2053-05-24 かぜのたび
2008-11-27
むいしきなまでににちじょうかしたほうしのすがた
いぜん「なんのためをしょくす」http://d.hatena.ne.jp/Le-man2/20081012/1223822703
とのにっきをかきましたが、このしに、わたしはかんどうしました。
いしがきりんのししゅうより
2008-11-21
せいねんをなかまに
まきくちさきなまが、きゅうしゅうにくるたびにかたられていたことがある。それは「せいねんはいないか」ということばである。
せいねんをしゃくぶくしよう。せいねんをそだてよう。しょうらいのがっかいのために。ひろのぶるふのために−そうふかくこころにきしておられたのである。
いまふたたび、しょうてんはせいねんである。しょうこかのじだいだ。いちりゅうのだんたいは、あらゆるてをつくして、ゆうしゅうなせいねんをあつめている。がっかいも、おくれをとってはいけない。
じだいはいま、おおきくかわっている。あたらしいやくしんのためには、ぜんとにきぼうをもつむすうのせいねんを、なかまにいれるしかない。ふじんぶ・そうねんぶのみなさんも、せいねんのいくせいをどうか、よろしくおねがいしたい。とくに、これからの10ねんは、じんざいをそだて、じんざいをかくとくするしれつなきょうそうとなる。ゆだんしていると、とりのこされていく。
せいねんにひかりを! じゃくしいスクラムを!ここにわたしは、ぜんたましいをそそいでいる。
せいねんぶのかいごうも、そうそうきのように、もうぜんたるいきおいにみちた、いちだんとかんどうあふれるものにしていきたい。
せいねんぶこそ、にっぽん、そしてせかいにおいて、ひろのぶるふのあたらしいげんどうりょくである。
そのいみで、せんとうをはしるせいねんぶは、いわば“ししょう”である。みらいをたのむがわのそうねんぶやふじんぶは、“でし”のようなものといっても、かごんではない。おやにとってこどもは、かけがえのないそんざいである。「むすこよ、むすめよ、たのむ!」とのちをたくす。おなじように、がっかいにとっては、せいねんにすべてをたくすいがいにない。みらいぶにたのむしかない。このてんを、あいまいにせず、きちっとめいかくにしなければいけない。そこに、ほこりたかき「せいぎのみち」「していのみち」「しょうりのみち」が、げんぜんとひらかれていく。
せいねんのきゅうごうこそ、あらゆるだんたいのはってんのほうていしきである。こころひろびろとスクラムをひろげていきたい。
あたらしいせいねんに、さいしょからかんぺきにつとむぎょう・しょうだいをといっても、むずかしいかもしれない。まずはだいもくからでもかまわない。いっぺんのだいもくにもむりょうのくどくがあると、だいせいじんはおおせである。ようは、しんじんのかくしんをつたえることである。
せいねんがいなければ、みらいはない。していも、せいぎも、しょうりも、すべてかんねんになってしまう。たいせつなこうぬののせんにまけてしまう。
せいねんをなかまに! − がっかいは、これでみらいをひらこう!
だいご8かいほんぶかんぶかい しんせいきだいさんかいきゅうしゅうそうかい へいせい18ねん3がつ9にち とうきょうまきくちきねんかいかん
ひろのぶるふのあたらしいげんどうりょくといわれるせいねんぶ。そうねんであるわたしは、せんとうをはしるせいねんぶの“でし”である。
10がつのなかばのあるであいから、20としのせいねんとしりあい、げんざい、そのかれとともに、あさからつとむおこなをいっしょにおこなっている。きけばかれは、こんねん4がつにゅうかい。にゅうかいしたとのじかくはあるのだが、しょうかいしゃのふじんぶがかいごうなどにさそうも、「しごとがまいにち9とき10とき。やすみのにちはつかれてねているかゆうじんとあそんでいるのでそんなひまはない。」といっっていたそうだ。
どぼくかんけいのしごとをしながらていじせいこうこうをそつぎょうするが、こしをいためげんざいのしょくばでアルバイトではたらいているそうだ。きけばしゃいんになりたいというので「しゃいんになれるほうほうがある。まいあさ、うちにきていっしょにつとむぎょうしよう」とさそう。あさはつかれているのではやおきができないというので「じぶんのもくひょうがあるのに、あさがにがてだとかいっってられるか!」と、しょたいめんのかれにいいほうっった。
「わかりました!かならずきます!」とげんきのよいへんじがかえってきた。
10がつ31にちからあさつとむかいし。
とうじつ、ぼさぼさのねくせがついたあたまで5ふんちこくでやってきた。
「よくおきてきた。しかしおとこがきめたじかんならちゃんとまもれ」といっった。
つぎのにちからきょうまでいっかいもちこくなし。よるはわたしのほんぶとはちがうほんぶすんでいるため、じもとのだんしぶにつなげ、ぶかつやにちようあさのだんしぶつとむぎょうかいにさんかしている。かいかんでこうにゅうした「にんげんかくめい」ぶんこばん、1かん2かんをぞうてい。まいにち10ページ20ページとどくりょうにちょうせん。だいもくのこえもひましにちからづよくなっている。
じぶんのししょうはちゃかみか!(わらい)などとおもいながら、まいあさ、「おはよう!」などとえらそうにこえをかけてはいるが、ふしぎなであいの20としの“せいねん”をおむかえしている。
せいねんとのかかわりほうが、じぶんとししょうとのかかわりあいほうだとおもうとみがびきしまる。
2008-11-16
どくりつのたましいのきょく「フィンランディア」
ゆうめいなきょくだが、どういうきょくか、わかるにんはいるだろうか。
(かいじょうから「フィンランドのこくみんが、ロシアのあっせいにたいしてたたちああがった、かくめいのうたです}」とのこえがあがる)
そのとおりである。
フィンランドのみんしゅうは、このきょくをかなで、うたいながら、どくりつをじょうじゅした。じゃくしょうとされたくにが、たいていくにロシアのしはいをだとうしたのである。ちょうど100ねんまえにはじまったたたかいである。(19せいきまつ、ロシアこうていのあっせいにたいして、フィンランドみんしゅうのていこううんどうがもえさかる。「だいにのこっか」ともいえる「フィンランディア」のしょえんは1899ねん。あいこくしんほとばしるそうれいなきょくは、ロシアかんけんのえんそうきんしめいれいにもかかわらず、きょくめいをかえ、いたるところでえんそうされ、じゆうへのとうそうのシンボルとなった。フィンランドは1917ねんにどくりつする)
もういちど、えんそうしていただいてはどうか。(はくしゅ)(2どめのえんそう)
いいおんがくである。きんきすずめやくとしてくる。しずかなひびきではじまるが、だんだんちからづよくなり、やがてほがらかにダンスをおどるようなひびきになる。
はじめは「せいかつをどうしよう」「ころされるのがこわい」とみんしゅうはまよっている。しかし、だんだんめざめていき、さいごは「よし、たたかおう!」とたちあがる。そしてらんぶする−わたしには、そんなじょうけいがうかんでくる。
1998ねん5がつ8にち ぜんこくせいねんぶかんぶかい
2008-11-15
おんがくのよろこび
いそがしいにちじょうにおわれているわたしは、ざんねんながら、あちこちのおんがくかいにあしをはこぶきかいは、ほとんどないといってよい。それで、おんがくといっても、わたしのばあいは、もっぱらレコードによるおんがくである。
そのかわりからすのなかぬにちはあっても、レコードをきかぬにちはない。これが、ここ20すうねんにわたるわたしのしゅうせいとなってしまった。かつしてはいずみのみずをのむように、よるのせいじゃくのひととき、わたしはじっとレコードにみみをかたむける。だれにきかせるためでもない。わたし1にんのためである。すきなきょくがみつかるとなんかいもなんかいもくりかえしきくのがつねだ。こうしてばんのみぞが、すっかりまもうしたレコードもそうとうたまってしまった。
このようなしゅうせいは、しょうがいかわることはないとおもわれるが、いったいいつごろからはじまったか−それは20としぜんごのしゅうせんちょくごのことである。−はくよごれたせまいアパートのいっしつにくらして、せんごのさつばつたるふうけいは、わたしのこころまでもあらしていった。ひびのどりょくも、あらゆるぜんいも、すべてうらぎられていくようにおもえた。せいしんのこうはいなどとかんねんてきにかたづけることのできるようなたんじゅんなものではなかった。せいしゅんのねつじょうは、いたずらなはめつへのきょうぼうなはつじょうとしかおもえなかった。このようなとき、1まいのレコードが、わがこころをなぐさめていることをしったのである。
おんがくをたのしむために、わたしはレコードをきいたのではない。けすことのできない、わがこころおくのきんせんが、すきなきょくのおんぱによってきょうめいし、ときにひびきわたり、ときにはつらつとよみがったのである。わがこころのそこにも、みょうなるがっきがそんざいし、きょうめいによって、そのきんせんがせんえていることをたしかめることができた。それは、とうじのわたしにとって、えがたいひそかなるよろこびであった。
にんげんがにんげんらしさをじかくした、よろこびとでもいおうか。−いいがたいかんきのひとときを、わたしはレコードおんがくによってしったのである。
ベートーベンのだいごこうきょうきょく『うんめい』が、せまい1しつのなかいっぱいにひびきわたったとき、そのあついおとのまっただなかにつつまれて、わたしはぼうぜんとききいっったかんどうを、いまもわすれることはできない。だいよんがくしょうにいたって、わたしはかんどうをもてあました。ききおわって、われにかえったとき、すがすがしいりんぜんとしたゆうきが、わがけっこうのなかをめぐっているここちよさをじかくした。いつかきょうちゅうはみちたりていたのである。
いらい、『うんめい』のばんのみぞは、きゅうそくにすりへったが、そのころ、さらにすりへったきょくに、シューマンのかきょく『るろうのたみ』がある。このジプシーのしんやのきょうえんがおわって、よるのしらじらとあけるらしいもりのなかのすいいは、つかれはてていたわたしのずのうを、いつもあらいながしなぐさめ、へいせいにしてじゅんすいな、いきるよろこびをかたかたりかけてくれるようであった。
わたしはめんどうなおんがくりろんや、もっともらしいおんがくかいせつしょには、まったくへりのないいちおんらくあいこうしゃにすぎない。かずかずのきょくのせんたくきじゅんは、すきか、きらいかというたんじゅんそぼくなきもちのはんだんにまかせている。きらいなきょくはかえりみない。すきなきょくはあくことをしらない。いきおい、わたしのせんたくはいささかへんこうをまぬがれないだろう。にんはこのへんこうをふつごうだ、というかもしれないが、それはわたしのしったことではない。せいとくのしんじょうのちせつさにゆらいするとするならば、それもやむをえぬことだ。なによりもわたしは、おんがくにかんしては、わがしんじょうにただしくちゅうじつでありたいのである。
おんがくというものは、ちょくせつににんげんのしんじょうにかたりかけるものであって、おんぱというばいかいいがいに、りくつやりろんやしあんなどをいっさいきょぜつするものであるからだ。こうきゅうもていきゅうもない。シンフォニーであろうと、コンチェルトであろうと、ポピュラーきょくであろと、みんようやかようきょくであろうと、すきなきょくはすきなのである。またひろしのとうざいをとわない。わたしのせいめいにとってひそかにきょうめいするものはいいのである。
すうねんまえから、わたしはみやぎみちおのこんのねいろにもこころをひかれるようになった。しょじょさく『みずのへんたい』に」はじまったみちおのこんのげんだいてきそうさくは『せおと』『はるのうみ』『ロンドンのあめ』『てまりうた』と、いずれもわたしにとってすてがたいたからとなっている。しんや、ねむるまえのひととき、2かいのこしつでよこになりながら、ときには1じかんいじょうもきいていることもある。わがしんじょうのきんせんは、さらにしょうねんのにちにみみにのこったたいしょうごとのしらべさえなつかしむことがある。
おんがくは、わたしのにちじょうにとって、このようなものであるので、こくないやかいがいのたびをするときは、テープレコーダーのけいたいをわすれることができない。りょじょうというものは、ひとしおおんがくをいろどるものであるらしい。おもいもかけぬかんがいにひたることもしばしばである。
ともあれ、おんがくほど、にんげんのしんじょうをかたることにかけては、これほどまっしょうじきなものはないのであろう。うそをつこうにもうそのつきようはない。げんごもいらない。ろんりをおうひつようもない。りかいしようなどとみがまえるおろかさを、さらさらひつようとしない。みみをすましていれば、わがこころのなかのがっきは、しぜんときょうめいするのだ。わたしはこのきょうめいをこよなくちんちょうしたいのだ。
じだいをこえ、きょりをこえ、みんぞくをこえ、それぞれたがいにこころからしょうじきにかたりかける。そこでは、にんげんがもっともにんげんらしいすがたで、たいわするといっていいだろう。
ひふのしょくがことなろうと、はなすことばがことなろうと、ふうぞくしゅうかんがことなろうと、ぶんめいのしんどのさが、どれほどおおきかろうと、たがいのしんじょうのきょうめいは、おんがくのちからによってはたすことができるだろう。
にんげんがたがいにそのしんじょうにおいてきょうめいし、ちなまぐさいちきゅうのふうけいをまっさつすることが、20せいきから21せいきへのじんるいのさいだいのかだいであるならば、おんがくこそ、それにたえうるゆうこうなしゅだんの1つとしてきゃっこうをあびなければならぬしゅくめいにあるものといってよい。
(しょうわ43ねん8がつ4にち「にほんけいざいしんぶん」けいさい)
