2008-12-01
おにんこうしのにほんじん
はむなー・すぷりんぐす(Hanmerとかいて「はむなー」とよびます。なんで?とかんがえたにんはえいごせかいにむいてねっす。あんぐろさくそんせかいには、りくつなどというしゃらくさいものはそんざいしないのどす)
は、ひとがふえすぎてなさけないかんこうちになってしまいましたが、むかしはわっしのすきなあそびばであって、よくいったものでした。いまはなくなった「ゆうびんきょくれすとらん」のにょっきがすきであった。だれもあるいてないしんりんをさんぽしたりやまのちゅうふくにあるいえからてっぺんにのぼって、すげーだだっぴろいじめんのひろがりをながめながらすてーきぱいをたべたりするのがよかったのです。
いぜんはとんとみかけなかったが、このごろはあじあにんのかんこうきゃくがふえた。
きっとがいどぶっくにのっているのでしょう。
すごいにんきである。
わっしならはこねのおんせんでひとがいないときをみはからってはいえいぎして「ちんぽこせんすいかん」をしてたほうがたのしいが。
まうんてんばいくにのってひょろひょろときゅうりょうをさんさくしたり、てにすをぶっこいていたりするとつかれるので、こーひーやへいきます。かんこうきゃくがいっぱいいるこーひーやでこんどはかんこうきゃくをかんさつしてあそぶ。ひじょうにとくちょうのあるかおのすらぶけいのひとがいます。ありゃどいつにんだな、とか、こっちはふらんすにんだべな、とかあてすいりょうをしてともだちとあそぶ。
にっぽんのひとは「ちゅうごくじんかんこくにんとにほんじんはみればちがいがわかる」といいますが、わっしはこくはくするが、ちょっともわからん。くちをひらいてでっかいこえではなしてくれれば、いかなわっしでもくべつがつくが、それも、このあいだはちょっともわからないにほんごではなしているにんたちがいるので、「うーむ。わからん」とかんがえました。それをみてとったもにに「がめのにほんごってしょしんしゃだな」とゆわれてくさった。
しかし、もっとみみをすませてこんじょうをだしてきいてみたらかんこくごでした。
ようするに、そのていどであって、ほんとうのことをいうとちゅうごくもかんこくもにっぽんも、ひとつのくにのみっつのちほうのようないんしょうです。
ひとりのせいねんがわっしらからちょっとはなれたてーぶるについた。
がいどぶっくはえいごです。いちがんれふかめらをもっておる。
わっしはなにしろ「にっぽんおよびひがしあじあにんおーそりちー」とみなされているので、「がめ、あれはどこのひとだ?」とゆうじんどもにいっせいにきかれます。
「わかんね−」と、わし。
みなで、かおがすっきりしているところはちゅうごくのゆうしゅうがくせいふうである、とか、ほおほねがややたかいところはたたーるけいかんこくにんかぜである、とか、みんなですきなことをいいます。
でーもさー、かめら、たかそうじゃん。にほんじんなんでない?というひと。
ばーか、このごろはちゅうごくじんのほうがかねもちだっていうぞ、とはんろんするひとがいます。
えー、ちゅうごくのにんって、げっきゅう100えん、とかでねーの?
とおもいっきりむちをさらけだしてあほまるだしのばかがいじんごいっこうさまです。
するとせいねんがといれにたった。
そのしゅんかん、ぜんいんが「あっ、にほんじんだ!」といっってわらいころげる。
せいねんが「ここにぼくがいるよ」ということをしめすためにむちゃくちゃたかそうなにこんのいちがんれふをてーぶるのうえにおいていってしまったからです。
そんなおそろしいことをするのはこのひろいうちゅうといえどにほんじんいがいにあるわけがない。
「わらいころげた」といいましたが、けーべつしたりあきれたひとのわらいではないのです。
にっぽんのひとは、そこをときどきごかいする。
それはなんとなくあたたかいきもちになるような、ほっとするようなわらいであって、うらやみもこもっているわらいである。
わっしがこどものごろは、もうそういうわけにはいかなかったが、かーちゃんがはじめてにゅーじーらんどへやってきてみなみしまのげんせいりんにぶっとんでいたりしたごろはまだ、くらいすとちゃーちのひとはねむるときでもいえにかぎをかけなかった、という。
じっさいにこーとやなんかをじぶんがまだこのせきにもどってくる、ということをしめすためにおいたままといれにいったりもしていたそうである。
おおげさにいうと、こうかなかめらをてーぶるにおいていってもよい、とかんがえる、にっぽんのひとのこんていてきなせかいかんにうっとりしてしまっているのです。
にっぽんのひとにとっては、まだにんげんがしんずるにたるものであって、そのにんげんがうんえいしているしゃかいも、そのしゃかいをしんらいしていれば、それでふつうにやっていけることになっているのがよくわかります。
わっしも、にっぽんのひとのそういうところがすきでたまらない。
れすとらんにおきびきをするためにやってくるぬけめのないどろぼうにとっては、にほんじんはただの「まぬけなおにんこうし」であるにきまってますが、わっしはよのなかに「まぬけなおにんこうし」ほどすばらしいしゅるいのにんげんはいないとおもいます。
せんごにほんしゃかいのさいだいのえいこうは、もしかしたら、もちぬしのためにてーぶるのうえでがんばっているこうかなかめらやげんきんがいっぱいはいったさいふがたいげんしているのであって、それらがぬすまれてしまうということには、いまのせかいというもののあやまったありかたがしょうちょうされているのだとおもう。
せんごにほんしゃかいのさいだいのとくちょうはせいようかたみんしゅしゅぎのおだいもくとしての「まことよしみ」をまことっしょうめんからうけいれてうたがいをもたないことでした。しゃかいたいせいにおいてもじぶんたちがそだったがっしゅうこくを、そのりそうしゅぎのためにおいだされたややえくせんとりっくなしゃかいみんしゅしゅぎてきかちをしんぽうしていたあめりかにんたちにけんせつをゆだねた。
けいざいかつどうへのきょうりょくなせいふのとうせいやこじんしょとくへのいまではとうのがっしゅうこくにんがじょうだんとかんがえておおわらいするような、そしてげんじつだとしると、ぶっくらこいてしまうるいしんかぜいりつなどは、かれらのかんがえかたにがっちしていた。
いまではにほんじんじしんにひはんされほうむられつつある「せんごみんしゅしゅぎ」というものが、わっしはすきです。いまではじょうだんのいっしゅのようにいわれることがおおい「にほんこくけんぽうぜんぶん」や「けんぽうだい9じょう」を、わっしのいもうとなどはひとごろはじょんおうのくにのだいけんしょうのようなきもちでよんだ。
かまくらのみょうほうてらでわっしのけいあいする「せんせい」に「でも、じゃあ、たこくがもんどうむようでぜめこんできたらどうしますか?」ときいたらせんせいが「みなでしぬのさ。このてらにいっぱいうまっているさむらいたちのでんとうにしたがって」「『しょこくみんののぶよしをしんらいしたけっかめつぼうせるこくみんここにねむる』って、だれかがわれわれのぼひめいをかいてくれるさ」といっったよるのことをなつかしくおもいだします。
わっしがにっぽんにいてしらべていたれきしにはとくがわいえやすやおおやまがんはでてきません。
そういうひとは、わっしにとってはきょくたんにいうと「どうでもいい」のです。
かつじやしょもつほどあてにならないものはない、というのはべんきょーしたことがあるひとのじょうしきであって、だからわっしはおなじかつじでもやすもののいんさつであるしょうわ40ねんだいのしゅうかんあさひやへいぼんぱんち、ぼーいずらいふやはては『しょうねん」や「ぼうけんおう」にいたるまでをしゅうしゅうします。
「てなもんやさんどがさ」のDVDをかいこみ、「わかだいしょうしりーず」をぜんかんそろえる。
かべをたたきこわしてすがたをあらわす。むめんきょでばいくをのりまわししょうがくせいなのにこうぜんとけんじゅうをぶっぱなす「まぼろしたんてい」ふじすすのすがたのむこうからたちあらわれてくるものは、ただひたすら「よいもの、ただしいもの」をしんじていればかならずじぶんたちのせかいがよくなる、としんじたしょうねんのようなしゃかいのすがたであって、わっしは、そのせんごにっぽんのさっそうとしたじゃくしさがすきなのです。
わっしはてづかおさむというひとのまんががそれほどすきではありませんが、それでも、たとえばねっとうえのひとたちがむいみなあくばのかぎりをつくすはくじんたねのじんしゅさべつにたいするこうぎやぶんかてきかんようのもんだい(たとえばほげい)など、いまのにほんじんがぶきようでそやなやりかたでなんとかいわんとしていることは、「てつわんあとむ」のろぼっとたちのにんげんへのいかりとぜつぼうのことばとしてはるかにせんれんされたかたちでえがかれています。
にっぽんのひとたちは、ねっとをとうして、すこしづつ、これまでますめでぃあがでっちあげた「どうくつのいりぐちにうつしだされたまぼろしぞう」とはことなるげんじつの「せかい」にふれつつあるようにみえますが、そうやってかくとくされつつある「たしゃのめ」はざんねんながらにっぽんのしゃかいにたいしてはまいなすにはたらいているのではないか、とおもうことがあります。
たにんのいけんをこぴーして、じぶんたちのみのまわりのことをできのわるいひょうろんかでもあるかのようにとうじしゃいしきをかんぜんにかいたことばでろんぴょうしだす。
なにかというと「しゅってんは」というまんがのよう、といっってわるければすうぃふとがえがく「らぴゅーたしま」のぐしゃたちなみのけんいしゅぎにおちいる。
そのけっか、しゃかいぜんたいの「ばね」のようなそうちがこわれてぐずぐずにすわりこんでしまったのが、いまのにっぽんのしゃかいのようにみえます。
「まぬけなおにんこうしたちのしゃかい」がけっきょくはせかいにたいするきょうそうりょくがもっともつよいことをじっしょうしたえいこうのれきしをにっぽんのひとたちがおもいだせばいいなあ、とおもうのです。



























こんにちは。にゅーじーらんどくうぐんによるかんしですか?いまやせかいてききんゆうききのえいきょうで、おーすとらりあもあまりほげいにはかんしんをもたなくなったようです。EUでは、ほとんどかんしんがありません。というより、それどころではないというかんじです。にゅーじーらんどは、どうやらすこしこくみんせいがずれているようです。きんゆうききにはあまりかんしんがなくて、ほげいにはまだごしゅうしんです。さて、わたしたちとしては、これをにゅーじーらんどというくにをみきわめるぜっこうのきかいととらえるべきだとおもいます。らいねんの4がつころになれば、にっぽんとひがのさいはますますめいかくになってくるとおもいます。しょうさいはぜひわたしのぶろぐをごらんになってください。
http://kotaku.com/5062933/faith-from-mirrors-edge-fan+designed-for-asian-tastes
しゅじんこうのFaithのかおについて、あじあにんのげーむふぁんとはくじんげーむふぁんがぶさいくかいなかでだいろんそうしてるんだけど、あれってはくじんのだいたいはんぶんもやっぱりぶさいくっていっってるんだよ(はくじんは、だいたいれいのごとくにほんじんによるかいていばんのかおをはくじんかおだといっってる。あじあにんは、かいていばんのかおはふつうにあじあのあいどるかおだとにんしきしているので、Faithはぶさいくはのはくじんとあじあにんもけんかをしている)。
ぷろでゅーさーが「Faithはおれのこんやくしゃがもでるだ(ゆえに、Faithをぶさいくとさわぐのはじつざいじょせいにたいするめいよきそんだ)」というちょうひきょうなほうほうでだまらせたんだけど。じっさい、あじあにんじょせいをあんなかおにもでりんぐしたら、ほんとうにそっくりでもほんにんにいかられるとおもう。
やっぱあれ、ぶさいくだよねえ? おれは、じじつがふりならそのじじつをそのものみとめないということじたいが、はくじんのぎろんでもっともむじゅんしているところだとおもうんだ。くじらとはんざいしゃはていきてきにまびきかないとかんきょうにだいひがいをあたえるということをなにがなんでもみとめないのが、ぎろんできないところなんだよねえ。そこはみとめてもいいんじゃないかとおもうんだが。そして、このFaithがぶさいくというのも、もんだいのねはおなじだとおもうんだ。
それとも、もしびじんにみえるんなら、どうやったらおりじなるはんがびじんにみえるのか、そのはくじんにしかわからないかんかくをぜひともおしえてほしい。
しりまへんどした(すまん)。で、こそこそとねっとでみてまわりましたが、しゅうせいばんはかおがゆるくなってて、つまらん、とわっしはおもいます。にっぽんのひとって、あーゆーちんまりととのったかおがすきだよね。はじめのFaithのかおのほうがぜんぜんきあいがいっったかおでいいじゃん。
わっしは「こせいてきなかお」っちゅうのよりも、こてんてきなびじんのほうがすきなたいくつにんですが、それでもおりじなるのほうがしゃーぷでよいかおであるとおもう。
>おれは、じじつがふりならそのじじつをそのものみとめないということじたいが、はくじんのぎろんでもっともむじゅんしているところだとおもうんだ。
ちょうはつしよう、というのではなくて、だね、この「じじつをみとめない」というのはそのまさに「はくじん」っちゅうか、せいようのにんげんがせいじじょうのことどもでにほんじんにたいしておもっていることですね。だからちょうどおなじことをにっぽんのひとがせいようじんにたいしてかんじている、というのは(ややふきんしんないいかただが)おもしろい、とおもう。windwalker さんは「はくじん」のどういうことでもって、そうおもいますか?ぐたいてきなれいがあると、もちっといっっていることがわかりやすい。
>くじらとはんざいしゃはていきてきにまびきかないとかんきょうにだいひがいをあたえるということをなにがなんでもみとめないのが、ぎろんできないところなんだ
しゃかいがくというものからかんがえると「はんざいしゃ」のほうは「まびきい」ても、たぶんへらないし「はんざい」があたえるひがいのそうりょうもかわらない、とわっしはおもいますが、くじらはへらさないとこまるにちがくるでしょう、きっと。windwalker さんは、「ですばれーのしか」というゆうめいなはなしをしっていますか?おおかみにしかがころされてかわいそうだというのでですばれーのおおかみをみなころしにしたけっか、しかのほうもいじょうぞうしょくしてけっきょくはぜつめつした。せいたいけいのばらんすをにんげんのあさじえでいじるとどーなるか、というてんけいてきなれいです。
あるぶんかてきけいこうからうまれた「おもいこみ」ほどせいぶつにとってきけんなものはない。
わっしがくじらなら、しーしぇぱーどについても「おまえなんかにまもられとうないわい」とおもう。おはなしがえらそーすぎて、とうてい、しんようできません。ごうまんなしそうほどぼうにいていやなものはない。
うえの yutakarlson104 というひとのようなはんのうをこそひきおこしたくてぽーる・わとそんはさんりゅうえいゆうしばいをこんねんもやる(yutakarlson104さん、ごめん)わけですが、どうも、にっぽんのひとはないーぶ(えいごのいみのほう、にっぽんのないーぶとはいみちゃう)というかやすくにのもんだいでもほげいのもんだいでも、まさにあいてがきんで「こうはんのうさせればしめたもんだ」というそのとおりのはんのうをしめしてしまう。さいきんでは、ぽーる・わとそんのせんりゃくはけっきょくただしかったのだ、ともうちとましなだんたいもわとそんにたいするひょうかをあげてますね。おもうつぼ、というな、にほんごではたしか。
それとも、このひともしーしぇぱーどの「こうさくいん」だったりして。
>どうやったらおりじなるはんがびじんにみえるのか、そのはくじんにしかわからないかんかくをぜひともおしえてほしい。
だってえー。しゅうせいばんのほうは、たとえばおうあこんけつのひとがおおいろす・あんじぇるすとかいくとごろごろそのへんにころがってそうな、きた+みなみ=まんなか、みたいなとくちょうのないかおでないの。それもこどものかおっすな。なんかしょうがくせいのがっきゅういいんのこどもがあくをたいじするためにたいそうしてるみたいにみえねっすか?
わっしはどっちかっちゅうと、もとのほうがいいなあ。
もっともはくじょうするとわっしはあじあにんのびしゅう、というのがわからないらしくて、なまえはあげませんが、にっぽんでにんきのある「もでる」さんとか「びじんじょゆう」さんとか、ぜんぜんきれいにみえねっす。「あいどる」にいたっては、しつれいせんまんにもじょーだんで「あいどる」をなのってるのかな、とおもうこともある。
「かんりゅうすたー」にいたってはりかいふのう、っちゅうか「ぺ」っちゅうひとだっけ?
きもちわるい、というかんそういがいおきまへん。
わからん。
というのもじつは、おれのおやじのほうのかけいのおんなが、ぜんいんこのけいとうのかおでね。しんせきでありかぞくであるおれがいうのもなんだが、ぜんいんとてもぶさいくだとおもう。とくに、ばあさんのわかいごろ(いえい)はどうみてもるーしー・りゅーにそっくりで、ちゃーりーずえんじぇるをみたときにはばあさんをおもいだしてさびしいきもちになったもんだ。もちろんかぞくだから、おんなはかおじゃないともおもうが、それでもやっぱりほれほれするほどかわいくない。
しかし、そんなうちのちちかたのおんなはがいじんにやたらときゅうこんされたりなんぱされたりする。とくにばあさんはやおやにつとめているときにあまりにもしんちゅうぐんのわかいへいしにきゅうこんされたので、おれのおやじ(とうじしょうがくせい)においはらわせていた。それでもさいごには、みのきけんをかんじてにほんじんしかいないしょくばにうつるはめになったけどね。
ぎゃくにははかたのおんなはぜんいんにっぽんでいうところのびじんだったりする。すくなくとも、にほんてきかんかくでいえばかわいい。こっちはこっちで、ははおやのあねのにんがわかいごろにあじあけいのかねもちにいちもくぼれされ、『おたくのむすめをめかけにくれ』とかいわれてじいさんがげきどして(あたりまえだよな?)しおまいておいかえしたといういつわがあったりする。
このように、うちのははかたはあじあにんに、ちちかたはがいじんにもてるかおなんだが、これはFaithのろんそうではくじんとあじあにんがかんぜんにわかれてたいけつしてるこうずになってるのとおなじでとてもふしぎなんだ。
さいきん、2ちゃんねるかいわいで、おれのちちかたのしんせきのようなかおのことを、たぶんなにがなんでもびじんとはいいたくないのがげんいんで『あじあんびゅーてぃー』とよぶようになったんだけど、にゅあんすてきには『はくじんがなぜかすきな、るーしー・りゅーみてーなけいとうのぶさいく』ってかんじだ。さいきんにほんじんがみすゆにばーすになったとき、にっぽんではざっしですらじこくのことなのに『なんでこれがみすゆにばーす?』とかいたりした。
あとでふらんすにんのぷろでゅーさーが、みすゆにばーすをだしたのにしゃくめいかいけんさせられてたのにはわらった。そこで、おおざっぱに『みすゆにばーすはにほんじんのためのこんてすとじゃないの! おまえらがどうおもおうとかんけいないの! かてばいいのかてば!』みたいなことをいっってた。
あじあにんはそうじてあたまというかかおがみじかく、はくじんのかおがながくなるのはだいたいししゅんきをすぎてからだからこどもかおにみえるってのもやっぱりあるんだろうな。にほんじんのかおのぞうさのままこっかくがかくばってまるみをけす&めをちいさくすると、はくじんにはおとなになったようにみえるがあじあにんはふつうはそういうじょうたいにはならないので、へんなかおにせいちょうしたようにみえるんだろうか。
『きあいがいっったかお』か、にっぽんだったら『ごりらかお』といわれるんだけど、なるほど。あれはきあいがいっったかおとやらにみえるんだな。こんどから、そうせつめいするよ。
こっちからもじょうほうはだしておくか。じつはもうかたほうのゆるいかおは、にほんじんにはおうあこんけつにはまったくみえてない。だってああいうかおは、じゅんけつのあじあにんのなかからもあじあんびゅーてぃーかおよりはこうかくりつででてくるから。
だからFaithこうしきばんがぶさいくといっってるはくじんも、あじあにんはゆるさずにどろぬまのろんそうをしているんだよな。にほんじんというかあじあにんにとっては、おうあこんけつってのはやまもともなみたいなかおのことをさすというのもあるけどな。
いやはや、おもしろいこうさつができた。ちけんがひろがった。
>あまりにもしんちゅうぐんのわかいへいしにきゅうこんされたので、
そうやってけっこんしたひとがせんごのにっぽんにはたくさんいたようですが、そういうなりいきでけっこんしたひとたちはしあわせなけっこんせいかつがおくれただろうか、たいへんだったろうなあ、いや、あんがいことばもろくすぽつうじなくてもこうふくにやれるものかもしれないなあ、とwindwalkerさんのしゅしにはかんけいのないとりとめのないことをかんがえました。
わっしはこじんてきには「ひとのうつくしさ」にみんぞくさやじんしゅさがあるとすると、にっぽんのひと(とくにれきしのふるいいなかのまち)はろうじんがうつくしい、とおもいます。ひるがえってせいようぶんかのなかでねんをとるっちゅうのはむずかしいもんだ、とおもう。
>るーしー・りゅーみてーなけいとうのぶさいく
って、あのひときれいでないの。ぶさいく、なのか?
ひとのびしゅうをうんぬんする、というのはややしゅみがげひんなので、このへんにしますが、わっしはあじあにんをふつーに「すがたがよいひとがおおい」とおもいます。じんしゅがちがうと、ちがったうつくしさがあるのはあたりまえであって、あふりかにんたちのあっとうてきなうつくしさやあじあにんのすっきりしたしなやかさは、やっぱりみていてうっとりする。
どうじんたねについては「あたたか」なかんじがします。
うるやばたーのにおいとおなじことで、なんだかなつかしい、ほっとしたきもちになる。
そういうことがぶんかけんべつにあるのだとするとおうあこんけつのひとはこきょうがふたつあってうらやましいかんじがしますね。