せりざわぶんがくあいこうかいかんりにんのにっき
ここのほーむぺーじにあそびにきてください。せりざわぶんがくあいこうかい
2008-10-11 かみやしのこうえん5 さいしゅう
9がつ26にち(きん)のあさひしんぶんちょうかんにかみやみつのぶしのすがあつこと9にんのれりぎおがおさむていぞうさつされました。まぐのりあのこうえんをまとめたものです。おそくなりもうしわけありません。
それは、あらためてわたしがもうしあげるまでもありませんが、ふらんすにいったときべるぐそんをたずねたときに、くちのきけない、むすめさんのことをかいたところがありますけど、そういうふうなところとか、いろんなきかいでかれはつうかんして、とくにせんご、やっぱりにっぽんのぶんだんのだめなところ、まあ、なかまうちだけでやっていてはだめなんだと。ちゃんとわかるようなかきかたでどんなすばらしいげいじゅつであってもそれがりかいされるようなかたちであって、ひょうげんされていなければ、いみがないんだというたちばから、せりざわせんせいは、さくひんをたくさんかいていたんだということです。
これはこれでひとつのしんねんだとおもいます。
とぜんかいは、ここまでかみやしのおはなしをかきました。ここからは、かみやしのおはなしのようてんをかきます。
かみやしはここから、せりざわひかりおさむりょうしとたかだひろしあつししのげいじゅつかんのちがいについてのべていきます。
たかだしは、げいじゅつにたいしてひじょうにきびしいかんがえかたをもったにんで、にっぽんにかえってくるときにもつくったさくひんをずいぶんこわしてにっぽんにかえってきたはなしをききますし、たいへんきびしいしごとぶりをしていらしたほうです。
いっぽうせりざわせんせいはぎゃくのたちばからしごとをされたにんです。
ぶんがくというものは、やっぱりそのよまれなければ、ことにしょうせつはよまれなければしかたがないところで、そういうてんでせりざわせんせいのいきかたというものは、ただしかったとおもいます。
とはなされます。
ここで、かみやしは、かたやまとしひこしのことをとりあげます。かたやまとしひこしは、このほんにものっているにんです。
かたやまとしひこというにんもせりざわさんとにたようなところがあったとおもいます。ふたりのせってんもあったわけですけど、かたやませんせいもせんご、たかしろせんせいもそうですけど、でんわがないじだいにちょしょをつうじてかんどうしたにんがとつぜんたずねてくると、そしてだれがきてもとくにしごとなどきんきゅうのことがなければどうぞどうぞとあげてはなしをしたり、そういうことをしていたにんです。
かたやまとしひこというにんは、ただじぶんもしをかいたにんですが、のちはふらんすやどいつのほんやくがゆうめいです。りるけとか、ろまんろらんとか、のちは、えっせいをたくさんかいています。ただ、しょうせつはかいてなくて、しはかいていましたけど、しじんというか、ししゅうをじひしゅっぱんというかたちでなんさつかだしましたけど、かんれきのときに、はじめてちょっとしゅうたいせいしたみたいなししゅうをみすずしょぼうからだして、わりとなんというのでしょうか、アマチュアてきな、しだん、ぶんだんがあるようにしだんもあったわけですけど、そういうものとはちょっときょりをおいて、おしごとをしていたほうなんですね。そこがせりざわさんとちがうところです。せりざわさんはじゃーなりずむのなかでほんをかいて、しょうぎょうしゅっぱんしてどくしゃによんでもらおうとして、そういうかんけいをつくったにんです。かたやまさんは、そういうにんではなかった。そのあたりのかたやまさんのいきかたをやまむろしずかさんというほうがひはんしています。いきているときに
。かたやまさんがいきているときに。そういうひはんをするということはりっぱなほうだとぼくはおもいましたけど。どういうひはんをしているかというと、そういうあまちゅありずむというのは、なるししずむにおちってしまうというきけんせいがあるというのです。ぎじゅつてきなさくひんとしてのちょうたくみたいなかんせいさせる。さくひんとしてかんせいさせるというすごいどりょくをげいじゅつかは、はらうわけですけど、そこはやっぱり、あいまいなのでしょう。なるししずむにおちってしまうおそれがあるのではないかということをそのししゅうがでたときに、そのししゅうがでたときに、しょひょうのなかでてきびしく、そういうふうに。
やましつさんというにんは、かたやまさんとずーとしたしかったにんですけど、そういういいかたをされています。わたしはそれをよんではっとしたのですが、たしかにそういうところもあった。せりざわさんはそういうところはなかったにんだとおもいます。やはりじぶんはさっかであると、げんこうようしにじをうめていくということが、じぶんのてんしょくであるということが、すごいかくごをもってしごとをしていらっしゃる。そういうてんでは、アマチュアではなくぷろふぇしょなるであると、やっていたほうです。
で、なかむらしんいちろうさんが、にっぽんのしょうせつがせいようりゅうのきちんとしたろまんみたいなものにそだっていくためにはどうするかというとたいしゅうしょうせつてきなものがしつてきにじょうしょうしていって、そしてりっぱなしょうせつができるというのがかのはっそうなんです。なにかこうどくしゃとかんけいないところで、なんかこうげいじゅつてきなすばらしいさくひんをなかまうちでかいていてそういうさくひんになっていくのではなくて、たいしゅうてきなよみものみたいなものがどんどんせんれんされてすばらしいものになってすばらしいさくひんにたぶんなっていく、そういうみとおしをかれはもっていました。それはわたしはたっけんだとおもっていて、せりざわさんは、そういうことをかんがえていたにんだとおもいます。ぶんだんなんかどうでもよくて、どくしゃのためにわかるような、ちゃんとつたわるようなさくひんをかく、いっしょうけんめいかく。そしてそれが、げいじゅつてきなかちをもつさくひんになっていくというかんがえかたをせりざわさんはしている。それはそのなかむらさんがいっっているようなことをいしきてきかむいしきてきか、かんがえていらっしゃったということで、それはそのしょうせつかとしてまっとうなかんがえかただったとおもいます。そうなると、たかだあつしこうさんのいきかたとはちがうけれども、でもげいじゅつとかしそうとかはしょうすうしゃがになうもので、たいしゅうとちょっけつするものではない。というのは、ほんとうにそうなのか、ちがうようなきがします。せりざわさんのかんがえかたもまちがってないとおもいます。
せりざわせんせいはたくさんのさくひんをかかれて、とくに、たいへんちょうめいでございましたけれど、さいごの10ねんかんにかみしりーず、 にんしりーずというだいちょうへんさくひんをかかれた。それで、そのさくひんがでてからどくしゃになられたほうもおられるし、 それからいぜんからのどくしゃでとまどわれたほうもおられるし、ひじょうにふしぎなせかいがさいごにかかれることになりました。
そこもわたしは、たいへんきょうみぶかくて、わたしはこんどのほんではかとりっくというかんてんからかきましたので、そういうかんてんからせりざわさんがおかきになったものをよむと、「わたしもかとりっくになりたかったのです」とかね、いろいろなことばがでてくる。 どういうことかよくわからないような、どうとらえていいのかわからないような、なんか、ぜんのこうあんのようなかたちでかんたんにこたえがだせないような、そういうことばをいろいろもらしていらっしゃるというふうにわたしはおもいます。おさないときは、てんりきょうのものがおおきくあって、それからよーろっぱにいって、むこうにはかとりっくというものがあって、からだをわるくしてさなとりうむにいっったときに、しゃるまんというゆうじんができて、かれは、かとりっくだけど、ひじょうにどくとくなかとりっくで、どくとくなかみのかんねんをもっているにんで、ひじょうにえいきょうをうけるというふうなことがありました。というせりざわさんがさいごのさいばんねんにひらいてみせたせかいというものが、きりすときょうのかみでもないし、ひじょうにふしぎなせかいであったと。そこはどういうことなんだと。そこにはにっぽんのふうど、せいしんふうどみたいなものがおそらくふかくかかわっているということはよきされるのですが、そこがどういうことか、わたしにはみえていないところがあります。ただ、かじかわさんとそこではなしてみて、わたしうーんとおもったのは、かとりっくというものが、やはりしぜんというふうなものにたいしては、ぷろてすたんとなんかとくらべると、かとりっくというものは、ただまあ、もちろんきょうりというものがありますけど、きょうりてきなものよりももっとせいかつのなかにもうさいけっかんのようにいりこんでいるというのもあって、しぜんにたいするようなゆたかなかんようせいというか、つつみこむようなものがありますし、そのへんのところになにか、ひんとがあるのかなあというきがしているのですけど。ちょっとわたしにもよくみえていないところです。
たかだひろしあつしは、さいごににっぽんにかえってくるときにしゅうどういんにいるかどうかおもうのですね。どみにこかいかどこかのしゅうどういんで、げいじゅつてきなそうさくをしてもいいしゅうどういんですね。そこにいるかどうかもけんとうしたけども、けっきょくにっぽんにかえってくるのですね。
たかださんというにんは、なんかにっぽんのせいしんふうどをにくんでいるところがあります。よーろっぱにいるとささえていられるようなせいしんですね、にっぽんのせいしんふうどにくるとくずれてしまう、なにかそういうえたいのしれないそういうものがあるかのようです。そういうかぜなとらえかたをどうもかれはしていたけはいがあります。わかいごろからのゆうじんのかたやまとしひこがにっぽんにかえってきてたひさしぶりにあうと、おさけをのむとちょっとなんかむかしとちがう。なんかへんなかぜによってしまうということがばんねんあったみたいで、それがすごくかなしいんですね、たかださんは。かたやまとしひこをこんなかぜにしたのは、なんなのかというと、にっぽんのせいしんふうどだといういいかたをするのです。たいしつだ、みたいな。ただ、たかださんは、げいじゅつかなのでそれいじょうのぶんせきはしないというかできないというか、にっぽんのたいしつとかせいしんふうどといわれてもちょっとわからないですよね。われわれはね。はたしてそうなのか、わたしにもわからないと。たかださんにみえないところもたぶんあるのですね。
たかださんにはみえないところがせりざわせんせいにはみえていたのではないか。まあ、ぎゃくもあるかもしれませんけど。せりざわせんせいについていろいろかんがえるということは、そのへんのよーろっぱとかにっぽんとか、きりすときょうとそうでないせいしんふうどをかんがえるうえで、すごくおもしろいことだとわたしはおもいます。そこはなんか、あまりかんたんになにかちてきにけつろんをだしてしまうというのは、たぶんできないことだし、やってもいみがないことだとおもっておりますし、ちょっとしゅくだいのばをね、なにかしばらくむねにもっていようとわたしはおもっています。
しょうわのせいしんしとしてせりざわひかりおさむりょうをそのひょうろんのたいしょうとしたかみやしのみかたは、このほんにかかれているほかのれりぎおをよむとよくわかります。かみやしのひょうろんのふくだいが「かとりしずむとしょうわのせいしんし」になっており、「かとりしずむのしょうわのせいしんし」では、ありません。ぞうさつされているので、おおくのほうが、このさくひんをとうしてせりざわひかりおさむりょうのありほうについてかんがえるきっかけをあたえているとおもいます。
