きゅうつねけいいちの「きょうもしょうがいのついたちなり」 RSSふぃーど

2008-11-07 なかがわいちろうきねんかん(ひろおまち)---「しんじついちろ」「かんもんにこうこつあり」

k-hisatune2008-11-07

ほっかいひぐま」とのあいしょうでしたしまれたいしょくのせいじかなかがわいちろうのきねんかんをほっかいどうとかちしちょうひろおまちにたずねた。

ちゅうもくしていたせいじかだったが、じゆうみんしゅとうそうさいえらにりっこうほしてやぶれたのち3かがつもたたない1983ねん1がつに、とつじょ57としでそうせいしてそのにゅーすにおどろきをもってせっしたことがある。

1925ねんたいしょう14ねん)にほっかいどうにうまれたなかがわいちろうは、とかちのうぎょうがっこううつのみやこうとうのうりん、きゅうしゅうていこくだいがくのうがくぶのうぎょうどぼく)でまなび、ちちのひがんどおりほっかいどうちょうやくにんせいかつをはじめるが、さけののみっぷりがいいというりゆうで、ほっかいどうかいはつちょうちょうかんになったとうにんせいじかおおのはんむつみ(1890-1964ねん)のひしょになり、おおのをしょうがいのしとする。そののち、おがたたけとらちょうかんひしょもつとめ、せいじへのこころざしをもつ。12ねんかんのやくにんせいかつをへてだい30かいそうせんきょりっこうほとうせんする。

いご、めはなたちのくっきりとしたほしゅせいじかとしてせいりょくてきなかつどうをおこなう。なかおえいいち、はまだこういちいしはらしんたろうわたなべびともおらとともに31にんで1973ねんあおあらしかいをけっせいし、じじつじょうりーだーであるだいひょうせわにんをつとめる。そののち、1979ねんじゆうかくしんどうゆうかいを22にんのどうしとともにけっせい、これがじじつじょうなかがわはのはたあげとなる。このかん、ふくだきゅうおっとおおくらだいじんから「ゆうしいらいのめいせいむじかん」といわれるなどおおくらせいむじかんをにどつとめるなどてがたいしゅわんもみせる。ふくだきゅうおっとそうりのもとでのうりんすいさんだいじんとしてにっそぎょぎょうこうしょうをまとめ、そしてかがくぎじゅつちょうちょうかんすずきないかく)でげんしりょくはつでんにちからをいれている。

13にんというしょうはばつをひきいるなかがわいちろうは、1982ねん10がつ16にちじみんとうそうさいえらにりっこうほする。このときりっこうほしたのは、なかそねやすひろかわもととしお、あべすすむたろうとなかがわいちろうの4にんである。かわもと、あべ、なかがわのはんしゅりゅうさんぱれんごうのせいりつでよびせんじっしをさけられないとはんだんしたすずきしゅしょうは、たいじんをひょうめいしなかそねぎょうかくちょうかんこうけいしゃにしめいし、たなかすずきなかそねのしゅりゅうさんぱはなかそねやすひろをこうほにいっぽんかする。けっかははばつのしめづけがありよびせんであべにもおよばず4くらいとなる。このときのなかそねそうりたんじょうどらまはわたしもしゃかいじんとなっておりせんめいにおぼえている。そのときのふううんじがなかがわいちろうだった。

そっちょく、だいたん、かけひきのないひとがら、というのがなかがわにたいするじんぶつひょうであるが、どうしであったいしはらしんたろうは、なかがわの「みりょくはけっきょくかわいらしさだったとおもう。」とひょうしている。

なかがわいちろうざゆうのめいは、「しんじついちろ」である。おやこうこうでもゆうめいだった。またよくうたううたは「ほしかげのわるつ」で「しかたがないんだ、くんのため」のくんをくににおきかえてうたっていた。ほっかいどうしゅっしんよこづなちよのふじこうえんかいちょうでもあった。

きねんかんからてんまかいどうをはしったところに「なかがわいちろうのうりんすいさんだいじんせいたんのち」というひがたっている。くろぢにしろぬきでかかれているじはひろおまちちょうのいずみこうやしのかいたもの。このひのこんりゅうにあたってきふをしたにんとなまえがわきにかいてあった。5まんえんが11にん、3まんえんが2にん、2まんえんが3にん、1まんえんが17にんとあったから、ごうけいで84まんえんになる。あおいやまやまをとおくにながめ、こむぎはたけのうつくしいみどりにかこまれたあきのふうけいは、なかがわのりんとしたそしてきびしいふるまいをかんじさせる。

きねんかんは、こうようきぎをしたがえてゆうぜんとたっている。なかがわわふくをきてちょんでいるようないんしょうであり、おもわずいずまいをただしたくなるようなたてものだった。

ししつしゅうにまされ、りかいりょく、はんだんりょくはばつぐん。こうどうりょくにひいで、せいじゃをせんやかにふんべつし、しかもこれがただしいとしんじたことについては、せんまんにんといえどもこれをはいしてすすむきがいのもちぬしである。」「くもをよぶひりゅうであり、かぜにうそぶくもうこそのものであった」(「ふくだきゅうおっと

「ばつぐんのちえとちからをもつ、いわばそんざいかんのおもいおとこである。くわえて、にんをみりょうするようきさときさくなひとがらで、どんなにんにもしんらいかんをだかせる、ほうようちから(ほうようりょく?)のおおきいせいじかだった。」「しんゆうなかのしんゆうだった」(あべすすむたろう)

「おりにふれておもいおこすどこころのなかをさざなみをたててよぎっていく、というあいてはめったにあるものではない」「あのきょきくもろくかわいかった、わたしのじんせいのなかをとおりすぎていったひとりのなつかしいおとこ」(いしはらしんたろう

なかがわいちろうこうけいしゃをあらそったちょうなん・なかがわしょういちとじつりょくひしょだったすずきむねおのふたりがならんでなかがわいちろうのことをしんでいるいるぶんしょうをめにした。

なかがわしょういちは、「「らしくいきぬいた」57ねんの10かがつのおやじのじんせい」というえっせいで、「「らしくいきぬいた」とわたしはおもいます。にんげんらしく、、、おとこらしく、、、おっとらしく、、、ちちおやらしく、、、せいじからしく、、そしてなかがわいちろうらしくみずからもえことごときてしまった、、」「おやじがこのんでかいたことばは、「しんじついちろ」、「かんもんにこうこつあり」、「くもさりててんいちしょく」、「じんじをづくしててんめいをまつ」でした」とある。

すずきむねおは、「このにんのためなら、からだをはろう、すべてをかけよう」そんなきもちでおつかえした14ねんかんでした」「おやこうこうなにんでした」「いつかおふくろによろこんでおらおうとおもって、きょうまでがんばってきた」いつもこうはなしていたもんです」「ほんねをいうせいじかとしていちじだいをきづいたなかがわいちろうせんせいのすがたこそ、わたしにとってさいこうのおてほんであります」。そして「きびしいせんきょせんのけっか、ごしそくは、なかがわいちろうせんせいをうわまわるりっぱなせいせきでとうせんされ、わたしもひきあげていただきました」ともかたっている。

なかがわいちろうだいがくのせんぱいでもありちゅうもくしていたが、こんかいきねんかんでそののこしたげんどうをしるにつけ、いちどあっておきたかったというおもいのするじんぶつだった。

そうさいせんぜんやに、なかがわきゅうだんしているせいてき・たなかかくえいごるふをしたとき、「いけのこいははねてもよいが、じゃりのうえにおちるとするめになるぞ」といっったとほうどうされて、このせりふはゆうめいになった。

とらっくばっく - http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20081107
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