2008-07-17-Thu
■せいしょうねんねっときせいほうについてよけんしたかのようなしんしほうしけんもんだいのとうあんれいをこうかいする
こじんてきには「なぜいまさら?」とおもうが(しけんじたいは5がつであった。とうじのかんそうはtumblrをみてね)、ついさきごろへいせい20ねんしんしほうしけんこうほうけいだい1とんがわだいになっていたようである*1。
というわけで、とりあえずせつもん1だけであるが、わたしがさくせいしたとうあんれいをこうかいしてみる。
もんだいぶんじたいはこうかいされているが、かくうのほうりつである「ふぃるたりんぐ・そふとほう」のじょうぶん、ほうのいにんによりゆうがいじょうほうをていぎするないかくふれい、ないかくふこうほうしりょう「ふぃるたりんぐほうにかんするQ&A」などがしりょうとしてふくまれているのですこしながい。おじかんのないかたは、たつみほうりつけんきゅうしょのしんじほうしけん・ろんぶんしきしけんのぶんせきからがいようをうかがいしるとよいでしょう。
なお、これはあくまでもとうあんれいである。どのていどだとうかはわからないし、ほしょうもできない。げんえきのしんしほうしけんじゅけんせいのほうがなんにんかとうあんをさいげんしているので、そちらもさんしょうしていただきたい*2。そしててんさくしてくれるというほうがいたらかんげいします。
とうあん
いち べんごにんとしてのいけん*3
1 ほんけんひこくにんAはへいわもんだいとしけいそんぱいもんだいにかんけいするうぇぶさいと(いか「ほんけんさいと」という。)をかんりうんえいしていたが、ふぃるたりんぐ・そふとほうしこうのちにほんけんさいとぜんたいがゆうがいうぇぶさいととしてしていされ、すべてのこどもとてきごうそふとさくじょてつづきをおこなわない18としいじょうのものがえつらんできなくなったことにたいおうするため、てきごうそふとがとうさいされていてもほんけんさいとをえつらんできるようにするぷろぐらむをかいはつし、いんたーねっとをつうじてていきょうしたとしてきそされた。
しかしながらほんほうじたいがけんぽういはんにつきむこうであるため、ひこくにんはむざいである。
いか、そのりゆうとしゅしについてしょうじゅつする。
2 ひこくにんのぷろぐらむていきょうこういとひょうげんのじゆうについて
(1) ほんほうは、「ゆうがいじょうほうからこどもをほご」し、また「ゆうがいじょうほうにさらされずにいんたーねっとをしようしたいとかんがえるおとなのりえき」をまもるため(ふぃるたりんぐ・そふとほう1じょう、しりょう3のQ1さんしょう)、いんたーねっとせつぞくききのせいぞう・はんばいものにふぃるたりんぐ・そふとのとうさいをぎむづけ(どう8じょう)、ないかくそうりだいじんがけんさしにんていしたてきごうそふとをさくじょまたはしようもくてきにそうべきどうさをさせないぷろぐらむをていきょうしてはならないとされている(どう16じょう)。
ひこくにんは、じょうきのとおりほんほう16じょう1こう2ごうにはんしてたにんにてきごうそふとをむこうかするようなぷろぐらむをていきょうした。このこういとこうじゅつするひょうげんのじゆうやこどものけんりなどがどのようにかかわってくるのか、けんぽううえのもんだいてんにふれるひつようせいとてきかくについて、まずのべたい。
(2) ほんほうによって、あらたにせいぞう・はんばいされるいんたーねっとせつぞくでんしききにふぃるたりんぐ・そふとのとうさいがじぎょうしゃをつうじてかんせつてきにぎむづけられており(どう8じょう)、きぞんのてきごうそふとがとうさいされていないいんたーねっとせつぞくでんしききをゆうするものはふぃるたりんぐ・そふとのとうさいをもとめることができる(どう10じょう)。ふぃるたりんぐきのうをのぞまない18としいじょうのものは、はんばいぎょうしゃにしょていのてつづきにしたがってさくじょせいきゅうしなくてはならない(どう9じょう)ということになっている。
したがって、18としみまんのこどもやふぃるたりんぐきのうをのぞむ18としいじょうのもの、ふぃるたりんぐきのうをのぞむ18としいじょうのものだがてつづきをいっていないものにたいしてひこくにんのひょうげんをとどけるしゅだんがないことになる。つまりてきごうそふとをむこうかするようなぷろぐらむをていきょうしないことには、じっしつてきにひょうげんのきんしになっている。ひこくにんがていきょうしたぷろぐらむじたいはひょうげんとはいえないが、しかしひょうげんへのあくせすをかくほするじっしつてきなしゅだんとしてひつようであったのであり、ここにひこくにんのぷろぐらむていきょうこういとひょうげんのじゆうについてふかいかんれんせいがあり、けんぽううえのしゅちょうをおこなうものである。
(3) また、こうじゅつするないようにはこどものけんりにかんするげんきゅうもある。けんぽううえのもんだいてんについてろんじるきわは、ふずいてきしんさせいというせいしつをかんがみてだいさんしゃによるけんりしゅちょうはみとめられないのがつうじょうであり、ひこくにんにはこれらこどものけんりにかんしてしゅちょうするてきかくがあるのかいなかがもんだいとなる。
しかしいけんじょうたいにおかれているこじんのけんりをきゅうさいするというほしょうきのうをじゅうしし、また、ひょうげんのじゆうというじんけんのじゅうようせいとえんようによってこどもにふりえきをあたえるおそれはないことをかんがみ、れいがいてきにしゅちょうをみとめるべきであるとかんがえる。
3 けんえつについて
(1) では、いけんとしゅちょうするしゅしについてのべる。ふぃるたりんぐ・そふとほうおよびないかくふれいなどは、とくていのじょうほうをふぃるたりんぐ・そふとというぎじゅつてきしゅだんをもちいてえつらんできないようにしており、けんえつにあたるかのうせいがある。けんぽうは21じょう2こうで「けんえつ」をきんじているが、そのいぎがじょうぶんうえあきらかでなくもんだいとなる。
(2) れきしてきえんかくやけいけんそくからかんがみると、ぎょうせいけんがひょうげんのじゆうをしんがいするばあいがおおい。このようなしんがいをぼうしすべく、けんえつのしゅたいはぎょうせいけんとすべきである。
またけんえつのたいしょうについてだが、ぜいかんけんさじけん(さいだいはんあきら59・12・12)においてはんれいは「しそうないようなどのひょうげんものをたいしょう」としているものの、じじつやにんしきとしそうのくべつはこんなんであることから、ひょうげんこういいっぱんとすべきとかんがえる。
そしてけんえつのじきについてどうはんれいは、「はっぴょうまえにそのないようをしんさ」するものとしているが、ひょうげんこういはひょうげんをうけとるこういとみっせつふかぶんなかんけいにあるから、じゅりょうまえとすべきである。せんぜんのしゅっぱんきせいが、はっぴょうじたいをじゆうとしていたもののしゅっぱんぶつなどを「のうほん」させたうえでせんばつてきにしんさして、はつばいはんぷときにとりているといううんようをされていたことをかんがえても、はっぴょうごにひょうげんないようをしんさしたうえではつばいやはんぷをきんしすることこそが「けんえつ」にあたるというべきである。
(3) いじょうのていぎについてほんけんをみるに、まずほんけんさいとないにあるうぇぶぺーじのたいはんがゆうがいうぇぶぺーじとしてしていされ(ふぃるたりんぐ・そふとほう2じょう1こう2ごう)、さらにほんけんさいとじたいもないかくそうりだいじんによってゆうがいうぇぶさいとにしていされている(どう4ごう)。していにあたってはがくしきけいけんしゃからなるふぃるたりんぐしんぎかいへのしもんがぎむづけられているが(どう13じょう2こう2ごう)、とうがいしんぎかいはないかくふないにせっちされている(どう1こう)ことをかんがえれば、なおぎょうせいけんがきせいしゅたいであるといえる。
つぎに、ほんけんさいとないにあるゆうがいじょうほうとしてみとめられたのはせんじょうにおけるししょうしゃのむざんながぞうやこうかいしょけいのがぞうなどであったとかんがえられる。しかしひこくにんは、ねんれいにかかわらずすべてのひとがしんじつをしったうえでへいわもんだいやしけいそんぱいもんだいについてかんがえるひつようがあるとのしんねんのもとにとうがいじょうほうをはいしんしており、ふかいかんをあたえるじょうほうだけでなく、もんだいていきをふくむひこくにんのしそうないようなどのひょうげんものもけいさいしていたものとかんがえられる。このことは、ふぃるたりんぐによってしゃだんされるいぜんにほんけんさいとによせられたいけんのおおくが、へいわやしけいもんだいについてじゅっこうをかんきされたむねをしめしていることからもうらづけられるだろう。したがって、けんえつのたいしょうたるひょうげんこういいっぱんとしても、さらに「しそうないようなどのひょうげんもの」としてもみとめられるものとかんがえる。
また、ほんけんさいとはふぃるたりんぐ・そふとほうしこういぜんからこうかいされていたが、はっぴょうごにひょうげんないようをしんさしたうえではつばいやはんぷをきんしすることがけんえつであるとするならば、けんえつであるといえる。
いじょうより、ほんけんはけんえつにあたる。
(4) なお、けんえつのきんしのていどもじょうぶんうえかならずしもあきらかではないが、けんぽうは、じぜんよくせいきんしほうりをみちびきうる21じょう1こうとはべっとにあえて21じょう2こうをきていしている。このことから21じょう2こうのしゅしをかんがえると、こくみんのしるけんりときかいをぜんめんてきにうばうというけんえつのせいしつじょう、ひょうげんのじゆうにたいするもっともきびしいせいやくとなるものであり、きんしのひつようせいがとくにたかいことから、こうきょうのふくしをりゆうとするれいがいのきょようをもみとめないものだというべきである。したがって、けんえつはぜったいてきにきんしされる。
よって、ほんけんはけんえつにがいとうしいけんである。
4 ひょうげんのじゆうにたいするしんがいについて
(1) かりにけんえつにあたらないとしても、ひょうげんのじゆうについてしんがいがせいりつしているものとかんがえる。ほんほうでは、はっぴょうはかくほされているもののひょうげんのじゅりょうをさまたげておりおくりてのけんりをしんがいしている。また、うけてのしるけんりもしんがいしている。よって、ひょうげんのじゆう(けんぽう21じょう1こう)にはんし、ほうりつぜんたいがいけんむこうとなる。
(2) もちろんひょうげんのじゆうもぜったいむせいやくではなく、ないざいてきせいやくげんりたるこうきょうのふくしによるせいやくをうける。では、こうきょうのふくしによるさいしょうげんどのせいやくかいなかはどのようにはんだんするべきか。
せいしんてきじゆうへのしんがいは、けいざいてきじゆうへのしんがいとことなりじんかくけいせいはってんにちょくせつかかわるじゅうだいなけんりであるし、みんしゅまつりごとのかていでかいふくがふかのうである。せいしんてきじゆうにかんするしんさはさいばんしょののうりょくでももんだいにならないから、けいざいてきじゆうにたいするきせいりっぽうよりもきびしいきじゅんによってごうけんせいをはんだんすべきである。
さらにひょうげんのないようにちゃくもくしたきせいであるならば、とうがいきせいのしいてきうんようによりひょうげんのじゆうがきょうかされるきけんせいがたかい。よって、もくてきのせいとうせいと、もくてきとしゅだんのごうりてきかんれんせいをげんかくにしんさするべきである。
(3)あ このことをふまえてほんけんをみるに、ほんほうのもくてきはぜんじゅつのとおり、こどもをゆうがいじょうほうからほごすることとゆうがいじょうほうにさらされずにいんたーねっとをしようしたいとかんがえるおとなのりえきをほごすることの2てんがある。
だいいってんめとしてこどもにたいするほごについてかんがえると、たしかにせいしょうねんのけんぜんいくせいというほうますじたいはそんちょうされてしかるべきであるし、けんぽうもせいねんせいどをさいようしている(15じょう3こう)のであるから、こどもをほごするひつようせいはみとめられる。だが、18としみまんのこどももにほんこくみんであるいじょう、じんけんきょうゆうしゅたいであることはあきらかであってふとうなけんりせいげんはゆるされない。
そしてこどものけんぜんないくせいというかんてんからいえば、わいせつひょうげんやぼうりょくひょうげんなどをみせることはこのましくないが、はったつだんかいにおうじてそれらゆうがいじょうほうとのせっしほうについてまなんでいくひつようがある。また、こどもにとってなにがゆうがいでなにがそうでないかどうかはかていやちいきなどによってことなっているものとかんがえられ、そうしたじじょうにおうじてきめささやかなたいしょをしていくべきである。
また、ゆうがいじょうほうをえつらんしたからといってただちにはんざいやひこう、ぼうりょくこういやせいふうぞくのみだれなどにつながるわけではないことはけいけんじょうあきらかであるし、かくしゅしゃかいがくてきちょうさなどにおいても、ゆうがいじょうほうのえつらんがせいしょうねんのけんぜんないくせいへどのようなえいきょうをおよぼすかについてこんせんさすがとれていないじょうきょうであって、しゃかいかがくてきこんきょといういみではふじゅうぶんであって、けんとうをゆうするもんだいである。
したがって、ほんほうはこっかによるかどのかいにゅうであるといえる。
い だいにてんめとして18としいじょうのものにたいするほごについてかんがえると、ゆうがいじょうほうにさらされずにいんたーねっとをしようしたいとかんがえるおとなのりえきはほごにあたいするものの、18としいじょうのものであればみずからのはんだんによってふぃるたりんぐ・そふとをどうにゅうし、じょうほうをしゅしゃせんたくすることがかのうであって、これもまたこっかによるかどのかいにゅうであるといえる。
よってりょうめてきとも、こっかがかいにゅうしほごすべきもんだいということはできず、りっぽうもくてきはせいとうかできない。
う いじょうよりもくてきにせいとうせいがないことはあきらかであるが、もくてきとしゅだんのごうりてきかんれんせいについてもねんのためこうさつする。
すでにのべたように、こどもといえどふとうなけんりせいげんはゆるされないから、ねんれいめんでのはったつだんかい、せいやくされるじゆうのじゅうようせいおよびせいやくのかされるぶんみゃくなどをこうりょしてはんだんすべきである。ほんほうは、こどもによるじょうほうのしゅしゃせんたくけんをいっていていどうばいしるけんりをおかしているのにもかかわらず、ねんれいをとわずいちりつにきせいをしているようであり、はったつだんかいへのはいりょがみられない。かりにてきごうそふとにおいてなんらかのねんれいべつおぷしょんがせんたくできるようになっており、じっしつてきにははったつだんかいへのこうりょがみられたとしても、ほうれいにかきこまれていないのであれば、めいかくせいをかいておりふとうであるといえる。
また、18としいじょうのものにたいしてはふぃるたりんぐ・そふとのとうさいをぎむかするよりさきに、ふぃるたりんぐ・そふとについてふきゅう・けいもうかつどうをすることができたはずである。しりょう3によれば、とうけいうえ「ふぃるたりんぐ・そふとについてにんしきがきわめてひくいことがかくにん」されているのだから、まずはきゃんぺーんによるにんちこうじょうやかくしゅほじょきん・じょせいきんなどをもちいてふきゅうそくしんをはかるべきであって、ふぃるたりんぐ・そふとのとうさいぎむかはせっそくである。
さくじょしたいむねのさるしゅつがないかぎりさくじょできないこともしゅだんとしてかだいであって、さくじょきんしおよびてきごうそふとをむこうかするそふとのはいふきんしはいきすぎである。なぜならふぃるたりんぐをのぞまないおとながてきごうそふとをさくじょするてまと、ふぃるたりんぐをのぞむおとながてきごうそふとをつかいつづけるてまとのさがおおきく、りょうしゃのじっしつてきびょうどうをかんがえるのであれば、のぞまないおとながてがるにあん・いんすとーるをおこなうようなほうほうをかくほするべきだからである。おそらくてきごうそふとはこどもがふぃるたりんぐきのうをかんたんにおふにすることができないようなせっけいになっているはずであり、そうであるならば、てきごうそふとをのぞまないものがそふとじたいをさくじょできることがのぞましいであろう。
ゆうがいうぇぶぺーじをおおくふくんでいるさいとをゆうがいうぇぶさいととしてしていし(どう2じょう1こう4ごう)、ゆうがいじょうほうをふくまないぺーじまでえつらんできなくさせるというこうせいにももんだいがある。ぜんじゅつのしゅしにかんがみれば、きせいはひつようさいていげんでなければならないのだから、ゆうがいうぇぶさいととしていされたうぇぶぺーじのうちゆうがいじょうほうをふくまないぺーじにたいしてはふひつようなきせいであるというほかない。もちろん、うぇぶぺーじはこうしんしぞうせつすることがかのうなのであるから、ゆうがいうぇぶさいととしてほうかつてきにしていすることのひつようせいはあるていどみとめられる。だが、ひょうげんのじゆうのじゅうようせいやいしゅくこうかのことをかんがえるとじぜんよくせいきんしのほうりがだとうし、かくゆうがいじょうほう・ゆうがいうぇぶぺーじをこべつてきにしていしていくことのみがきょようされうる。
なお、ゆうがいうぇぶぺーじやゆうがいうぇぶさいとは、10にんいないのしんぎかいいいんのちょうさとないかくそうりだいじんのしていによってきせいたいしょうとなる。このしていほうほうもしょうすうしゃによるしいてきうんようをまねくおそれがあり、また、ゆうがいじょうほうしていりゆうのつうちきていがないなどてつづきてきにもせいびされておらず、ごうりてきとはいいがたい。
いじょうより、もくてきとしゅだんのごうりてきかんれんせいについてもみとめられず、ほんほうはいけんである。
5 ざいけいほうていしゅぎとばっそくのいにんについて
(1) ふぃるたりんぐ・そふとほう2じょう1こう2ごうはゆうがいじょうほうについてていぎしているが、「いんたーねっとうえでりゅうつうしているじょうほうで、こどもにたいし、いちじるしくせいてきかんじょうをしげきし、いちじるしくざんぎゃくせいをじょちょうし、またはいちじるしくじさつもしくははんざいをゆうはつするものとして…こどものけんぜんなせいちょうをそがいするおそれがあるとみとめられるもの」というにとめ、また、そのていぎないにないかくふれいのきじゅんにがいとうすることをようけんのひとつとしてあげている。
けんぽう31じょうは、ざいけいほうていしゅぎをさだめているが、とうがいていぎきていは、31じょうにはんしないのだろうか。
(2) かりに、ばっそくのせいていをせいれいにむせいげんにいにんできるとすると、こっかによるふとうなばっそくけんこうしをぼうししこくみんのけんりをまもるという31じょうのしゅしをぼっきゃくすることになるとおもわれる。
よって、はんざいこうせいようけんについてはりっぽうもくてきとがいかつてきこうせいようけんはほうりつでさだめなくてはならないし、また、けいをさだめるについてはそのげんそくがほうりつでさだめられなければならない。そして、ばっそくのせいていをいにんするばあい、ぎょうせいけんのさいりょうがこうはんにうするものはいけんとなるべきである。
(3) ほんけんのばあい、りっぽうもくてきについてはほんほう1じょうによりあきらかであるものの、はんざいこうせいようけんたるゆうがいじょうほうのていぎようけんのいちぶにないかくふれいのきじゅんにがいとうすることがふくまれており、がいかつてきこうせいようけんすべてがほうりつによってさだめられているとはいえない。また、ほんほうないのていぎきていがちゅうしょうてきであるてんをかんがみると、ぎょうせいけんのさいりょうがこうはんであるといえる。
したがって、ふぃるたりんぐ・そふとほう2じょう1こう2ごうはけんぽう31じょうにいはんする。
(4) しかし、しょうさいなきじゅんについてはないかくふれいにいにんするというけいしきをとっているとみることもでき、それによってじょうじゅつしたようないけんのおそれをかいひしうるかもしれない。だがそのようなばあいでも、けんぽう31じょうのようきゅうするけいばつほうきのめいかくせいのもんだいがのこる。
どのていどのめいかくせいが31じょうによってようせいされているかは、じょうぶんうえかならずしもあきらかでない。しかし、ほうりつのしいてきてきようによるじんけんしんがいのきけんせいやきんしこういがばくぜんであるがゆえにしょうずるいしゅくこうかへのけねんをしゅしとしてもとめるのであれば、じんけんしんがいやいしゅくこうかのしょうずるおそれのあるいっぱんこくみんのりかいをはんだんきじゅんとして、てきようはんいがめいかくかいなかをかんがえるべきである。したがって、つうじょうのはんだんのうりょくをゆうするいっぱんじんがふめいかくとかんじるならば、いけんである。
(5) ほんほうはぜんじゅつのようにゆうがいじょうほうについてていぎしているが、さいしゅうてきになにがゆうがいじょうほうにあたるかは、つうじょうのはんだんのうりょくをゆうするいっぱんじんとひとくちにいっっても、とうがいにんのもつりんりかんなどによってばらつきがしょうじるおそれがある。よって、ほんほうのきていだけではふめいかくであり、いけんのおそれがある。
6 いじょうによればほんほうはいけんであり、ひこくにんはむざいとすべきである。
7 ここまではぶんめんしんさによるほうれいいけんのかのうせいについてのべてきたが、てきよういけんのかのうせいもよびてきにしゅちょうする。
ほんほうはこどものけんぜんいくせいをかんがえるうえでゆうがいとおぼしきじょうほうをきせいするが、しりょう2のないかくふれい1じょう1こう2ごうろからにをよむに、ゆうがいじょうほうのなかでも「いちじるしくざんぎゃくせいをじょちょう」するじょうほうについてきせいしているとみられる。しかし、どうごうろまたははにがいとうするからといっってすぐさまいほうとすべきではないだろう。たとえば、いがくしょはにくたいてきせいしんてきくつうについてひょうげんするばあいもあるだろうが、せいとうこういとしていほうせいがそきゃくされるとかんがえられる。
ほんけんにおいてもすでにのべたとおり、ふぃるたりんぐによってしゃだんされるいぜんにほんけんさいとによせられたいけんのおおくが、へいわやしけいもんだいについてじゅっこうをかんきされたむねをしめしている。そして、ふかいにさせるおそれのあるじょうほうのえつらんまえにはけいこくぶんがていじされており、ふいうちちてきにえつらんしてしまうことがないようにはいりょされている。このことから、こどもなどにあくえいきょうをあたえるさしせまったきけんせいはないというべきである。
したがって、ほんけんきそしょぶんはほうてきようをあやまったはんだんであり、ひこくにんをむざいにすべきであるとしゅちょうする。
(せつもんの2へつづく)
*1:たいむらぐがしほうしけんかいわいのまいなーさをあらわしているようでおもしろい
*2:わたしがみつけたはんいでは http://blogs.yahoo.co.jp/unyieldingspirit2007/23509108.html や http://yaruze08.seesaa.net/article/98035364.html#more 、あと2ちゃんねるのさいげんすれなどがさんこうになるとおもう
*3:ほんらいであれば、このあとにせつもん2でとわれているけんさつかんのしゅちょうとじしんのけんかいをかかなくてはいけないが、こんかいはせつもんの1だけこうかいし、のこりはごじつこうかいする


