2008-12-02-Tuesday 「とおのさとにてえたるいんしょう」
2008-12-01-Monday ぼつにゅうかんかくについて
2008-11-30-Sunday ちかすいみゃくをはりでさす
スクールん、おもしろかった。しょうおかさんのキャラたちぶりがほほえみをさそう。「アルファーファなんかおまへんわ」がいちばんでしたかね。「ふくしはおもしろい」とか。うめださんのコメントもするどくてききがいが。のち、おんがくか・なかがきさんとチャイでゆうめいなぼうきっさへ。つきぬけるかくごができてきたかんじだ。はなしてやるきでてきました。Uはかせ?のスピーカーシステムにはきょうみがある。それをてんじでいかすならばと。じんこうえんはきぎがたかくていい。きんじょのこうえんがいまいちなのはきがひくく、すべてにおいてこどもむけであるせいなのだ。どうろとのきょうかいがあいまいなじんにくらべ、こどものあそびばとしてくかくされているところもスケールがしれてかいほうかんはあまりかんじられない。りんかいどうろぞいいのメインサイトはこうじょうぐんである。しかしよるのこうじょうぐんはよるのこうえんよりふかいおもむき。ここ1-2がつ、しっているほうのこてんをみるためほんちょう〜よどやばししゅうへんのギャラリーをひさびさにおとずれていたが。けしきをかんじるよゆうがまえよりでてきた。ちがとおってみえる。
めざましとけいをもとめてヤマダへいったら「とけいはおいてないんです」だって。あしたおきられるかふあんなのでねるのがこわい。
2008-11-29-Saturday 2004ねんのかんしょくから
いろんなところでいろんなことがおこっているけれど、これらはどれもバラバラではなく、するするまわったりおちたりはねたりをしながらごくしぜんにひとつになることがあるのだった。
あるのだった。
うまれたときはかんぜんで、いきるうちにどんどんわすれていくからとりもどすためのツアーをしている。とけしたてちょうにかいていた。みなtravelerで、かれ・かのじょらのいろんなしゅぎはじつはなかみだけわすれてしまったじったいなのだ。ひとつおもいだすたびになみだがでる。もどってきてくれてありがとうと。おもいではほうぼうにちらばっている。そうおもうと、どこへでもでかけたくなるし、だれとでもあいたくなる。みなわたしとちがっているし、みなわたしとちがわない。これはTHE BOOM・みやざわさんいうところの「ふしぎなパワー」。
まったくしゅみじゃない2009ねんカレンダーをもらった。ゆがんだパンダのイラストがかいてある。でもわたしはらいねんこれをつかう。それでじぶんのげんどうのれいこくさをじしつでひとりわびた。あわいしきさいをあきらめないように。こんねん、このげんどうによっていやなきもちにさせてしまったにんをかぞえる。しかたがない。こんどからきをつけよう。
じぶんのてちょうがししんとなることがあってときどきよみかえす。
「じゅじゅつ」についてかいているにちが2004/4/2にあった。
『「ゆうげん」というかんかくは「ゆうげん」のほうにすりかわり、”しゃかい”というばくぜんとしたたんごをきいただけで、みをすりへらすこととそれをいやすいっしゅんのためだけのじんせいのフィールドをあんいにそうぞうさせる。”うけいれるべきげんじつ”に、みちのちからはすがたをかくしてしまった。
きえたのではない。かくれているだけだ。』
だからとおくからやってきてやっとあえたりするのに。
あしたはこちらへ。
2008-11-28-Friday melodyをみつける
せっかくのなにかを、だれかときょうゆうしたい。そういうかんかくはなれあいのうえではせいりつせず、たんなる、ほんとうにたんなるしんらいにしかまもられていない。それいじょうになにがひつようだろうか。わたしはそこでメディウムになってよく、しずかにせいせいされうるなにかについておなじようにしずかにみつめていること、ができさえすればそれいじょうのじつぞんをじぶんにはもとめない。
「これいじょうなにがひつようか」をよくかんがえる。
いったいひょうげんするひつようがあるのか。だれかれとせっしょくするひつようはあるのか。わたしたちはていどのちがいこそあれつねにどこかにじしんをろしゅつしている。せっしょくなきせっしょくをくりかえしている。けれどわたしたちはかならずぎょうしする。ぎょうししているじぶんをわすれようとすることもできるが、かんぜんにわすれられないからたしゃのそんざいをしろうとする。このはんしゃものをじっとひとりでみつづけることがいかにくるおしいこういか。しかしとちゅうでゆうわさせようとおだやかなひょうじょうをひろげてしまったときのこうかいほどのこうかいは、おそらくない。ほんとうのことをいいつづける、やりつづける、みせつづけるというのは、そうぞうをぜっするほどのこりつとがんきょうないしとをしいる。そのさなかにいれば、いったいじぶんはいつここからぬけだせるのかとめげんをおぼえてばかりいるが、いきつぎのついでにすこしでもぬけだしたきぶんをあじわおうときょうらくするならば、むなしいくうどうだけががんぜんをしめてしまうのである。
なにかがかんけつしたとおもうとき、やはりそれはかんけつしている。けれどわたしはおもう。かんけつとはうつくしさへのいぞんだと。わたしはうつくしいものをもとめているけれど、だれもしらないうつくしさをほしい。びとしてかんけつしたなんらかのかんけいせいをこそうたがってみてもいい。だからわたしはもっとうたがってほしい。しろうとする、いたわろうとする、あいそうとする、のではなくてただうたがってみてほしい。その「ただ」のぶぶんにはのうこうな、とらえようもない、あともどりもしようがない、なにかがうまっているとおもうからだ。『あそびのげんしょうがく』でかいされたのは、あそびはもどるばしょをかくほしたうえでおこなわれるうんどう、ということだった。わたしはそれを「げんしゅくさのけつじょ」ととらえた。みやこはるみは、わたしはたえるおんなになれない、おいまわすのがすき、なげられたらなげかえす、という。たえるおんなはつねにもどるばしょをさがしちんもくしている。わたしもたえることができない。きづけばもどるばしょがなくなっていても、たえることができなかった。なにももとめないということ。それはじぶんのなかにつねにもどるばしょをもっているということではないのか。とわたしはなにかをおいまわすためのたいきをする。なにかをはげしくもとめること。それはほしんとはぎゃくの、あいてのつごうをむししたぐれつな、しかしじりつてきな、けっしてこびないこういではないのか。わたしはなるべくいいきれるようになりたい。まちがっているとしてきされてもなにかをとりこぼしても、もどるばしょをじぶんでつくるくらいならばおろかしいだんげんをしてしまうだけのげんしゅくさをげんしゅつさせたい。まよいとうたがいとくりかえされるとほうもなさからかいほうされようなどとおもわずに。
1にんはじぶんをあまやかしてしまう。だからたしゃのそんざいがひつようだ。うただヒカルをすばらしいとおもったのは『for you』のなかで「1にんじゃこどくをかんじられない」といいほうっったから。1にんでいないこと。こどくへさえぼつにゅうしてはならない。けれど、それでもおもう。ぼつにゅうできないのも、ひとつのおおきなかなしみだと。
だからわたしはこころのなかでひひょうをする。わたしと、わたしがたいしているかたがたがにんげんだというしょうめいとして。にんげんであることからめをそむけないことがわたしにとってのしせいになりうる。このおういつしてやまぬむじゅんをうけいれながらも、みとめないこと。どうこくをつねにだえつづけるかくごをもつこと。なみだのすうてきがどうしたというのか。やさしさはそんなにかんたんじゃない。やさしさはかんちがいされている。あまいきびしさでつつみ、こうていしてしまうのはたやすい。まもるものをなにももたずにただたいしょうにむかおうとすること。それなしでは、だれもなにもきづけない。
わたしはだれをもきらいであり、だれをもすきである。
わたしほどこどくではないにんげんはもしかするとめずらしいのかもしれないと。
だれもがわたしをきらいであり、だれもがわたしをすきである。
ひひょうせよ。ひひょうすることがにんげんにおけるやせいじゃないのか。
