2006-12-01
■[ざいにち][ちょうせんしんぽう]ちょうせんそうれん、ひなんのこわだかく〜じぶんたちのおかれているたちばがみえないやつら

2006ねん12がつ01にち11とき10ふん
やくじほういはんようぎなどでけいさつとうきょくがとうきょうやにいがたのざいにっぽんちょうせんじんそうれんごうかい(ちょうせんそうれん)などをかたくそうさくしたことにたいし、ざいにちちょうせんじんじょせいらやく130にんが1にちあさから、とうきょう・ながたちょうのしゅういんぎいんかいかんまえでこうぎのすわりこみをはじめた。これにさきだち30にちゆうも、とないでこうぎしゅうかいをひらき、ちょうせんそうれんによるとやく700にんがあつまった。
ざいにちちょうせんじんじょせいがてんてきくすりをかくしてまんけいみねごうにのり、きたちょうせんにもちだそうとしたとされるようぎについてちょうせんそうれんがわは「じょせいがじぶんでつかうためじさんしたえいようざい。これまでぜいかんでせいしされたことはなかった」とはんろん。「そうさくはふとうであり、まんけいみねごうにゅうこうきんしなどのせいさいをせいとうかしちょうきかさせるものだ」などとにほんせいふをひなんした。
じょうきをいっしているとしかいいようがない。けいしちょうこうあんぶは11がつ27にちあさからすうひゃくにんのきどうたい、けいさつかんをどういんして「やくじほういはん」でそうれんとうきょうとほんぶ、どうしぶや・せたがやしぶ、そうれんにいがたしゅっちょうところなどをだいだいてきにきょうせいそうさした。いちどうほうじょせいの「やくじほういはん」にからみ、まったくむかんけいなそうれんしせつまでそうさくするのはふとうとしかいいようがない
▼やく1ねんまえのちょうせんしゅっぱんかいかん(とうきょうとぶんきょうく)そうさくのときもそうだったが、ますこみにだいだいてきにほうどうされることでそうれんのいめーじがいちじるしくきずつけられる。げんざいのところ、じじつはどうほうじょせいがてんてきくすりをもちだそうとしたことだけなのに、こんきょもなしにおひれのついたほうどうがなされる
▼なかには、このてんてきくすりとせいぶつ、かがくへいきをむすびつけるものも。えいようじょうたいのわるいへいしにつかわれるかもしれないとのほうどうがあったり、ぎゃくにとうやぐんのかんぶしかつかえないとのほうどうがあったり、まさにかきたいほうだいだ。しかし、せいぶつ、かがくへいきとのかんれんについてれんごうにゅーすは「りんげるえきはこくさいきゅうごだんたいでもなんみんしえんなどにつかういやくひんで、しゅせいぶんはしゅじゅつごのけんこうほじゅうをもくてきとしたあみのさん」だとしてきしている
▼れんごうにゅーすはそのため、「にっぽんとうきょくのそうさくはついきたせいさいのえんちょうせんじょうにあり、きたのしどうぶにあつりょくをかけようとのいとがつよい」とぶんせきした。せんじつもにほんせいふは「ぜいたくひん」だとしてぎゅうにくやまぐろ、たばこやさけるいなどのゆしゅつまでせいげんしたばかりだ
▼おりしも6ものかいだんのさいかいがにっていにあっている。そうしたじょうきょうかでそうれんへのだんあつをつよめるにっぽんとうきょく。ちょうせんのがいむしょうはさいきん、にっぽんにたいし6ものかいだんにさんかするひつようがないとけいこくしている。(ひじり)
[ちょうせんしんぽう 2006.11.29]
けいしちょうこうあんぶは(11がつ)27にちごぜん、「やくじほういはん」をこうじつにすうひゃくにんのきどうたいとけいさつかんをどういんし、ちょうせんそうれんとうきょうとほんぶとちょうせんそうれんしぶや・せたがやしぶ、ちょうせんそうれんにいがたしゅっちょうところおよびとないざいじゅうのざいにちちょうせんじんじょせいたくなどにたいするきょうせいそうさくをだいだいてきにきょうこうした。
こんかいのきょうせいそうさくのこうじつとなったてんてきくすりは、ざいにちどうほうじょせい(75)がさる5がつにそこくをほうもんするきわ、じぶんのびょうきちりょうとけんこうかんりのためにじさんしようとしたものにすぎず、けっして「やくじほういはん」にはあたらない。
にもかかわらず、にっぽんのけいさつとうきょくがこのようにだいだいてきなきょうせいそうさくをいったことは、ぜんれいのないきわめてあくしつでゆるしがたいぼうきょである。
いちざいにちどうほうじょせいの「まんけいみね92」ごうによるそこくほうもんにかんれんづけおおきなせいじてきじけんにでっちあげようとするけいさつとうきょくのこういにこみあげるいかりをきんじえない。
このざいにちちょうせんじょせいをきょうせいそうさくのたいしょうとすることじたい、ひどきわまりないこういであり、けいさつとうきょくのいう「やくじほういはん」とはまったくかんけいのないちょうせんそうれんをはんざいしし、むかんけいのきかんとじむしょまできょうせいそうさくしたことは、ほうとけんりょくのらんようであり、げんごどうだんである。
また、「かきょうがいやくひんもちだしにかんよしたうたがい」をうんぬんし、ひいては「ぐんようぶっしちょうたつ」「たいりょうゆしゅつ」などとまったくこんきょのないきょぎじょうほうをるふしながら、あたかもちょうせんそうれんが「はんざいだんたい」であるかのようなひずんだいめーじをつくりあげようとすることをけっしてようにんすることはできない。
われわれはこんかいのけいさつとうきょくのじょうきをいっしたふぁっしょてきなきょうせいそうさくをだんこきゅうだんする。
さいきんにほんせいふとうきょくは、たびかさなるせいさいそちをこうじざいにちちょうせんじんのじんけんとせいかつをきょうかすふとうなせいじてきよくあつをつよめてきた。
とりわけ「まんけいみね92」ごうのにゅうこうきんしにより、おおくのざいにちどうほうとがくせいたちのそこくほうもんにはじんいてきなしょうがいがつくりだされおおきなひがいをおおっている。
こんかいのきょうせいそうさくが、そこくとざいにちどうほうをむすぶじんどうのふねとして14ねんかんにわたりうんこうされてきた「まんけいみね92」ごうのにゅうこうきんしにたいするないがいのひなんのこえがたかまるなかで、にゅうこうきんしをひきつづきせいとうか、ちょうきかさせようとするひれつないとのもとにおこなわれたことは、まぎれもないじじつといわざるをえない。
ろうねんのざいにちどうほうじょせいがそこくほうもんにさいし、じぶんのびょうきちりょうとけんこうかんりのためにやくひんをじさんしようとすることまでもはんざいしし、とりしまろうとするにっぽんとうきょくのひどかつひれつではんにんげんてきこういをだんじてゆるすことができない。
6ものかいだんのさいかいのきざしがみられるなかでおこなわれたこんかいのだんあつそうどうは、ちょうせんはんとうじょうせいのかんわのながれにまっこうからぎゃっこうするものであり、あさ・にちかんけいをさらにあっかさせおおきなかこんをのこすことになろう。
われわれはちょうせんそうれんとざいにちちょうせんじんにたいするふとうなだんあつとじんけんしんがいをそくじちゅうしすることをつよくようきゅうする。
[ちょうせんしんぽう 2006.12.1]
さて、いずれのきじにも
ざいにちちょうせんじんじょせいがてんてきくすりをかくしてまんけいみねごうにのり、きたちょうせんにもちだそうとしたとされるようぎについてちょうせんそうれんがわは「じょせいがじぶんでつかうためじさんしたえいようざい。これまでぜいかんでせいしされたことはなかった」とはんろん。(あさひ)
げんざいのところ、じじつはどうほうじょせいがてんてきくすりをもちだそうとしたことだけ(はる・なつ・あき・ふゆ/ちょうせんしんぽう)
こんかいのきょうせいそうさくのこうじつとなったてんてきくすりは、ざいにちどうほうじょせい(75)がさる5がつにそこくをほうもんするきわ、じぶんのびょうきちりょうとけんこうかんりのためにじさんしようとしたものにすぎず、けっして「やくじほういはん」にはあたらない。(みなみのぼるすけ・そうれんちゅうおうふくぎちょうのだんわ(ぜんぶん)/ちょうせんしんぽう)
とあるが、これはもんだいのすりかえにほかならない。ざいじょうはあくまで「やくじほういはん」である。さいごの【みなみのぼるすけ・そうれんちゅうおうふくぎちょうのだんわ】など、じじつかんけいがかくにんできていないのかとうたがってしまうほどだ。もんだいはである。きちんとしたてつづきなしにこのざいにちちょうせんじんのじょせいがてんてきくすりなどをたいりょうににゅうしゅしていたことである。まんけいみねごううんぬんは、まんけいみねごうできたちょうせんにもっていこうとしていたところ、にもつけんさでとうきょくにばれてしまったというだけのはなしであり、ざいにちちょうせんじんじょせいのやくじほういはんとはまったくかんけいない。【みなみのぼるすけ・そうれんちゅうおうふくぎちょうのだんわ】はじじつをひっしにわいきょくしようとしている。これはちょうせんそうれんが、このけんにかんしてふれてほしくないということをめいはくにものがたりっている。
また、じょせいのびょうきちりょうのため、まどとしょういているが、はたしててんてきくすり60ふくろもひとりでつかうのであろうか?ないぞうしっかんけいのやくひんは120じょうともほうじられている。
また、これがじじつだとしても、ではたえずてんてきがひつようなろうばがきたちょうせんにきこくすることはたいりょくてきにかのうなのであろうか?またじんどうてきけんちからみてもだとうなのであろうか?いりょうたいせいがまともにととのっていないきたちょうせんで『じぶんのびょうきちりょう』などできるはずがない。
にもかかわらず、にっぽんのけいさつとうきょくがこのようにだいだいてきなきょうせいそうさくをいったことは、ぜんれいのないきわめてあくしつでゆるしがたいぼうきょである。
いちざいにちどうほうじょせいの「まんけいみね92」ごうによるそこくほうもんにかんれんづけおおきなせいじてきじけんにでっちあげようとするけいさつとうきょくのこういにこみあげるいかりをきんじえない。
このざいにちちょうせんじょせいをきょうせいそうさくのたいしょうとすることじたい、ひどきわまりないこういであり、けいさつとうきょくのいう「やくじほういはん」とはまったくかんけいのないちょうせんそうれんをはんざいしし、むかんけいのきかんとじむしょまできょうせいそうさくしたことは、ほうとけんりょくのらんようであり、げんごどうだんである。
また、「かきょうがいやくひんもちだしにかんよしたうたがい」をうんぬんし、ひいては「ぐんようぶっしちょうたつ」「たいりょうゆしゅつ」などとまったくこんきょのないきょぎじょうほうをるふしながら、あたかもちょうせんそうれんが「はんざいだんたい」であるかのようなひずんだいめーじをつくりあげようとすることをけっしてようにんすることはできない。
われわれはこんかいのけいさつとうきょくのじょうきをいっしたふぁっしょてきなきょうせいそうさくをだんこきゅうだんする。
などとおおげさにことをこうげ、あじるのはさよくのでんとうであるといってもかごんではないが、それにしてもまぁ、じしんのことをかんぜんにたなあげするだけではあきたらず、じじつわいきょくまでおこなうとは、まさしくまっきである。さよくならろじっくだけでみんしゅう(いや、ぐしゅうというべきか)をけむりにまいてみろ、といいたくなる。
ちょうせんそうれんはたしかに、いまのにっぽんのげんこうほうでははんざいそしきではないかもしれない。だが、そぱいぼうしほうなどのほうせいびやきたちょうせんほうかいのちのないぶしりょうのこうかいによってはんざいそしきとにんていされるのもまたゆるがないじじつである。
ぜんたいしゅぎこっかのてさきに『ふぁっしょ』などといわれてもなんのかんがいもない。
よければこちらにもあしをはこんでください
このきじをきにいればくりっくしてくださいです・・・
らんきんぐさんせんなか。きょうりょくしていただければさいわいです。
とうぶろぐはざんねんながらきっずgooからはけんさくできません。
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■[ほうどうきかん][さよく]ほろびよぶさよ。これがさよくのほんねだ!〜しゅうかんきんようびしゅさいのしゅうかいでへいかのびょうきをちょうしょう

1:☆ばぐた☆HNかえられなか@2ちゃんとしうできしゃ「ばぐた」ってなにものだφ ★ :2006/12/01(きん) 20:13:57 ID:???0 [off_go@yahoo.co.jp]
・11がつ19にち。ひびやこうかいどうでひらかれた『しゅうかんきんようび』しゅさいの「ちょっとまった!きょういくきほんほうかいあくきょうぼうつみ けんぽうかいあく きんきゅうしみんしゅうかい」。2000にんちかいかんきゃくのまえで、ゆうひとししんのうは「さるのぬいぐるみ」にされ、てんのうへいかのごびょうきもぎゃぐにされるしばいがえんじられた…。
ほんだかついちへんしゅういいんのあいさつからはじまったしゅうかい。しかいは、どうしはっこうにんでもあるさたかしんしだ。「きょうはとてもこうきなほうのおくさんにきていただきました」 さたかしがそういうと、しずしずとみちここうごうをまねたこめでぃあんがでてきた。がんめんだけおしろいをぬってじょそうしたおとこである。かいじょうははくしゅかっさいだ。「おおくのこくみんがあつまっているなか、なんのしゅうかいだかわかりませんが」ときりだすと、おおきなわらいがおこった。「せんじつ、しゅじんといっしょにおうかんとくにおあいしたんです。おうさんは“ひのまるのおかげでゆうしょうできました”と、あおっていましたが、このにんがひのまるのおかげなんていうのは、おかしいんじゃありませんか?」そういっって、わらいをとった。えんゆうかいで、おうかんとくがてんのうへいかにはなしたないようをひにくったのだ。
つづけて、「きょねんはこうしつてんぱんをかえるとかかえないとかでずいぶんさわがしかった。でも、じなんのとこにおとこのこがうまれたら、ぴたっとおさまっちゃいましたね」とゆうひとししんのうのことをわだいに。そして、「きょうはそのこをつれてきてるの。ちょっとつれてきて」というと、すたっふがけーぷにつつまれたあかちゃんのにんぎょうのようなものを“こうごう”にてわたした。さるのぬいぐるみである。“こうごう”は「ひさひと!ひさひと!」とこえをかけながら、そのさるのかおをきゃくせきにむけたりうでをうごかしたりする。
じょうないはだいばくしょう。やがて「ひさひと!ほんけにおとこのこがうまれたら、おまえなんか、いーらない!」とさけんで、 ぽーんとほうりなげた。だが、じょうないはしずまりかえった。わかもののなかにはわらいをもらすものもいたものの、さすがにここまでくるとかんきゃくのたいはんがこおりついてしまったのである。
ここでとうじょうしたのがじゃーなりすとのやざきやすしきゅうしと、さっかであり、たれんとでもあるなかやまちなつさんだ。「これはこれは、さるこうきなおほうのおくさんではないですか」とやざきし。「てんのうなんてもういらないんじゃないですか。てんのうなんてのはみんかんのじゃまになるだけでしょ?」ときくふたりに“こうごう”は、「あら、あたしはみんかんからあがったのよ」と、こたえる。
なかやまじょしが「てんのうになれるのがちょっけいだんしだけというほうがおかしいでしょ?おとこでもおんなでもちょうしがなれるようにすべき。それではたちになったら、てんのうになりたければなり、なりたくなければいっぱんじんになっておわり。そうしていけば、てんのうけといううちはなくなります」とじろんをてんかい。
すると、やざきしが「ごしゅじんがきてませんね?」と“こうごう”にたずねる。「どこかわるいの?」とやざきし。「はい。まえたてせん?じゃなかった、そうそう、ぜんりつせんをわるくしまして。あまりかんばしくないのですよ」そんなやりとりがつづいたのち、とつぜん、やざきしが「それであっちのかたはたつんですか?」ときく。“こうごう”は「であいのてにすこーとのときはげんきでございました」と、こたえる。じょうないはしーんとしずまりかえった。さすがにかんきゃくがしらけてしまった。
「なんてげれつな、とおもわずこぶしをにぎりしめてしまいました」と、さんかしたかんきゃくのひとりがいう。「けんぽうやきょうもとほうのしゅうかいだとおもってたのに、けっきょくこのにんたちがやりたかったのは、あべすすむさんのこきおろしと、こうしつをちゅうしょうすることだけだったんですね」
こんどは、たれんとのえいろくすけしがぶたいにとうじょう。えいしは「ここ(ひびやこうかいどう)は、しゃかいとうのあさぬまいねじろうさんがしさつされたところなんです」「きみがよは、じつはうたいにくいきょくなんですよ」などとかたり、あめりかの「せいじょうきよえいえんなれ」のめろでぃーで『きみがよ』をうたうというぱふぉーまんすをみせるのである。─それは、このきんきゅうしみんしゅうかいとやらの“しょうたい”がよくわかるものだった。
こんかい“こうごう”をえんじたのは、げきだんにしょぞくするいしくらなおきし(49)である。えいろくすけしにかわいがってもらってかくちのいべんとでかつやくしているげいにんだ。
「ぼくたち(ちゅう=めんばーは3にん)は、てれびではできないたぶーにきりこむわらいをやってるんです。もちねたはいろいろ。すぎむらたくらやはしもとりゅうたろう、そうあたいがっかいだってやってます」といしくらし。「おわらいげいにんとしてかつどうをはじめたごろ、しょうわてんのうがごびょうきになって、うたまいおときょくつつしめ、としごとがつぎつぎきゃんせるされたことがありましてね。16ねんへったいまも、およつぎぎがどうこうとやってる。なんともいえないこわさをかんじます。みちこさまのことはすきなんで、きれいにえんじたいんですけど」
ゆうひとししんのうをさるのぬいぐるみにしたことには、「ふだんは、なまえをいわないんですが、あのしゅうかいではついふるねーむでいっってしまいました。(ごびょうきについては)やざきさんとなかやまさんにしもねたをふられ、のせられてしまいました。きょうとでは、ぼくがこうごうでえいさんがじじゅうのやくで、いろいろやりましたよ。これを(しみん)うんどうとしてやってるつもりはないし、おもしろいとおもうことをやっているつもりです」おわらいげいにんとしてたぶーにちょうせんする─いしくらしははらをすえてえんじているらしい。
いっぽう、さたかしのはんのうはまったくちがう。「あくまで“さるこうきなおほうのおくさま”としかいっってないんですから。こうしつのちゅうしょうなどではありません。それはうけとるがわのみかたですから。そんなこというならかくぎろんとおなじで、こっちもふうさつするな、といいたいですね」
えいろくすけしは「ぼくはあのにち、くるまがじゅうたいしておくれとうちゃくしたんです。だから、そのこんとじたい、みてもいないし、ぜんぜんわからないですよ。『しゅうかんきんようび』にきいてくださいな」と、しらぬぞんぜぬだ。
やざきしとなかやまじょしにいたっては、しゅざいもうしこみにたいしてなしのれきだ。えいしは、かつて、どうよう『ななつのこ』などのぐちあめじょうのめいさくをこんきょなく「きょうせいれんこうされたちょうせんじんのうた」といっってのけ、かんけいしゃをげきどさせた“ぜんか”がある。
そのかんけいしゃのひとり、さっきょくかのすぎやまこういちしは、こんかいのことをこうかたる。「まだ(えいしらは)そんなことをやっているのですか。あきれますね。げひんです。じぶんにおきかえてかんがえてみればいい。まごがさるのぬいぐるみにされてほうりなげられたり、びょうきのことをやゆされたり。じんけんいしきもなにもない。かれらは、いつもはじんけん、じんけんというくせに、じつはそれがかれらのしょうたいなんですよ。」
『しゅうかんきんようび』きたむらへんしゅうちょうは、へんしゅうこうきでしゅうかいのもようをこうしるしている。<ふしぎなほどにおだやかなくうきがかいじょうにはながれとぎれるなかった。ながたちょうのじゅうにんにたいする、まんまんたるいかりをふかくきょうゆうしながら、しかし、そこにぜつぼうはなかった>
※そーす:しゅうかんしんちょう、12がつ7にちごうP.30-32(えまにえるぼうやきしゃがてきすとかしたものをいちぶりゃく)
このきじがすべてをものがたりっている。ふだんからさたかなどきらいできらいでしかたなく、しょうらんでもたびたびとりあげてきたが、これほどまでとはおもわなかった。
にんをわらいものにし、いわれなきちゅうしょうをおこない、びょうをちょうしょうし、でてきたことばがこれである。
いっぽう、さたかしのはんのうはまったくちがう。「あくまで“さるこうきなおほうのおくさま”としかいっってないんですから。こうしつのちゅうしょうなどではありません。それはうけとるがわのみかたですから。そんなこというならかくぎろんとおなじで、こっちもふうさつするな、といいたいですね」
ようは
「じつめいをだしていない。(さんざんそれをほうふつさせることをいっておきながら、)そうぞうするそちらがわるい。にんのあかちゃんをさるよばわりし、ほうりなげ、びょうをちょうしょうし、しもねたにするのも、にんのこくせきをやゆするのもげんろんのじゆうだ」
ということであろう。とんだじゆうがあったものだ。
ましてや、このちょうしょうのちゅうしんはこうしつである。さたかはあくまで、「こうしつとはいっていない」というしせいをつらぬいているが、これは「しょうぼうしょのほう(かく)からきました」といってしょうかきをおしうりするひとむかしまえのさぎとどれほどのちがいがあるというのだろうか。
おうさだはるしのじんしゅ・こくせきにかんするぶじょくもゆるされるものではない。おうしはひのまるをせおい、にっぽんのだいひょうちーむのしきかんをつとめた。ゆにふぉーむには、むねにはつねにひのまるがあった。にほんじん、いちおくさんせんまんのほこりときたいはときにじゅうあつになっただろう。だが、しはそれがゆうしょうへのげんどうりょくとなった、とへいかにかんしゃしたのである。これは、いこーるぜんにほんにんへのかんしゃである。けっしてまんらず、みなさんのおかげです、といったのだ。にほんじんならこころにぐっとこよう。いや、こくせきなどにかんけいなく、このいつわをきけばだれしもおうしのひとがらにこころうたれるはずだ。
だがやつらは、このびだんをこくせきとじんしゅとをつかいぶじょくしたのである。
ひとりのにんげんとしてゆるせるはずがない。
せんぜん、にっぽんしんみんとしてなんぽうでふんせんし、こうぐんのきゅうちをいくどとなくすくったたかさごぞくのしそんのかたがたも、ほこりをもってひのまるにからだをゆだねる。ひのまるをとうとびたいひとびとにじんしゅ・こくせきのかべなどない。
WBCではいちろーのふんとうなど、はんにちいえたちにはくしいおもいだしかなかろう。そのひずんだくやしさがこんかいのじんしゅさべつをうんだようにおもえる。
さたかにはじしんのげんろんのせきにんすらもとうとしていない。そんなにんげんが「げんろんのじゆう」をかたるけんりなどない。やつは「げんろんのじゆう」をだまっているにすぎないのである。
せきにんをしゅうかんきんようびにすりつけるえいろくすけ。
『「ぼくたち(ちゅう=めんばーは3にん)は、てれびではできないたぶーにきりこむわらいをやってるんです。』などといっておきながら、『(ごびょうきについては)やざきさんとなかやまさんにしもねたをふられ、のせられてしまいました。』とさいごはせきにんてんかをするいしくらなおき。
『「それであっちのかたはたつんですか?」』ととつぜんくちばしる、じょうしきのけつじょしたやざきやすしきゅうや『てんのうなんてのはみんかんのじゃまになるだけでしょ?」(ちゅうりゃく)「てんのうになれるのがちょっけいだんしだけというほうがおかしいでしょ?おとこでもおんなでもちょうしがなれるようにすべき。それではたちになったら、てんのうになりたければなり、なりたくなければいっぱんじんになっておわり。そうしていけば、てんのうけといううちはなくなります」』とこんきょなきみんいをかたり、むちをさらけだす(こうせきりだつはげんざいでもかのうである)なかやまちなつにいたってはかんぜんにほおこうむりである。
しゅうかんきんようびへんしゅうぶにでんとつした2ちゃんねらーはいう。『しゅうかんきんようびへんしゅうぶはだまりをつらぬいた』と。
このかいじょうにせきにんかんあるものはいなかったようだ。
ついき・さたかしんのいいわけといしくらのいじょうな「なんともいえないこわさ」、およびかんれんURL
きのうしてきしきれなかったことを。
さたかは
いっぽう、さたかしのはんのうはまったくちがう。「あくまで“さるこうきなおほうのおくさま”としかいっってないんですから。こうしつのちゅうしょうなどではありません。
とおおみえをきっているが、
「せんじつ、しゅじんといっしょにおうかんとくにおあいしたんです。おうさんは“ひのまるのおかげでゆうしょうできました”と、あおっていましたが、このにんがひのまるのおかげなんていうのは、おかしいんじゃありませんか?」そういっって、わらいをとった。えんゆうかいで、おうかんとくがてんのうへいかにはなしたないようをひにくったのだ。
つづけて、「きょねんはこうしつてんぱんをかえるとかかえないとかでずいぶんさわがしかった。でも、じなんのとこにおとこのこがうまれたら、ぴたっとおさまっちゃいましたね」
(ちゅうりゃく)
とかんぜんにみちここうごうでんかとゆうひとししんのうでんかのことをいっている。ゆうひとししんのうでんかにいたっては「じつめい」つきだ。これでもって、こうしつのことではない、などとよくいえたものである。さたかのうそはきふりにはもはやあきれるほかない。このようなうそはきやろうがたいげんをはくとはよもまつである。
しかし、のさたかのうそはなかばけいさんずくのものであったらしい。
「ふだんは、なまえをいわないんですが、あのしゅうかいではついふるねーむでいっってしまいました。
といしくらはしょうげんしている。いしくらがついついちょうしにのらなければさたかのいいのがれはうそではなくなっていたかもしれない。なんともまぬけなはなしであるが、このいしくらのしょうげんは、さたかたちの「けいかくてきはんこう」をうらづけているのだ。
しかし、ひなんをおそれいいのがれまでじぜんにかんがえるこのやりくちのよごさ。さよくとは、いや、さたかやしゅうかんきんようびへんしゅうぶとはここまでいじおかったのか、といまさらながらにおもわされてしまう。
また、いしくらの「にっぽんかん」のけつじょした『なんともいえないこわさ』にかんしても。
「おわらいげいにんとしてかつどうをはじめたごろ、しょうわてんのうがごびょうきになって、うたまいおときょくつつしめ、としごとがつぎつぎきゃんせるされたことがありましてね。16ねんへったいまも、およつぎぎがどうこうとやってる。なんともいえないこわさをかんじます。
といしくらはかたっているが、いしくらは「もにふくす」というぎしきをしらないのだろうか。たいそうのれいはいうにおよばず、にっぽんのげんしゅがほうぎょなさったのだからこくみんが「もにふくす」のはとうぜんのことである。いしくらのじょうしきのなさにはひらいたくちがふさがらない。
かんれんURL
よければこちらにもあしをはこんでください
このきじをきにいればくりっくしてください・・・あなたのわんくりっくがおれをうつしょうじょうからかいほうするかもしれません。






