2008-10-12
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' その3 ふっちーをまちながら
FTSE、とかいて「ふっちー」とよみます。ろんどんのかぶしきしじょうであって、なまえはすっちーみたいでかわいいがせかいじゅうのまーけっとでもいちばんかわいないまーけっとでゆうめいである。 いまろんどんはごぜん4じころなので、もうしばらくするとふっちーがはじまるわけである。
せかいじゅうのとうしかがかたずをのんでまっているとおもいます。
わっしはかたずをくちのなかでせいせいしているわけではない。(そういうことをするとくちがにちゃにちゃしてきもちわるい。だいいち、もにに「はをみがいてきなさい」といかられるであろう)
なにしろとうみんなかなので、どうでもよいといえばどうでもよい。ただおともだちからうるさくでんわがかかってくるので、だんだんこうきしんがでてきて、ふんじゃわっしもみてみるか、という、そのていどです。
ぶっしゅのえんぜつでとうしかのおっちゃんたちがちゅうもくしていたのはいんたーばんく(なんでにっぽんの「せんもんか」のひとはかたかながすきなのでしょう、ぎんこうかんとりひき、のことです)
をほしょうするというかどうか、だけであった。
「せかいてきききなのだからせかいがちからをあわせてあたるべきだ」とかいうので、みな、ずっこけた。あほちゃうか。いや、あほなのはしっていたが、いくらなんでもむのうすぎるのではないか。
G7ののちのえんぜつも、いんたーばんくのほしょうへのげんきゅうがなかった。
しかもそのうえ、G7がよていされたじかんよりもおおはばにながびいたので、「ありゃあー、こくさいのしょりのみとおしがないのとちがうか」とほかのことまでかんぐられた。
みょうなたいみんぐできたちょうせんのてろこっかしていがかいじょされたので、ますますちゅうごくとのとりひきのないようについてのおくそくがとびかった。
G20にしゅっせきしたじてんで、みな、「やっぱし」とおもったのす。
「こうてきしきんのちゅうにゅう」という、その「こうてきしきん」のやりくりもつかないのではないか。
そうしているうちにおうしゅうのゆーろけんはいんたーばんくのほしょうをじぶんたちだけではっぴょうしてしまいました。へいをもっとたかくあげてえんしょうをふせごうというわけである。
がっしゅうこくからするとしきんをすいとられるかのうせいがでてきてしまった。
だいとうりょうせんきょまでGMがもたないとすると、それが「しょうちょう」しされて、またいっぽじごくのおくへあしをすすめることになります。
GMはろうむたいさくひがじどうしゃいちだいあたり4000どるうわのせされている、といわれるほどなんぎなろうむけいやくがたいせきしているかいしゃで、これがきょうそうりょくをうしなうこんぽんてきなりゆうでした。
だから、このかいしゃをかうのは、いくらひとかぶが2どるいかになったといっってもくそどきょうがいる。くらいすらーも、にたようなものです。
ふぉーどはほかのにしゃにくらべればややましであるものも、これもぴっくあっぷからなにからのきなみみうれないので、もうまつだくらいしかりえきがあがらない。
そのまつだをばいきゃくするいがいないほどおいつめられてます。
しかも、この3しゃは「あめりかのじったいけいざいをだいひょうしている」とこくみんがかんじているというてんで、まことにしまつがわるい。GMなどは、いざおとーさんになってしまうと、でとろいとぼうどうのさいげんにもなりかねない。
GMはきょうそうりょくのなさをかばーするためにはいかのGMACのしんさきじゅんをほぼてっぱいするようなむぼうなことをやった。じどうしゃろーんを「くみほうだい」にしたのです。
そのこげつきをじゅうたくろーん(れすきゃっぷ)のしゅうえきでかばーする、というせんりゃくであった。
そこへさぶぷらいむのあほなびじねすもでるがとうぜんのようにほうかいしておちかかってきたのであって、もう、どうにもならないじょうたいです。
これをかう、というのは、たとえせいふでもむぼうなかんじがするとおもう。
ぽーるそんは、りーまんのかいちょうのせいかくへのうちわのひょうばんからくるりーまん・ぐるーぷのぎょうかいないのいめーじにさゆうされすぎた、といわれています。「あんなむぼうな、やなやつをたすけるひつようはない」というくうきがあそこにはあって、けっきょく、りくつにあわないしゅしゃせんたくをいってしまった。
そこでじごくのかまのふたがかんぜんにひらいてしまったのだと、わっしはかんがえます。
ふつーのひとがもっている「だいきょうこう」のいめーじは、たべもののためにえんえんちょうだのれつをなすしょくをうったひとたちのぎょうれつ、でしょう。
あれはとうぜんのことながらぐたいてきにはりゅうつうがとまったときにおきる。
さがわもやまともうごかなくなったときにおきるのであって、れたすはたけではれたすがつみあげられてくさり、りんごそのではりんごがしゅうかくされずにむなしくじめんにらっかすることになる。
だんだんに「そこまでいくのではないか?」というひともでてきた。
あめりかのしんぶんも「きょうこう」「だいきょうこう」というたんごをれんぱつしてます。
いんたーばんくとりひきのほしょうは、しゅせいてきなしさくとしては「さいごのいって」というおもむきがある。
それをがっしゅうこくぬきでせんげんしたということで、どういうてんかいになるか、むせきにんなことをいうと、きょう(10がつ13にち)ついたちのしじょうのてんかいは、けいざいがくをこころざすひとにとってはとてもべんきょうになりそうです。
まずふつうのはんのうならばおおきくあがるはずのふっちーまで、 のち、4じかん 。






















にっぽんには、おおさかふというちほうじちたいをつぶしそうなろうどうくみあいがそんざいするこうむいんしゅうだんがあるけど。
windwalker さん、
>あめりかには、かいしゃつぶすれべるのろうどうくみあいがそんざいするのがすごいよな、といつもおもう。
がっしゅうこくのろうどうくみあいは、あれはあれでそうとうふはいしているのだけど、にっぽんのしおじいちろう(にっさんじどうしゃ)のようにけっかてきに「くみあいはたんなるあくである」というけっていてきないんしょうをせけんにあたえるようなたいぷのしどうしゃはでなかったですね。
しほんかのがわがろこつなしゅうだつにかかるのでろうどうしゃがわもせんえいにたいけつする。
とよたのような「しようにんはいかさずころさず」「かいしゃのおかげでいきていられることをかんしゃしろ」というかいしゃはろんがいですが、にっぽんはろうむうえのろすがすくないのできょうそうりょくがあるのでゆうめいです。せかいじゅうのけいえいしゃがひつじのようなにっぽんのろうどうしゃをつかえるにっぽんのけいえいしゃをうらやましいとおもっている。
>にっぽんには、おおさかふというちほうじちたいをつぶしそうなろうどうくみあいがそんざいするこうむいんしゅうだんがあるけど。
にっぽんって「ちほうじちたい」がおおくておもしろい。
にゅーじーらんどには「まちやくば」はあってもかんこうあんないじょくらいのきぼで「ちょうぎかい」なんて、ねえっす。にっぽんのいなかをりょこうするのがわっしはすきですが、いっつもあまりにへんなのでかんどーします。
(はなしがそれてごめん)
おおさかふのくみあって、にっぽんのやくにんのけーすすたでぃとしてはかなりよいきょうざいです。
「さいふがそらなのは、ようわかったから、もうききとうない。そやけど、とにかくきんをよこさんかい」
というのは、すごい。でもかんがえてみると、にっぽんのちゅうおうのやくにんも、おなじことをもっとせんれんされたかたちでやってるわけで、やりかたがあらっぽいだけわかりやすいです。
けっきょくにっぽんにはやくにんをけんせいするしてんがなくて、みながしょうやくにんみたいなつもりなので、ああなるんではないでしょうか。
かんとうきんぺんのじゅうにんはびっくりするぐらいきづいてないけど、かんとうしゅうへんのめでぃあは、いまだにげんろんとうせいしたにあるんだよな。
たとえそれがじじつであっても、かんこくとちゅうごくのわるくちをいっってはいかん(2002ねんまで、きたちょうせんもふくまれてた)というとくあげんろんとうせいしたに。
とりあえず「ぽりてぃかる・これくとねす」をひていするにんげんにはそくざにさべつしゅぎしゃのれってるをはりつけるしゃかいにすんでると、しかたないとはおもうんだけどな。
>とりあえず「ぽりてぃかる・これくとねす」をひていするにんげんにはそくざにさべつしゅぎしゃのれってるをはりつけるしゃかいにすんでると、しかたないとはおもうんだけどな。
にっぽんのそーゆーところは、わっしからみるとあめりかしゃかいからきていうようにみえます。いぎりすやにゅーじーらんどでは「ぽりてぃかりー・いんこれくと」でもはつげんしてもよいことになっている。おうしゅうもがっしゅうこくよりはるかにゆるい。
でも、それがひがしあじあにんさべつやあふりかにんさべつのおんしょうになってもいて、よいめんとわるいめんのりょうほうがあります。
むずかしい、とおもう。