2008-12-01 「しんりゃくせんそうはただしい」
■せんごへいわしゅぎのわくないのへたれあいこくもの
まいどまいどいちいちじゅんからずれたわだいをおくれてかくが、しばしまえにわだいになったたははかみとしお・まえこうくうばくりょうちょうの「にっぽんがやったのはしんりゃくせんそうではない」(←ようやく)のろんぶんのはなし。
たははかみろんぶんは、はやいはなし「にっぽんははめられたひがいしゃだしかん」であるらしい。
なるほどにちはなじへんのはいごにあめりかのおれんじけいかくのいっかんとかがあったのはじじつだろうが、かんとうぐんのちょうさくりんばくさつからなにからなにまでぜんぶをそれでおしきるというのは、むしろ、とうじはしんけんにこれがにっぽんのためだとおもってことをおこなったにほんぐんにんへのぼうとくではないか? やすくにじんじゃのえいれいは「あんたらがいこくにあやつられてただけなんだよ」といわれていいきがするかね?
たははかみろんぶんの「にっぽんがやったのはしんりゃくせんそうではない」(←ようやく)というしゅちょうは「しんりゃくせんそうはわるい」というかんがえかたをぜんていにしている。
しかし「しんりゃくせんそうはわるい」というはっそうじたいが、そもそもせんごのへいわしゅぎ・みんしゅしゅぎのかちかんにせんのうされきったにんげんのかんがえかただということもできないかね?
そこで、みぎやひだりのだんなさまからふくろだたききにされるのをかくごで、こんかいとっておきのぼうろんをはくぞ。
「しんりゃくせんそうはただしい」、すくなくとも「20せいきぜんはんのあるじきまでしんりゃくせんそうはただしかった」とむねをはっていえないのが、げんざいのにっぽんのじしょうほしゅあいこくもののだめなところだ。
しんりゃくせんそうはただしかったじだい
すこしうとおなはなしをするが、20せいきしょとうにおこなわれたしろせちくのなんきょくたんけんはしんりゃくなのだろうか? とうじ、なんきょくたいりくには、れっきょうかっこくがしんしゅつし、ちきゅうさいごのりょうどぶんかつたいしょうとしてあらそわれた(のち、1959ねんになんきょくじょうやくがむすばれてどこのくにのとちでもないことがやっとせいしきにきまった)。
19せいきのていこくしゅぎじだい、れっきょうしょこくにとって、あじあやあふりかのしょくみんちぶんかつは、そもそもはなんきょくたんけんとおなじよーなかんかくだったのではないかというきがする。
にっぽんのかんとうぐんがまんしゅうじへんをおこしたとうじ、ちゅうかみんこくはちほうぐんばつのないせんなかで、まんしゅうにはぼうだいなとちとしげんが、ほとんどてつかずでほうちされていた。それでかんとうぐんはことをおこした。
とうじは、にんがいないとちならせんちゃくじゅんでせんりょう、がせかいのじょうしきだったようである。
19せいきのていこくしゅぎじだいからだいいちじせかいたいせんまで、おうべいれっきょうはほんっきで「しょくみんちしんりゃくせんそうはただしい」とかんがえていた。
れっきょうがしょくみんちしんりゃくのせいとうかにつかったのは、はくじんがゆうしょくじんしゅをせいふくするのはしぜんとうたであるというしゃかいだーうぃにずむ(せいぶつがくのだーうぃにずむをあくようしたぞくせつ)、じんこうがふえたらそのふんのしょくりょうしげんかくほのためりょうどをひろげなければならないというまるさすのじんこうろん(だいにじたいせんのち、おうべいがしょくみんちをうってもしょくりょうなんになってないのをみれば、このあやまりはめいはく)だ。
そして、きりすときょうかるう゛ぁんはのあらかじめていせつもしんりゃくせんそうせいとうかにあくようされた。あらかじめていせつとは、「けっかてきにだれがかっても、そいつがかつようかみがよていしていた」というものである。せいおうではちゅうせいまで、なにがただしいかをきめるのはろーまほうおうちょうだった。そうではなく、けっかてきにかったものがただしいとかみがきめているとするのがかるう゛ぁんはぷろてすたんとのあらかじめていせつだ。
このかんがえかたは、そのうちにかるう゛ぁんはいがいのぷろてすたんとくにやかそりっくくににまでひろがり、うしやひつじはにんげんにしょくされるようかみがさだめていたのとどうよう、ゆうしょくじんしゅのどじんはきりすときょうとにせいふくされるようかみがさだめていたというしんりゃくのせいとうかがふきゅうした。
こくさいしゃかいのくうきがよめなかったにっぽん
そんなていこくしゅぎせんそうのさいせいき、1870ねんのふほとけせんそうがおわると、しばらくかん、よーろっぱじたいがていこくしゅぎせんそうのぶたいになることははなくなった。
せんじょうとなるのは、ほんごくをとおくはなれたあじあ・あふりか・ちゅうとう・おせあにあ、まきこまれるのはげんちのどみんばかりだ……となればせんそうでじぶんのせいかつがはかいされるとはおもわない。せんそうがあくだとかんがえなくなるわけである。
ところが、(ほそく→)そうした19せいきまでのかんかくのえんちょうで(←ほそく)1914ねんにだいいちじせかいたいせんがおきると、よーろっぱじたいがぶたいとなり、せんそうのちょうきかと、ざんごうせんにせんしゃにどくがすにひこうにせんすいかんというしんへいきのとうにゅうもあり、それまであじあやあふりかではちょうしこいてせんそうしまくっていたいぎりすでもふらんすでもどいつでもろしあでも、とにかくおうしゅうかっこくではばくだいなかずのぎせいがでた。
そこでれっきょうくにどもはいきなりてのひらをかえしたようにかってにせんそうにはんせいして、じぶんらだけでかってにたいせんのちのへいわしゅぎをとりきめ、こくさいれんめいをつくってひせんだみんぞくじけつだといいだした。
が、きょくとうのしまぐにだったにっぽんはそんなだいいちじせかいたいせんのおうしゅうのしゅせんばからとおくはなれていた。だから(ほそく→)にっぽんのいちぶのこくさいはせいじかをのぞくこくみんとぐんじんのたすうは(←ほそく)、たいせんのちのへいわしゅぎもわかってなかった。
そこで、にっぽんはにっぽんのぐんじんはしょうわにいっってからもあいかわらず、だいいちじせかいたいせんまでのおうべいではじょうしきだった「しんりゃくせんそうはただしい」をじっせんしたらふくろだたききにあった、ということではないか?
つまり、とうじのにっぽんはにっぽんのぐんじんはだいいちじせかいたいせんをけいきにかわってしまったこくさいしゃかいのくうきがよめてなかったともいえるし、そもそも、しんりゃくせんそうはけしからんろんなんて、さきにおうべいしょこくがさんざんさきにしんりゃくせんそうやっておいて、あとからかってにきめたはなしじゃないか、ともいえる。
ぜんかいわいまーるきょうわこくのはなしをかいたが、せいようでは、だいいちじせかいたいせんと、そのせんごしょり、というのは、れきしのふしめとしてけっこうじゅうようないみがある。にっぽんではそこがあまりりかいされていないようだ(おれもせんもんのけんきゅうかじゃないからふかくはわかっていない)。
――とまあ、『せかいしがかんたんにわかるせんそうのちずちょう』みかさしょぼう(isbn:4837977502)をめくっていると、なんだかそんなきがしてくる(このほんではそこまではのべていないが…)。
せんそうのけっかのげんしょうはどうきにかかわりない
たしかに、かつてのにっぽんのかいせんどうきはただしんりゃくだけとはいえなかったかもしれない。
が、けっかてきににっぽんのぐんたいにぶちのめされたというにんげんにははらのたつはなしだろう。
ちゅうごくきょうさんとうのはっぴょうしているにちはなじへんのせんししゃにはこちょうがふくまれているが、だからといって、せんじちゅうのにっぽんのぐんじんはてきちのにんげんをいっさいひとりもころさなかった、などというはなしはない。
ふぃりぴんのばたーんでもびるまのやすしめんてつどうでも、にほんぐんのしんちゅうのためおおくのにんげんがしんだ。ふるやまこうらいおすがかきのこしているところによれば、なんぽうでも「ひぞくかり」としょうして、こうにちげりらがいるとみなされたげんちのどみんのむらをやきはらったはなしがのこっている。
ほんとうにこうにちげりらがいたかどうかはわからない。だが、にほんぐんのがわとしては、ひそんでいるてきはこわい、むらをやきはらわずにはいられなかっただろう。あめりかもべとなむでおなじことをやった、いまのいらくもそうだ。どこのせんじょうでもいりくんだたたかいになるとけっきょくこうなる。
このてのせんじょうのざんぎゃくこういは、べつににっぽんだけでもない。どこのくにでもあるはなしだ。
たいせんなかどいつにぜめこまれたきゅうそれんのしょうへいは、そもそもじえいのためにたたかったわけだが、それでくせんのまつにぎゃくにどいつにぜめこむと、べるりんではそうとうのりゃくだつやふじょこのごうかんをやったという。ひどいはなしだ。だが、にんげんのしんりとして、そんぐらいやるだろう、ともおもう。
とうじのそれんへいといえば、じぐんのしょうへいすらしょうもうひんのようにつかうどくさいしゃすたーりんのでたらめなめいれいで、うくらいなやかざふのいなかからみぎもひだりもわからないままちょうへいされ、ごうせつのなかをなんぜんきろもこうぐんさせられ、なかまはなんまんにんもせんしした。それでやっとぞうきてきのみやこべるりんについたとなれば、そりゃ、うさはらしのばんこうぐらいやるだろうさ。
しかし、やられたがわのべるりんじゅうみんはせんごもはらをたてた。それもとうぜんのにんげんしんりだ。
あめりかははーるはーばーをこうげきされたのでじえいのためのせんそうとしょうしてひろしまとながさきのみんしゅうにだいぎゃくさつをおこなった。にほんじんにとってははらのたつはなしだ。
こうくうじえいたいのにんげんだったたははかみ(まえ)ばくりょうちょうのぶんしょうには、そういうとうしんだいのにんげんのかんじょう――かこくなせんじょうでせっぱつまればにんげんはひどいことだってするだろうし、また、そうしてひどいめにあわされたにんげんは、せんそうのそもそものどうきがなんだろうがかんけいなくはらをたてるものだ(だからいまだにちゅうごくもかんこくもしつこくうるさい)とかいうこと――がかんじられない。
それはたははかみ(まえ)くうぐんたいしょうどのは、くうぐんのぐんじんなので、りくじょうでじぶんがてきへいをさしころすというそうぞうちからがなかったからではないのか? とかんじているのはわたしだけだろうか。
ほしゅろんだんのたははかみようごろんは、たいていげんざいのかんかくだけをきじゅんとしたせいじてきてつづきのそとわくろんで「にっぽんがやったのはしんりゃくせんそうではない」というみかたをしめしたもので、とうじのにんげんのかんかくやしんじょうにたったみかたがなく、へきえきします。
でも「ろんしょう」のせいとうせいばかりをとうろんだんにんにはそういうしてんはまるでないようです。