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2008/09/04 
まだやるのかよ。
たまたまちほうとしがたなぼたでちゅうもくされたからといって、つぎのてをうてなければあっというまにわすれさられる。
どちらかというと、いっかせいのあにめよりも、「にほんじんのしぜんかん」とか「しんとうとしぜん」とか「おやこでしたしめるじんじゃ」とか「かんとうにおけるしょうえんとぶしだんのけいせい」といったぢみちなてーまでまちおこしをはかったほうがいいようにおもえるが。こうこうやきゅうのきょうごうこうがあるのだから、こうこうのすぽーつしんこうでもいいではないか。
あまり「かんとうのかくしきたかいじんじゃ」をからめると、「まつりごときょうぶんりのげんそくにはんする」とかみつかれてしからよさんがでなくなるとおもっているのか。
【さらばかくめいてきせだい】だいにぶ(2)とうしょはりありとかんじた さっさあつしぎょうさんがみた「ぞうげのとう」 (1/4ぺーじ) - MSNさんけいにゅーす
まさに「ぞうげのとう」ということばがぴったりで、かんみことたみひやけんいしゅぎ、かんりょうしゅぎはあたりまえ。いがくぶきょうじゅはだいみょうぎょうれつのようにじょきょうじゅやじょしゅらをひきつれてかいしんし、むきゅうじょしゅがいかるのもむりはなかった。「ありすとてれすいこうはせんもんがいでわかりません」とひらきなおるせいじがくものもいた。
しょうわ43ねんはる、にほんだいがくのしとふめいきんもんだいがあきらかになり、さっささんもあきれかえる“じけん”がおきた。ふめいきんのそうさにからむかたくそうさくで、にちだいほんぶのろっかーから2おくえんものさつたばがみつかった。あるきょうじゅのこじんしさんで、じじょうをきくとがくせいに1てん1まんえんでてんすうをうっていたとこくはくした。きゅうだいてんに3てんたりないと3まんえん。うらぐちにゅうがくのそうばは800まんえん。そんなしくみがまかりとおっていたという。
きんにかんするふはいはいっそうされても、がくしゃにはにんのわるくちばかりいうにんげんがおおい。
せんもんばかとか、こものほど、たにんのわるくちという(もうひとつの)しごとぶりはねっしんだったりするからこまったものだ。
しつのわるいがくしゃは、やくざとおなじで、よわいもの(じゅけんせいやがくせい)にはつよく、つよいもの(じょうしやけんい)にはよわいのではないか。
とくにしょうらいのゆうぼうかぶには、じぶんからだいがくをさっていくようにしむけけるふとどきものさえいるという。
しょうらいをしょくぼうされながらもきょうじゅやだいがくとのとらぶるでさっていったにんげんは、おおいとおもう。
あてねのときもそうだったが、あとになってじゅんいがあがってもなまちゅうけいではしちょうしゃともどもくやしなみだなのだから、すなおによろこべない。みるからにこんかいはぜっふちょうだった。
うたまくらちからとのけつべつ〜しじゅくほうかいのじょきょく
2008ねん1がつ、8ねんかんつれそったでし・まねじゃーのうたまくらちからとけつべつした[69]。じょせいじゅくせいとのこうさいにのめりこんだやまもとがにっきげんこうののうひんをちえん、PCにゅうりょくかかりのうたまくらにふたんをしいていたこと、またたーざんぎゃるどからのきゅうきんについてけんかいのそういがあったことなどがげんいんとなったけんかべつれだった。とうしょ、やまもとは「うたさんといいかたちで?わかれる?ことになった」とえんまんなわかれをあぴ−るしていたが[70]、ごじつ、じゅくせいがうたまくらのそうべつかいをきかくするとこれにげきど。「いいわかれなんてない」「いいわかれをえんしゅつしようとするにんがいたら、よけいなことはするなである。ほっとけ。おまえにはかんけいない。それでもしつこくいうなら、おまえともへりをきる。おれのるーるにふみこんでくるやつは、おれはかまわずぶったきる。まちがいなく」[71]と、「いいわかれ」ではなかったことをはからずもみずからとろした。そうべつかいをきかくしたじゅくせいはこのじけんをきにやまもとからきょりをおき、こののちにつづくじゅくせいたいりょうりだつのたんしょをひらいた。
じゅくせいとせいてきかんけいに〜しじゅくのかんぜんほうかい
しじゅくのじょせいじゅくせいとれんあいかんけいにおちいり、かのじょをとくべつあつかい[18]したことがきっかけで「このところまったく。ぽすとかーどやてがみがこなくなり」[72]、じゅくせいのりだつにはどめがかからないじょうたいにある。
なお、このじょせいじゅくせいはさんかひすうじゅうまんえんのこうがくじこけいはつせみなーのしんぽうしゃであり、かのじょをやまもとにしょうかいしたたーざんぎゃるどしゃちょうふさいもまた「この1ねんかんでそのひようなんと1000まんえん!」をじこけいはつせみなーにそそぎこんでいる[73]。このことがかんけいしているのか、ぶんしょうこうざだったはずのしじゅくが「じんかくてんさく」のばとなる、じたくのばいきゃくはなしをひんぱんにもちだすなど、じたいはきゅうてんしている。
ぷれすぱすをつかって「かのじょじまん」
2008ねん3がつ15にち、DREAMはたあげこうぎょうをぷれすぱすをしんせいしてじゅくせいたちときしゃせきからかんせん。しかしとうしょからしゅざいもくてきではなく「かのじょをともだちにしょうかいするつもり」であり、れんあいかんけいにあるじょせいじゅくせいをびきつれていんたびゅーるーむにおしかけ、たにがわていじをはじめとするかんけいしゃにてあたりしだい、「かのじょじまん」をおこない、そのようすをにっきとしてあっぷした[74]。なお、しょうかいのことばは「おい、たにがわ! かのじょ、34とし!」であった。
2008ねん4がつ5にちにも、「いってゆめかおりちゃんをみんなにみせびらかせよう」と、ぜんにほんぷろれすのこうらくえんほーるこうぎょうにでむき、しゅざいのめいもくでしんせいしたぱすでともににゅうじょう。しかし、わずか2しあいをみただけでかいじょうをのちにしている。このいちれんのこうどうは、いのうえじょうじ(もと「ふぁいと」かみへんしゅうちょう)らぷろれす・ますこみかんけいしゃのひんしゅくをかういっぽうで、DREAMこうしきBBSにおいてもいっぱんのかくとうぎふぁんから「ただみをしたやつらがいる」「ちゃんとりょうきんをだしたきゃくをなめています」とのひはんをあびた。
らじおばんぐみでせいせいかつをとろ
2008ねん3がつ27にち、「てりーいとうのってけらじお」にれんあいかんけいにあるじょせいじゅくせいとともにしゅつえん。かのじょのかぞくがばんぐみをきいているにもかかわらず、しんこいわのらぶほてるでせいてきかんけいをむすんだことなどをあかはだかにこくはくした[19]。せいせいかつのとろにかんしてやまもとは「いとしあっていたらしぜんなことだしなにもかくすことなどまったくない。このけんについてはわたしはがいこくじんのすたいるをとる」とかたっている[75]。
いんたびゅーかくめい
2008ねん4がつ、『ぷろれす「あくむの10ねん」をとう』(たからじましゃ)に「ぷろれすきしゃせいかつをそうかつできない『たーざんやまもと』62としの『せいしょうどう』と『さいのうのげんかい』」とだいするいんたびゅーきじがけいさいされた。3がつのしゅざいとき、いんたびゅあーはやまもとのかくかくさぎ、げんどうのむじゅん、しじゅくのせいとにてをつけたことをついきゅうし「たーざんやまもとのどうでもいいはじは(にっきに)かけても、やまもとたかしのはじはさらせない」とだんずるなど、やまもとのよそうをはるかにこえた“しゅーと”なしゅざいをちょうんだ。こいびとどうはんでしゅざいばしょにあらわれて“ぷろれす”をするこころづもりであったやまもとははげしくどうよう。とうじつのにっきにはつらうじて「まあ、なんとかわたしはかのついきゅうをかわした。のらりくらりのせんぽう」としるしたものの[76]、よくじつはにっきをはんきゅうしてとこにふせることとなった[77]。
しかし、ほんがじょうしされいんたびゅあーのしゅーとなしゅざいしせいがひょうかされると、「わたしはそれにたいしてにげることなくどうどうとうけてたった」「どうだ、みたことかである」「いんたびゅーにかくめいをおこしたのとおなじである」とあたかもみずからのちょさくでありみずからのてがらであるかのようにたいどをいっぺん[78]。さらにやまもとはこのこうひょうにびんじょうしようとみずから"いんたびゅーきじへのはんろんぶん"をしっぴつ。しかしはんろんぶんは「Gりんぐ」へんしゅうちょうかなざわかつひこからけいさいをことわられ、『けーふぇい 4―ぷろれす&かくとうぎ「たぶー」でんせつ』(いんふぉれすとかぶしきがいしゃ)にしゅうろくされるにとまり、くだんのいんたびゅーきじのようなわだいをよぶことはなかった。
さいごのとりでをぜんひてい
2008ねん7がつ5にち、「こいびとのがくれきさしょうぎわく」をいんたーねっとけいじばんならびにめーるけいゆでしてきされたやまもとは、「だからわたしはねっとをみないのだ。めんどうくさいというかばかばかしいというか、すべてがくだらないのだ」[79]「ねっとってひまなにんたちのあつまりだよ」「まずそういうやつはもてないよ。もてようがないだろう」「きょうどうといれのじゅうにん」[80]といんたーねっとゆーざにたいするひはんをてんかいした。こうしたひはんじたいはとくにめあたらしいものではないが、そのかつどうのほとんどすべてをいんたーねっとにいぞんしているにんげんのことばとしてはあきらかなむじゅんをはらんでおり、「ならばそのようなくだらないばしょ、きょうどうといれのじゅうにんあいてのしごとからはゆうたいすればよろしい」 「といったしてきがうぇぶにっきうんえいかいしゃへとたいりょうによせられるというじめつてきけっかをまねいた[20]。
もはや、らいたーとかへんしゅうしゃではなく、「げいにん」といっったほうがいいだろう。
さいきんは、かのじょをこうでもつれまわすなどして、こうしこんどうもはなはだしいとひょうばんがわるいらしい。
しゅうぷろぜんせいじだいをおもえば、うそのようなちょうらくふり。
そして、かのじょがでるにしたがって、ながねんまねーじゃーをしていたおとこをきりすてたという。
おとこもおんなもつきあうあいてのえいきょうはおおきいものだとはいえ、おおものでもやってしまうしっぱいをこのねんでしなくてもいいではないか。
あるにんがとつじょ、ふぇみにすとてきなはつげんをしだしたり、あたりさわりのないひょうげんにかわると、たいていはじょせいとのこうゆうかんけいのへんかがみられるものだが、あまりわがつよすぎるとか、あいてのちめいどをりようしてじこじつげんをはかろうとしているけんりょくしこうのにんげんとはつきあうべきでないとおもう。ほんにんものぞむから、たーざんのHPにもかおだしででているのだろうが、だいたすうのにんげんには「だれ、このにん?」なのだから、ひいきしすぎではないか。
ゆえGばばのもとこふじんよりもひどい。
ばんふしをよごしてかこのめいせいにどろをぬりつづけているようだが、もうじんせいが、ばんきにさしかかったとみてもいいのだろうか。
ぷろれすいがいによばれるばしょもないようだから、ぷろれすがちょうらくすればもはやいばしょはない。
こんな「なんみん」をひきうける「ようろういん」のやくわりをいまのぷろれすますこみがになっているとはいえ、すでにかこのなまえとなったにんたちをやしなうためにきんをおとすおにんよしはへるいっぽうだ。
ざっしをかわない、ほんをかわず、じょうほうげんをねっとにいぞんするぷろれすふぁんがふえているいま、かれらをやしなうたいりょくはもうないだろう。たかはしほんをひはんするかんけいしゃがおおいわりには、ばくろをうりにするむっくにめいをつらねるにんげんがおおいのはいったいどういうわけなのかときいてみたい。たーざんも、かこのすとっくをきりうりしていきながらえるしかないだろうか。
- さくしゃ: ばーばらぐーでぃしゅ, らりーまてぃしく, Barbara Goodish, Larry Matysik, たなかまさこ
- しゅっぱんしゃ/めーかー: とうほうしゅっぱん
- はつばいび: 2008/02
- めでぃあ: たんこうぼん
かんけいしゃにはてっていてきにきらわれ、ふぁんにはしんかくかされているぶるーざー・ぶろでぃ。
20ねんへったいまもこうやってとりあげられるのは、いまではにっぽんだけだろうか?
WWEしかしらないぷろれすふぁんには、もはやかこのにんであるばかりか、WWFのぜんべいしんこうでかわりいくぷろれすになじめずぼつらくすることがかくじつだった。いまもいきていれば、じぇいく・ろばーつや、らんでぃ・さべーじのように、いんでぃーをわたりあるいてろうしゅうをさらしていたにちがいない。ばばのしごは、にっぽんまっとかいからもほされていただろう。
あんがい、すてろいどやこうふんざいのふくさようでじゅみょうをちぢめていたかのうせいもあるが、こめまっとかいがほうかいするちょくぜんにしをむかえたことが、かえってさいわいした。
【ほうていから】じょゆうへのすてっぷだったAV…ざせつしてだんぷでわいせつさつえい (1/3ぺーじ) - MSNさんけいにゅーす
じょゆうになるためにAVじょゆうになって、さんねんもめがでなかったあげくにこうぜんわいせつとまやくしょじとは、げいのうかいのかげをおもわせる。
うれなければ、こんなひさんなめにあうことがわかっているから、おやはこどものげいのうかいいりりをはんたいするというのに、おんしんふつうでほうちしていたのならば、これはおやのせきにんといわねばならない。
あまみおおしまにかえれば、しゅういにしれわたるのではないか、などというのはよけいなおせわだが、おきなわしゅっしんのじょゆうやあいどるがにんきをえるのにくらべれば、あまみのかおだちはとうきょうでも「びみょう」といわざるをえない。すくなくとも、あまみぐんとうでぜんこっくでしじされるびじんかおはすくないとおもう。。
むかしのてんけいてきなにほんじんかおは、いまのげいのうかいではあまりうけないようだ。
【きょうわとうぜんこくたいかい】「ふちんきょうゆうするふつうのにん」ぺいりんこうほ ひはんはんげきできょうかんえる (1/2ぺーじ) - MSNさんけいにゅーす
にっぽんなら、むすめのけんでじたいさせられるだろう。
2008/04/05 
ばくまつこしゃしんじぇねれーたー -しゃしんをえど〜めいじきのこしゃしんぽくします-
ほんとうにそれっぽくみえるからふしぎだ。
こういうしゃしんをみたら、ばくまつからめいじしょきとのうさいぼうにきざまれているからというのもあるだろうが、しゃしんのうつりがふかんぜんなほどあたまのなかでほかんしようというはたらきがおきるのではないか。
どっとえのげーむのごとく、そうぞうりょくでのうがかっせいかするからたのしいとおもう。
ばくまつといえば、おさないころきんじょのてらにあきらぎたいのしゃしんがあるとがっけんのほんにあったのをみて、じゅうしょくにきいたら「なまえがおなじだけど、とうきょうのてらだ」といわれてせきめんしたことがある。
きょうも、ふじわらまさひこしのえっせいでしのせんぞがみとてんぐとうのらんでしんしゅうにやってきたてんぐとうのざんとうをむかえうったというぶんから、ひさびさにばくまつねつがよみがえって、うぃきぺでぃあでてんちゅうくみやらよしむらとらたろうやらあべまさひろやらをしらべていた。
ふつうのばくまつかんけいのしょうせつやせんもんしょでは、さつちょうやりゅうまなどのゆうめいじんのしてんでかたられることがおおいが、てんちゅうくみは、さつまはんのふしみでのそうどうや、ちょうしゅうのじょういや、はちがつじゅうはちにちのせいへんなどとれんどうしていたことがわかった。
だつはんしたろうしがどのはんのどのぐるーぷにしょぞくしていたかというのがもんだいで、はんそのものがりようされたばあいもある。
とつがわごうしをひきいたてんちゅうとうのよしむらはとさはんさむらいであり、いけだやじけんでしんだみやべかなえくらやきんもんのへんでちょうしゅうのいちいんとしてかつやくしたまきいずみは、ちょうしゅうのにんげんではないように。
「あつしひめ」のえいきょうで、こんご、しまづなりあきらやあべまさひろさいひょうかがすすむものとみられる。しばりょうたろうがばくまつでさいだいのえいくんであるしまづなりあきらがしんで、そののちはこつぶになったとひょうしているそうだが、さつちょうのしゅのうのたいはんが20だい30だいだったというのは、それいじょうのせだいがかこくなないこうでつぎつぎとだつらくしていっったからだ。しょうかそんじゅくのえりーとは、いしんまでにほとんどがしに、めいじのもといさおらはへやにいれずにそとでちょうこうしていたものばかりだったというのはゆうめいなはなしである。
はんしゅくらすでは、あんせいのだいごくでまつだいらはるがくやとくがわせいあきららがだつらくし、さくらだもんがいのへんでいいちょくひつがしに、やまうちとよのぶがとさつとむおうとうをしゅくせいし、きんもんのへんでちょうしゅうのしょうかそんじゅくのせいえいがしに、みとはんはてんぐとうのそうどうでじんざいがほとんどしに、きへいたいによってぶしのよをおわらせたおおむらますじろうもおうしし、にっぽんのほうりつをせいびしたえとうしんぺいがさがのらんでしに、いしんのげんどうりょくとなったきへいたいははぎのらんでしに、さいごはさいごうたかもりらとともにしぞくはすべていっそうされ、さいごのおおもののきどたかよしとおおくぼとしみちもしんで、かこくなせいそうのまつにいきのこった「ぶじこれめいば」が、いとうひろふみやおおすみしげのぶやいたがきたいすけらであろう。
ゆうのうなじんざいがみなしんだのちなので、じだいがくだるとともにすけーるだうんのかんはいなめないが、しばりょうたろうにいわせれば、しまづなりあきらがいちばんで、それいこうはすこしずつぼんじんへといっったということらしい。
しんせいふとちょうていにきょうじゅんしたかちうみふねがいなければ、しゅせんはのおぐりこうづけのすけやえのもとたけしようらがしゅどうけんをにぎって、さつちょうれんごうぐんがはこねでうちやぶられたというせつもある。たとえばくふにかちめがあってもないせんをいやがったのは、えどしちゅうがひのうみになることよりも、れっきょうのくさかりばとなることをおそれたからにほかならない。
めいじのもといさおといっっても、たいはんはかきゅうぶしなのできょうよう、かりすま、じんぶつのおおきさでいえば、はんしゅだったものにはおよばないのはやむをえないところであるが、しまづなりあきらやあべまさひろらがながいきしてばくふののちをうけついだとしたら、きんだいかはおおはばにおくれていたかもしれない。めいじいこうのにほんしは、かならずよくもわるくもというみかたでかたられることがおおいが、ふるきよきでんとうをのこしていれば、きんだいかのさまたげとなって、けいざいてきにはていめいしていたかもしれない。それでは、にんげんてきにはまされていても、せいかつはまずしいというせいひんにあまんじるどころか、じゃくにくきょうしょくのきょうそうにまきこまれておうべいのしょくみんちかしていたかもしれない。
しんだにんげんのかずでいえば、ぼしんせんそうはどうじきのなんぼくせんそうのじゅうぶんのいちていどらしい。
だが、ばくまつのこんらんでかずおおくのゆうのうなじんざいがしんでいるのは、なんぼくせんそうにもひってきするほどのじんてきそんしつではないか。
しまづなりあきらがもしもきゅうしせずにへいをひきいてじょうらくしていたら、ばくふがたおれたというこえはおおいが、そのときはにっぽんをにぶんするないせんになっただろう。
にほんじんはえいごがへただから、そうきにえいごきょういくをすれば、みんながはなせるようになるというあんいなはっそうや、ちしきへんちょうのきょういくをやめてゆとりきょういくにしようとかいっった、しやのせまいかんがえがおうこうするようになったのも、きんだいのがっこうきょういくがめさきのことしかかんがえられないにんげんばかりいくせいしているからではないか。これは、めいじいこうのがくばつやぎじゅつしんこうによるものだというしてきがある。
じゅけんえりーときょういくでは、きおくりょくにすぐれたかんりょうばかりになって、
じゅがくやしゅうきょうなどのじんかくやりんりきょういくがけいしされるようになったからだというのだ。
がっこうが、じんかくやせいしんきょういくではなく、こうりしゅぎのためにいるものとなったというのが、きんだいいこうのじゅけんせんそうのへいがいである。
りんりやしそうとしてのきょういくばかりじゅうしするなら、ぎじゅつりょくがこくりょくをいみするきょうのせかいでは、けいざいりょくをいじすることはできないというじれんまということだろうか・・・
かねもちでもにんげんてきにはいやなものと、まずしくてもにんげんてきにみりょくがあるものとどちらをえらぶかということではないか。
かみとしぜんをいとし、にんげんてきにはみりょくがあっても、すむとちをうったいんでぃあんのようなれいもある。
いちどてにいれたゆたかさをうってまで、「ひんかく」をもとめることははたしてできるのか。
ばくまつをびかするのはけっこうだが、「ぶしはくわねどたかようじ」までうけいれられるものはすくない。かこはきょうくんにはなっても、そのままきょうちょくめんするじたいにたいしょできるわけではない。
「いしょくたりてれいせつをしる」がしんじつだと、ばぶるほうかいいこうのにほんじんは、いたいほどおもいしらされている。
「ちしきへんちょう」「かんがえるちから」「いきるちから」とかいったくうろんをもてあそぶのではなく、りんりとぎじゅつとひんせいのばらんすをうまくとることが「きょういくさいせい」ではないか。
2008/03/16 
にあわない・・・
でも、いまのきゃらにはもうみれんがないということかも。
livedoor にゅーす - こえりゅうかんまさあきのげいのうななめぎり こうまつりょうこ、たけうちけつこのりこんでしんせつ! できこんのしっぱいは、おおものたれんとへのだいいっぽ
りこんをしてもたがくのいしゃりょうをとるというかんがえは、にっぽんではあまりねづかないようだ。
かいがいなら、ざいさんのはんぶんをもっていかれるのもめずらしくないのに、にほんじんはぬれてにあわをきらうために、げいのうじんもよういくひいがいのきんをとりにくくなっているのではないか。それでもいしゃりょうをせいきゅうしたとしたら、そののちのせいかつにもししょうがでるということだろうか。
いまのだいとうりょうのなかではずばぬけてえんぜつがうまい。
べいこくじんのえいごのようなふめいりょうなはつおんもなく、ことばのつかいかたもかなりいい。
せいじかはしょみんはをあぴーるするためにしょみんてきなことばづかいをするばあいがあるというが、KGBしゅっしんしゃだけにそんなしたしみやすさはもとめられていないようだ。
こくみんにほこりとじしんをもたせてくれるせいじかというのが、せんごのにっぽんにはもっともかけている。
そんなせいじかがいれば、すこしはせいじやけいざいもよくなるのだというのに。
いまのおうしゅうのせいじかは、じしんをとりもどすためのそんなかりすまとりーだーしっぷがもとめられているようだ。それは、かこのえいこうにひたりたいからではない。
いかにりーだーがきぞくのようにきどらずしょみんてきでも、せいかつやけいざいまでもしょみんれべるでは、こころまでひんがなくなってしまう。ばぶるほうかいでさらににほんじんのひんせいがげれつになったように。かりすまのないせいじかがはびこると、こくみんぜんいんがだらくしてしまうというのがしんりだろうか。たいしゅうはつねにげひんなほうこうにながれる。じじょうさようはない。のぶれすおぶりーじゅやぶしみちやこころがくといっったりんりかんのないげんだいではことさらげんじつしゅぎとなり、そのながれをとめることはできない。
みんしゅしゅぎをけんおしたにーちぇは、きぞくをりそうにしていたようだがそれはげんじつのきぞくではなく、りそうかされたきぞくだったことはいうまでもないが、しょみんやたいしゅうせいといったものをおだいもくにするにんげんがいかにうさんくさいかをしるべきではないか。
げんじつはしょみんでたいしゅうであっても、りそうまでがうしなわれてはなにもかわらないばかりか、わるくなるいっぽうで、わるくなるたびにそれをついにんすることをくりかえす。
てれびたれんとがたとえぎみっくであろうともげひんさをうりにしてしちょうしゃにあぴーるするように、たすうははつねにげひんなものをこのむのである。
NYしちょうとかんけいをもったというだけで100まんどるかよ・・・というのはひがみなのか。
ねがてぃぶきゃんぺーんはみにくい。げいのうじんのごしっぷきじのようだ。「たぶろいどかみじゃあるまいし」とはだれもいわないのか。
にっぽんなら、さんもんしゅうかんしのれべるである。
TVでさかんにあきばがとりあげられたあたりからにほんばしにもいかなくなった。
おたろーどなどとはそのごろまではよばれていなかった。
2008/02/24 
TVでもとりあげられてわだいふっとうらしいので、「ぶしご」のたんごをたいりょうにとうろくした。おもにいちにんしょうとににんしょうとれきしじょうのじんぶつのつうしょうである。
しゅってんはおもに、しょうわきなので、へいせいいこうのじだいげきにはないいいまわしもおおい。
「せっしゃ」と「ござる」をつけてごびをらしくしただけのなんちゃってではなく、ほんかくじだいげきなみのぼきゃぶらりーになるとさいわいである。
ただ、あくまでじだいげきとしてのごいなので、じっさいにもちいられていたかどうかはさだかではない。ちなみに「ござる」といういいまわしは、かぶきからきたものだという。
れきししょうせつでも、せりふがげんだいごかぜのものがおおいじだいには、ひとびとのきおくからわすれさられそうである。
にっぽんではむざいはんけつだが、べいこくではうたがわしいとみられていたようである。にじゅうねんいじょうへってもじこうがてきようされないのは、こくがいとうぼうはじこうきかんにけいさんしないためか。
べいこくではくにがちがえば、にじゅうしょばつにはあたらないというきていがあるのだろうか?
これでゆうざいはんけつがでたら、にっぽんのさいばんしょはあかっ恥である。
いまやにっぽんは、さらりーまんだいじゅなんじだいにとつにゅうした:とうし&おきんかつようじっせんWebまがじん MONEYzine(まねーじん)
さらりーまんになってもなれなくても、さくしゅはつづくらしい。
さらりーまんはだれでもなれそうで、だれもがなれない。てきせいがある。100えんしょっぷせいかつのていしょえものは、いっしょうさくしゅされつづけるのではないか。
2008/01/28 
ひこにゃんをこえた!? きもかわいいどあらとは? livedoor すぽーつ
「みすまっち」「かわいくない」というのがあるいみなごやらしいのではないか。
このださい、ということばすらふうじるのはかのしゃちまるくん(きんしゃちごう)をほうふつさせる(なごやじんにははずかしかったそうな)
しゃちまるくんはばいきゃくされたそうだが、ぞんめいならば、いまごろねっとでわだいになったにちがいない。
にゅうよくりょう [べるばら こすめ しょうひんかたろぐ]:べるさいゆのばら - べるさいゆのばらのけしょうひんぶらんど - CreerBeaute(くれあぼーて)
【にゅーす】びようかいもあにめぶーむ? あにめこすめがにんき:MYLOHAS
”らしさ”がのこっていた70ねんだいとはいえ、いまのまんがになれたみからは、なんともけばけばしいえだが、とうじはこれがふつう。しょうじょまんがどくしゃでも、けっこうつらいかもしれない。ときのながれのなんとはやいことか。あんとわねっととこいなかだったふぇるぜんともできかけて、あんどれをしっとさせたり、ことばのはしばしでおんなをさべつするはつげんをくりかえし、おすかるにも「しょせんおんなだ・・・」とはんぱつしながらも、こころのうちではひかれていたじぇろーでるというのも、しょうじょのあこがれぞうだったからこそゆるされたのかも・・・
ろべすぴえーるとさん・じゅすとのなかは、いまのBLのはしりではないか(わらい)
いまおもえば、だんそうのれいじんおすかるはこんなにもてもてだったのね・・・まずしいしょみんのむすめだが、じつはきぞくのらくいんだったろざりーというしょうじょも、おすかるがだいすきだったではないか。
こんなにもてても、まりーあんとわねっととおないねんなので、35としまで●●だったのだが・・・
げんさくしゃが、これをえがいていたとうじふらんすしのちしきはじつはそれほどだったかもしれないが、あにめはんがれきしてきなぶぶんをくわしくえがいたものだから、あるねんだいのにほんじんには、かくめいまえよるからなぽれおんまでのふらんすにくわしいにんげんがやけにおおい。
たからづかがひをつけたべるばらぶーむもひとやくかっているのはいうまでもない。
こういうものがうまれてうけいれられたというのは、きせきのようなものだったといまになっておもう。
いまではしょうじょまんがもしょうねんまんがも、「れきしものははやらない」というじんくすでほとんどきかくがとうらないし、しちょうしゃもよびちしきがなくてすぐにだつらくしてしまう。ちしきはなくても、どくしゃがさくしゃといっしょにべんきょうしようというじだいだったのではないか。90ねんだいいこう、しょうじょまんががせっていやぶたいにこらなくなって、せいびょうしゃをうりにするぽるのまがいのさくひんにあふれてしまったきがする。
あにめがながれていたごろは、せいさくしゃがしちょうしゃをけいもうして、ふらんすしのみならず、「かくめい」というものをけいもうしようというもちべーしょんをもっていたとおもう。おうこうきぞくがわがよのはるをおうかするなかで、しょみんがくうやくわずのくらしをしいられている・・・というふまんやいかりをむけるたいしょうが、いつのまにかせれぶとしてますこみでもてはやされるにようなってしまったが、これはかれらがてきいをむけるにもちゅうとはんぱだからだ。
「わたし」は「ぼう」「おまえ」は「きさま」しかないのでぶしかたというには、ごいがちゅうとはんぱなのでじつようせいはいまいちかもしれないが、ねたとしてはつかえるのではないか。
ざいせいさいけんだんたいをしんせいしたときのちじというおめいをこうむりたくないから、じこうがあえてたれんとこうほをすいせんしたというみかたもできそうだ・・・
だからこそ、りーだーしっぷをとれそうなこうほにひょうをいれたということか。
ちあんかいふくとざいせいさいけんさえできればだれでもいい。だれかくびをきられようとも、はさんすんぜんにまでおいやったのならばじごうじとくではないか。だれもどうじょうしない。
みんこくとやゆされたり、りけんやにたかられまくったのは、それまでのちじのせきにんでもある。
これまでどおり、じみんのあやつりにんぎょうになるならすぐにやめてもらいたい。
とうきょうとおなじく、まずはちあんかいふくからだ。ぜんこくにさきがけてしょうこかたいさくにもせいこうすれば、れきしにめいをのこせるだろう。
おおさかにきんをおとすかんこうゆうちと、けいざいをかっせいかさせるためのきぎょうせいさくもいそがれる。