのためにか(こうしゃであるのをきたい)。
>えいぞうかふかのうなさくひん
ぜんぶを○○げきにしたらいける(わらい)←ねたばれしないようにとおもったらいみがわからない^^
それはともかく、いまだにほんかくとへんかくのきょうかいせんがよくわかりません…
fripp-m
くらさん、こんばんは〜。
どうでしょう、ほんさくのとりっくって、じつげんかのうせいうんぬんとびこして、さくしゃのたくらみをおもしろがるぶぶんにとっかしたかんじがするので、ちゅうがくせいくらいだとかえって「ありえねぇ!」っていかりだしちゃうのじゃないかしら。しょうがくせいくらいならすなおにおどろくだろうけど、それにしてはないようがけんのんすぎるかんじだし。ま、それいっっちゃうとこのしりーず、ほんとうによいこにすすめてもんだいないのはありすがわせんせといがいにもごうげつくらいのようなきもします。
きなさん、こんばんは〜。
けっきょくのところ、このきかくじたいも、じだいのみすてりふぁんをそだてるというよりは、へんしゅうしゃのしゅみせいをまんぞくさせるため、てなそくめんがつよくなっちゃったようなきがしますね。いがいとほんきのしんききゃくかいたくは、あおいとりぶんこにぞくぞくらいんなっぷなかのみやべせんせがはたしてくれているのかも。
>ぜんぶを○○げきにしたらいける
いやそれ、かなりしゅーるだわ。ていうか、うまくするとものすごくてつがくてきかつてーまてきにもひねりのきいた、ぜつみょうのえいがかになるかもしれません。
さびれたこうわんとしにあるはいこうすんぜんのちゅうがっこうでびかいいんをつとめるさかなにゅうよしおは、おうねんのみゅーじかるえいがをDVDでみるのがだいすきなおとこのこ。くちべただけどきまじめなよしおは、きょうもほうかごひとりのこってこうないせいそうによねんがない。そんなかのまえのまえに、じゅんぱくのこすちゅーむにみをつつんだびしょうじょ・ころもまいがあらわれる。あまりにもきゅーとなそのすがたによしおはいちもくでこいにおちるが、びしょうじょころもまはつめたいかおで「わたしにはにんむがある」とつぶやくや、いきなりてにしたこうせんじゅうをらんしゃしはじめた。
とかいてしまうと、いったいどこのらのべかしんやあにめかといったぷろっとにおもえるが、でぃずにー+ぴくさーいんのりっぱなでーとむーびーたるほんさくをほねぐみれべるにまでかいたいすると、じょうきのごときありがちなおたくだんしのもうそうすとーりーがうかびあがってくる。とりわけいぶというひろいんがみせるおうどうてきなまでのつんでれぶりには、じゃぱにめーしょんのかこしさんとのきょうれつなでじゃう゛ゅーをかんじてならなかった。
もちろんそれは、ぱくりだのおまーじゅだのといったはなしにかんげんされるもんだいではない。かくしょにてささやかれる『かぜのたにのなうしか』とのるいじせいにしたって、きわめてひょうそうてきなれべるにしゅうししているわけで(ものがたりてきにいうならばほんさくは、さんらいずせいさくのろぼっとあにめ『せんとうめか ざぶんぐる』にこそよりちかい)われわれがここでちゅうもくすべきは、もはやにっぽんのおたくとあめりかのなーどのまには、ぶんかてきはいけいによるしゅみしこうのさいなどほとんどそんざいしないのだというぶぶんだとおもう。
けれどもそういったかぜに、ほとんどおなじしゅっぱつてんからはじまったそうさくが、にっぽんではまにあのかんでのみつうようするしょうひざいとしてげんていさせるのにくらべて、ろうじゃくだんじょだれもがひとしくむちゅうになれる、ごくじょうのぜんほうこうせいえんたーていんめんとにしあがってしまうというのがあめりかん・くおりてぃ。けっきょくのところりょうしゃには、みためうえでてんとちほどのひらきがあるようないんしょうをあたえるのだ。
かんがえてみればぐろーばりぜーしょんといったところで、よろこんでそれをうけいれるせかいなくしてはせいりつしないわけで、なによりもみばえのよさとかいてきさをついきゅうするあめりかてきなかちかんは、いつだってこんなちょうしで「こころおどらせるすてきなもの」としてわれわれのがんぜんにすがたをあらわしてきたのだろう。
ぐろーばるかのちゅうしんとして、ぜんちきゅうとがっしゅうこくをなちゅらるにどういつししてしまうのがあめりかにんのめんたりてぃだとするならば、ほんさくにえがかれるものがたりは、ごみどうぜんのありさまになったそこくのけいざいを、ちにあしをつけてもういちどたてなおそう、というしごくまえむきなめっせーじとしてうけとられるはずだ。そのためのよすがとなるものが、すうぃんぐじゃずのめいきょくや、はなやかなみゅーじかるえいが、あるいは《さいごのかいたくち》にたびだったうちゅうかんたいのせんちょうといった、あめりかのはんえいをしょうちょうするぶんかいさんだというあたりも、おおいにかれらのじそんしんをくすぐってくれるのだろう。
そういういみでいうならばこれは、こうねんかならずや《きせきのう゛ぃんてーじ》としてめいをのこすであろうめいさくらっしゅとなった2008ねんにおいて、PTAやこーえんきょうだいやC・のーらんのさくひんがそうであったように、かのくにのだえる《げんざい》のくうきかんをのうこうにはんえいさせた、きわめてじゅんどのたかい《あめりかえいが》であるといえそうだ。
いや、べつにふしているわけではぜんぜんなくて、そういうしゅつじをもつさくひんであるはずなのに、ずいしょにぐっとくるばめんがあって、さいごにはかくじつにこうふくなきぶんになってしまうというじじつが、それじたいであめりかぶんかのしんとうせいのふかさをしょうめいしているよなぁ、というはなしなのである。
きな
あのー。わたしにはだいすきでいとしいえいがだったんですが…^^
いう゛。ここまでせんれんされたつんでれをみせられると、やっぱりがんそがわとしてはちょっとはなしろんじゃいます?(わらい)
おおきなおともだちむけをおーるまいてぃーきゃらにへんかんさせるにあたって、せいてきあいこんをこうみょうにはずす、そのせいてきあいこんのなかに「こえ(はっせい・こえしつそのほかもろもろ)」がいっっているところ。「ぴくしーおそるべし!」でした。
きゅろらきゅろらとうぉーりーがでてきたしゅんかんからくぎづけでした。いったいどこまでしんかするんだぴくしー。
しかしだいしほんにここまでやられてしまうと、いわゆるあにめーしょんさっか(じゃぱにめーしょんてきじゃないあにめーしょんね)にとってもきょういだろうなぁ、とも。
>きわめてじゅんどのたかい《あめりかえいが》
ほんとおっしゃるとおりだとおもいます。そして(にもかかわらず、かな)7だいめかんちょうのむちゃにもほどがあるらくてんてきなけつだんに、うっかりなみだぐんでしまいました^^。わたしね、こういうさくひんがでてくるから、いろいろあってもあめりかってくにをどうしてもきらいになれないんです^^
それにしても「うぉーりー」と「えぐざいる」をおなじがつにみられるって。どんだけほうじょうなんだこんねんはってはなしですよ!
(そしてきょうからさいごのなみが<ひっさこするかけい^^)
fripp-m
きなさん、こんばんは〜。
あー、たしかに。うえのぶんしょう、えいがのできそのものにたいしてはたしかにほめてるけど、だいすきであいおしいってかんじはあんまりしませんなぁ。
いや、でもこれ、いいわけでもなんでもなく、おおいにたのしんだしなみだぐんだところもなにかところもあったんですよ。
とくにえんど・くれじっとがさいこうで、あれはいっぽうでじんるいにおけるかいがひょうげんのれきしにもなっていて、そいでもってさいごはしょきのCGになってまくというあたりに、じぶんたちがつくったこのさくひんが、いまはそのさいせんたんをはしっているというつくりてがわのしずかなじしんがかんじられて、ほんとうにどきどきしました。(あとぴーがぶふしもね)
なんとなくてきすとがしゃにかまえたいんしょうをあたえるのは、だからたぶん、これほどすごいえいがなんだから、なにもわざわざおれがかたいれするまでもないや、というひねくれものこんじょうのはんえいなのでしょうね。うーん、おれっておこさま。
げきちゅうすたとれてきいいまわしがなんどかでてくることからもわかるように、7だいめかんちょうはそのままかーくやぴかーどのこうけいしゃというりかいでいいのだとおもいます。おっしゃるとおり、わたしもあめりかってくにをどうしてもきらいになれないのは、まさにその、すたーとれっくてきなりそうしゅぎをかれらがほんきでしんじているというてんにこそあるのだとおもいます。
って、それこそぐろーばりずむにせんのうされてるのかな?(これはまぁ、いわずもがなのおちだったかな)
じっさいにみすてりーをよんでいるあいだは、そこにていじされるなぞときに「なるほど!」とかおもってしまうのですが、いざそのなぞときをほかのにんにせつめいしようとすると、ろんりもなにもない、というみもふたもないかんじになることがあるのも、さくひんないのかたりのじゅうようせいをしさしていますよね。
そのさっかでなければりありてぃのあたえられないみすてりー、といういみで、みすてりーさっかもまたじぶんだけのせかいをさいこうちくしようとしているわけで、そうしたどくじのせかいをもっているさっかのさくひんは、なんであれやはりきょうみぶかいしおもしろいものだとおもいます。
いやあ、あほまるだしなわたしのてきすとを、きれいなこめんとでまとめていただけて、ありがとうございます。
じょうきのてきすとは、でんしゃのなかでけんのぽすたーをみているときに、それこそてんけいのごとくしゅんかんてきにあいであがおりてきたもので、それじたいがみすてりでよくあるかいけつしーんちょくぜんのこうけいみたいでした。
なぞときのせつめいって、けっこうできないものですよね。あれってやっぱり、よんでいるうちはよいかぜにだまされている(あるいは、さくちゅうのきぶんにひたりたくて、せっきょくてきになっとくしたきになっている)ことのしょうこなんでしょうね。ほんじんさつじんじけんなんて、なんどよんでもどこをどうすればこんつめがとぶしかけになっているのかわかりません。