2008-08-28 さあ、いこう。
■どくりょう。 
『つがるつうしん』どくりょう。こちらもたんぺんしゅう。たんぺんのかずだけでかんがえてもほんとうにたさくのさっかだった。そのわりに、いくつかのしょうせつでわがやにはかざいがないといっっている。みんなうるかしつにいれるなりしているのである。ぶんしはそういうせいかつをしないとつづけられないのか? とじんだぎもんにおもったりする。りんしょくなぶんしはいたのだろうか?
よいたんぺんがたくさんあった。じょばんと『きむらせんせい』しりーずはあまりすきじゃなかったけれど、ひょうだいさくの『つがるつうしん』とだいされたいくつかのさくひんは、そかいさきのだざいのすがたがさまざまなかたちであらわされる。やっぱりじょうずすぎるし、なかにははっとさせられるさくひんもある。こうはんの『ちゃんす』はすいーつ(わらい)があふれるきょう、だざいのぶんしょうがまざまざとこのじょうきょうをひはんしているようにすらかんじる。いまではせいしょくこういをびようあつかいするのだからしっしょうをとおりこして、かるいぶべつさえかんじる。
べつにじょせいがきれいになろうとどりょくすることはひつぜんてきなことだし、かわいいものにむらがるのはふつうのことなのかもしれないけれど、てれびをひっしにみているじょせいとはぜったいにきもちをかよわせられないとはおもう。なんか、ぐちにすらかんじた。でもへんにれんあいにひっしになってもしっぱいするのがよのつねよ。いたみをしらねばうたれよわきままなのだから。
『はんにん』はしがちょくやにざだんかいでいっしゅうされてしまった。これでだざいはいかり、のちに『じょこれわれぶん』のいかりにつながる。しかし、おちだけをさいじゅうようにするとはしがちょくやのかんがえかたもどうかとおもった。じゅうようなのは「はんにん」であるおとこがさいごにいたるまでのこうどうになにをかんじるかである。ざいにんになったいじょう、かえれぬかくごをしたとかんがえるべきではないだろうか。それゆえにさいごのおちのあわれさがよりつよくいみをもつのではなかろうか?
『さけのついおく』がはっぴょうされたのはしょうわにじゅうさんねんのいちがつ。かいせつでもしてきされているが、だざいおさむはこのはんとしごにたまがわじょうすいにしずむ。それなのにないようはかるく、さけにまつわるついおくがえがかれている。とくにせんかはげしいとうきょうでさけのみみがあつまったばかさわぎがたのしい。そして、そのばめんよりもまえだがまるやまさだおとだざいのであいはとてもすばらしいかいわだった。これこそすいということばそのものである。ぼくはさけがすきじゃないのに、そのこころいきにはむねうたれるかんどうすらあった。これこそすばらしきかな、ひとごころのこうりゅう。じじつであろうと、きょこうであろうとすばらしい。
あるいみできょうはきねんすべきにち。これでしんちょうぶんこではっこうされただざいおさむのぶんこはすべてよみおえた。ここまでよんだら、あおぞらぶんこかぜんしゅうでもよまないかぎり、あたらしいだざいのぶんしょうはおがめない。とはいえぜんしゅうとておさめていないさくひんがあるかもしれない。へたしたらきんきのしゃようかんにははっぴょうされていないさくひんがいくつかねむっているのではないか、とかいうもうそうもはじまる。しかして、まだおわりではない。あらたまったきもちで、
『つがる』と『にんげんしっかく』をよむのだ。しかし、これもつうかてんかもしれない。あらたなはっけんにかんどうしてうちふるえるひまもなく、ぼくは“ぶんがくしょうじょ”といちじのわかれをけいけんするのだから。
■あまりかたることもない。 
どういうことだか、しんみょうなしんきょうがじぶんのいまのそっちょくなきぶん。いかりをとおりこすと、あるていど、こころがおだやかになるのか、それとも『“ぶんがくしょうじょ”しりーず』ほんぺんのさいしゅうかんをまえにしてこころがふついているのをひっしにおさえていようとしているのかもしれない。「あいかわらず、あそこのかみおさんはさけびだしたらとまらないね」とわらわれているかもしれない。じつじょう、ぼくははなしがあうにんとはなすことがあれば、それはもうへいやれみのごとくしゃべる。やかましいくらいはなす。とはいえ、さいきんではあわせられるにんがすくないのがかなしいのだが……。
■「こどく」はちからになるが「ふもう」はうしなうばかり。 
「こどく」というものをいとしくおもえるようになったのはいつのことだろう。こうこうのごろ、やたらとほんをよんだりひるやすみにらじおをきいたりしていることがあった。しかもひとりで。ともだちがいないわけじゃない。みずから、そういったこういにおよんでいる。それはたのしかった。わずかなじかんでえられるものはじぶんのなかのしんそうへのてがかりだったのかもしれない。
また、ほうかごのとしょしつのくうきがすきだった。ぼくのとおっていたこうこうはけんでもわーすとくらすのこうこうで、ついにはしょうめつがかくていしつつある。しかし、ぼくはじゅうだいなかば、あのとしょしつのほこりっぽくもあるが、しずかでせいひつなじかん。にんなんかじぶんしかいないようなことばかりだった。そんなへやでしんちょうぶんこをむさぼりよんでいたひびがなつかしい。
このほんがあったからこそ、しんちょうぶんここーなーでむさぼるようにぶんこをよむことができたとおもっている。
ぼくがほんをよむきっかけがこのほんであることはゆるぎないじじつだけれど、それをけいぞくするかたちにしてくれたのはこうくにかおりのみじかくもうつくしくたのしいものがたりと、としょかんのあのせいひつなくうきとこどくをいとしくおもうきもちだったとおもう。
げんだいは、いや、いきることは「ふもう」だ。すべてのぞみとおりにはならないし、どりょくはむくわれないこともある。そこでじこをまもることはこくくくつうをともなう。どうちょうはらくなようでじかんやおきんをうしなうこともおおい。たのしかったね、ということばもぼくはこころのそこからたのしめているのか、というかいぎをじぶんになげかける。ぼくにとってのかんどうは、どうしてもひとりのときにたいけんしたなんらかのものごとである。やはりほんがおおい。
さけをのむことはつかれる。でんしゃのきょうくるしさはつかれる。ひとりであることもつかれる。なにもえられないようなきがしてしまう。きぶんはあがらず、ちからはうしなわれるようなきがしてならない。
それでも、じぶんがひっしにえらびとったほんがたのしかったらこころのそこからうれしい。しょうせつでためいきがでるしーんでかのんをきいているとこころがわきたつ。しゅういのにんはぼくのこうふんをしらない。こどくだからこそ、これはかんじられるいっしゅんのきせきだ。
でも、どこかのこざかしいにんは「こどく」なんてしゅういにあわせられない「じこあい」だろう、なんていうかもしれない。わらわせてくれる。じこにひはんてきでなくて、こどくなどきどれるか。じぶんのいしをかんたんにまげるようなにんはこどくになれない。じりつしてふかんしたしてんでじぶんをまもるためにひっしにいきぬいてみせる。
■いまは。 
あいかわじゅんみたいなつうかいなゆうじんがほしい。かのじょはかっこいいのではなく、すっきりとしすぎなくらいなにんである。じんるいさいきょうゆえか。ともかく、たわごとしりーずをよむたびに、いつもすっきりさせてくれる。ぼくはいーちゃんとおなじべくとるをむくことがよくあるも、おなじようにあいかわじゅんのそのすがたにためいきさえかんじる。
■さいごに。 
あしたはねりまにもどらずじっかにかえる。りょうしんがしゅうまつ、とおでをするので、そのかん、ねこのめんどうをみることになった。といってもかれらはたいりょうのえさとみずがあればみっかはへいきでくらせるいきものではある。
とりあえず、いえにかえるまでに『つがる』はよみおえておきたい。そのいきおいで『にんげんしっかく』をよみ、
『“ぶんがくしょうじょ”とかみにのぞむさっか』をよむことにしたい。よかった、かのじょはえがおだった。くのうはするかもしれない。けれど、くのうのさきにこたえがあることをぼくはしんじてきょうもほんをよむ。このこころをぐげんかすることがつぎにめざすべきばしょだ。




