かみおひろしたのどくしょにっき『はるさくらどうしょてんのついたち』 このぺーじをあんてなについか RSSふぃーど

2008-08-28 さあ、いこう。

どくりょう21:49 このえんとりーをふくむぶっくまーく

つがるつうしん (しんちょうぶんこ)

つがるつうしん (しんちょうぶんこ)

つがるつうしん』どくりょう。こちらもたんぺんしゅう。たんぺんのかずだけでかんがえてもほんとうにたさくさっかだった。そのわりに、いくつかのしょうせつわがやにはかざいがないといっっている。みんなうるかしつにいれるなりしているのである。ぶんしはそういうせいかつをしないとつづけられないのか? とじんだぎもんにおもったりする。りんしょくなぶんしはいたのだろうか?

よいたんぺんがたくさんあった。じょばんと『きむらせんせいしりーずはあまりすきじゃなかったけれど、ひょうだいさくの『つがるつうしん』とだいされたいくつかのさくひんは、そかいさきのだざいのすがたがさまざまなかたちであらわされる。やっぱりじょうずすぎるし、なかにははっとさせられるさくひんもある。こうはんの『ちゃんす』はすいーつ(わらい)があふれるきょう、だざいのぶんしょうがまざまざとこのじょうきょうをひはんしているようにすらかんじる。いまではせいしょくこういをびようあつかいするのだからしっしょうをとおりこして、かるいぶべつさえかんじる。

べつにじょせいがきれいになろうとどりょくすることはひつぜんてきなことだし、かわいいものにむらがるのはふつうのことなのかもしれないけれど、てれびをひっしにみているじょせいとはぜったいにきもちをかよわせられないとはおもう。なんか、ぐちにすらかんじた。でもへんにれんあいにひっしになってもしっぱいするのがよのつねよ。いたみをしらねばうたれよわきままなのだから。

はんにん』はしがちょくやにざだんかいでいっしゅうされてしまった。これでだざいはいかり、のちに『じょこれわれぶん』のいかりにつながる。しかし、おちだけをさいじゅうようにするとはしがちょくやのかんがえかたもどうかとおもった。じゅうようなのは「はんにん」であるおとこがさいごにいたるまでのこうどうになにをかんじるかである。ざいにんになったいじょう、かえれぬかくごをしたとかんがえるべきではないだろうか。それゆえにさいごのおちのあわれさがよりつよくいみをもつのではなかろうか?

『さけのついおく』がはっぴょうされたのはしょうわにじゅうさんねんのいちがつ。かいせつでもしてきされているが、だざいおさむはこのはんとしごにたまがわじょうすいにしずむ。それなのにないようはかるく、さけにまつわるついおくがえがかれている。とくにせんかはげしいとうきょうでさけのみみがあつまったばかさわぎがたのしい。そして、そのばめんよりもまえだがまるやまさだおとだざいのであいはとてもすばらしいかいわだった。これこそすいということばそのものである。ぼくはさけがすきじゃないのに、そのこころいきにはむねうたれるかんどうすらあった。これこそすばらしきかな、ひとごころのこうりゅう。じじつであろうと、きょこうであろうとすばらしい。

あるいみきょうはきねんすべきにち。これでしんちょうぶんこではっこうされただざいおさむぶんこはすべてよみおえた。ここまでよんだら、あおぞらぶんこぜんしゅうでもよまないかぎり、あたらしいだざいのぶんしょうはおがめない。とはいえぜんしゅうとておさめていないさくひんがあるかもしれない。へたしたらきんきのしゃようかんにははっぴょうされていないさくひんがいくつかねむっているのではないか、とかいうもうそうもはじまる。しかして、まだおわりではない。あらたまったきもちで、

つがる (しんちょうぶんこ)

つがる (しんちょうぶんこ)

にんげんしっかく (しんちょうぶんこ (た-2-5))

にんげんしっかく (しんちょうぶんこ (た-2-5))

つがる』と『にんげんしっかく』をよむのだ。しかし、これもつうかてんかもしれない。あらたなはっけんかんどうしてうちふるえるひまもなく、ぼくは“ぶんがくしょうじょ”といちじのわかれをけいけんするのだから。

あまりかたることもない。 21:49 このえんとりーをふくむぶっくまーく

どういうことだか、しんみょうなしんきょうがじぶんのいまのそっちょくなきぶん。いかりをとおりこすと、あるていど、こころがおだやかになるのか、それとも『“ぶんがくしょうじょ”しりーず』ほんぺんのさいしゅうかんをまえにしてこころがふついているのをひっしにおさえていようとしているのかもしれない。「あいかわらず、あそこのかみおさんはさけびだしたらとまらないね」とわらわれているかもしれない。じつじょう、ぼくははなしがあうにんとはなすことがあれば、それはもうへいやれみのごとくしゃべる。やかましいくらいはなす。とはいえ、さいきんではあわせられるにんがすくないのがかなしいのだが……。

ほんとうによむときはかけぬときとりかいすべきか? 21:49 このえんとりーをふくむぶっくまーく

いまのじぶんはかくため、ではなくよむため、にあるのかもしれない。つまり、ちからはしぜんとそちらへむかっている。

こどく」はちからになるが「ふもう」はうしなうばかり。 21:49 このえんとりーをふくむぶっくまーく

こどく」というものをいとしくおもえるようになったのはいつのことだろう。こうこうのごろ、やたらとほんをよんだりひるやすみらじおをきいたりしていることがあった。しかもひとりで。ともだちがいないわけじゃない。みずから、そういったこういにおよんでいる。それはたのしかった。わずかなじかんでえられるものはじぶんのなかのしんそうへのてがかりだったのかもしれない。

また、ほうかごのとしょしつのくうきがすきだった。ぼくのとおっていたこうこうはけんでもわーすとくらすこうこうで、ついにはしょうめつがかくていしつつある。しかし、ぼくはじゅうだいなかば、あのとしょしつのほこりっぽくもあるが、しずかでせいひつなじかん。にんなんかじぶんしかいないようなことばかりだった。そんなへやでしんちょうぶんこをむさぼりよんでいたひびがなつかしい。

つめたいよるに (しんちょうぶんこ)

つめたいよるに (しんちょうぶんこ)

このほんがあったからこそ、しんちょうぶんここーなーでむさぼるようにぶんこをよむことができたとおもっている。

こんせんと

こんせんと

ぼくがほんをよむきっかけがこのほんであることはゆるぎないじじつだけれど、それをけいぞくするかたちにしてくれたのはこうくにかおりのみじかくもうつくしくたのしいものがたりと、としょかんのあのせいひつなくうきこどくをいとしくおもうきもちだったとおもう。

げんだいは、いや、いきることは「ふもう」だ。すべてのぞみとおりにはならないし、どりょくはむくわれないこともある。そこでじこをまもることはこくくくつうをともなう。どうちょうはらくなようでじかんおきんをうしなうこともおおい。たのしかったね、ということばもぼくはこころのそこからたのしめているのか、というかいぎをじぶんになげかける。ぼくにとってのかんどうは、どうしてもひとりのときにたいけんしたなんらかのものごとである。やはりほんがおおい。

さけをのむことはつかれる。でんしゃのきょうくるしさはつかれる。ひとりであることもつかれる。なにもえられないようなきがしてしまう。きぶんはあがらず、ちからはうしなわれるようなきがしてならない。

それでも、じぶんがひっしにえらびとったほんがたのしかったらこころのそこからうれしい。しょうせつでためいきがでるしーんでかのんをきいているとこころがわきたつ。しゅういのにんはぼくのこうふんをしらない。こどくだからこそ、これはかんじられるいっしゅんのきせきだ。

でも、どこかのこざかしいにんは「こどく」なんてしゅういにあわせられない「じこあい」だろう、なんていうかもしれない。わらわせてくれる。じこにひはんてきでなくて、こどくなどきどれるか。じぶんのいしをかんたんにまげるようなにんはこどくになれない。じりつしてふかんしたしてんでじぶんをまもるためにひっしにいきぬいてみせる。

いまは。 21:49 このえんとりーをふくむぶっくまーく

あいかわじゅんみたいなつうかいなゆうじんがほしい。かのじょはかっこいいのではなく、すっきりとしすぎなくらいなにんである。じんるいさいきょうゆえか。ともかく、たわごとしりーずをよむたびに、いつもすっきりさせてくれる。ぼくはいーちゃんとおなじべくとるをむくことがよくあるも、おなじようにあいかわじゅんのそのすがたにためいきさえかんじる。

さいごに。 21:49 このえんとりーをふくむぶっくまーく

あしたはねりまにもどらずじっかにかえる。りょうしんがしゅうまつ、とおでをするので、そのかん、ねこのめんどうをみることになった。といってもかれらはたいりょうのえさとみずがあればみっかはへいきでくらせるいきものではある。

とりあえず、いえにかえるまでに『つがる』はよみおえておきたい。そのいきおいで『にんげんしっかく』をよみ、

“ぶんがくしょうじょ” とかみにのぞむさっか した (ふぁみとおりぶんこ)

“ぶんがくしょうじょ” とかみにのぞむさっか した (ふぁみとおりぶんこ)

“ぶんがくしょうじょ”とかみにのぞむさっか』をよむことにしたい。よかった、かのじょえがおだった。くのうはするかもしれない。けれど、くのうのさきにこたえがあることをぼくはしんじてきょうもほんをよむ。このこころをぐげんかすることがつぎにめざすべきばしょだ。

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