しょうのよりこさくひんをせいどくするにっきです
★『Sくらめいもうつうしん』『すいしょうないせいど』『きんびら』『かたづけないさっかとにしのてんぐ』『いち、にさん、し、きょうをいきよう! なりたさんぱい』『ぜっきょうしタコグルメとひゃくにんの「ふつう」のおとこ』をよんでいまは『だいにっほん、おんたこめいわくし』をよんでいます。 ★しょうのよりこについてぜんぱんてきなことをしりたいかたは「しょうのよりこゐき」がいいとおもいます。2008-08-25
■はははびくにでちちはおさむけんだ。

しょうのよりこ『だいにっほん、おんたこめいわくし』3しょうをよんでいます。
しょうせつのよみがなぜくまのしんこうけんなんていうかけはなれたはなしになってしまうかというと…そしてまたきょうのだいがびくにだのおさむけんなどというさらにディープなものになってしまうかというとしょうのよりこの21せいきにいっってからのさくひんがおおむね
A「おんたこ」というきんだいのどんつまりげんしょうをぶんせきしひはんする。
Bそのためににっぽん(いまにっぽんごをつかっているひとびとくらいのいみ)のみんしゅうしゅうきょうしをふかくほりおこす。
ものだとワタシがかんがえているるからである。じつはAとBともにたいせつであるというかりょうめんとしているのがこのしょうせつであるとおもう。が、ワタシはBめんのほうにしかむいてないので、はなしがどうもそっちにかたよってしまうのである。Aめんのほうはだれかががんばればいいのだし、それをなんとかわかるていどにはべんきょうしていけるようにねがっている。
1 しょうのよりこ『きんびら』はちゅうせいしんこうぶんかにしょうてんをあてている
そのみんしゅうしゅうきょうしというものをしょうのよりこは『きんびら』でえがいているが、もとそうのさんがくしんこうからちゅうせいのおさむけんがいまにのこるいちれいをしこくのたいまやまとした。きょうだいのようににているゆうめいなぞうとうざんきんびらはいまやかんこうかしてしまったが、かつてはおさむけんのやまだった。
そのようにちゅうせいのさんがくおさむけんをしょうてんかしているとはいえ、しんこうはちゅうせいにかぎられたものではなくたいこからのねをもつわけで、そのねはさぐればキリのないほどせかいにのびている。グローバルなのです。
くまのしんこうけんもまたそうである。おさむけんといえばくまの。
こっかぶっきょうけんではかんがえられないことというかよくみえないことであるが、くまのはげんしてきなうみやまのかみしんこうをきそとしながらじりきでしたからのぶっきょうかをとげたちである(とこんしゅうのワタシはおもっている)。それはいちじだいのいちちほうのげんしょうでありながら、どうじにそうではない。ときどきのけんりょくなんかよりはるかにふるくふかい。くまのやいせだけでなくにほんれっとうのかくちにそれはあったらしいのだ(グローバルにじんるいてきにあったというしょうめいはまださきのはなしになる)。
こっかてきなきょうがくしせつでぶってんをまなぶというよりも、それともこうりゅうしながらどくじにかつたちにじこせいせいしていくようなのがおさむけんである。
そんなことはしょうのよりこ『てっていこうせん!ぶんしのもり』2005でとっくにいわれていた。
ここで、これはまさにしけんだが、こじんのにくたいのなかで、このしゅうごう、カッコなしのないめんがぐげんかしたものこそ、しゅげんどうではないかとわたしはいいたい。りろんよりもにくたいやたいけんからしんこうにせまるこのたましいのありかたは、めいじいしんいごのしんぶつぶんりのながれにそってはっせられた「しゅげんどうきんしれい」によってよくあつされた。P238「はんぎゃくするえいえんのごんげんたましい――きんびらぶんがくじょせつ」
2005ねんとうじはここんとこがはげしく???だったワタシがやっと、それなりにりかいしはじめたということである。
ちゅう)ワタシてきにはいごとうぶん、 おさむけん=やまぶし、しゅげんどうはそのしそうやこうどうのありほうとします。
『きんびら』においてしゅじんこう「わたし」は、めいじいちしんきょうのちにされてしまったげんだいのいせにはちゅうせいてきなものがねこぎにされ、しらじらとしてなにもこんせきがないとしている。こだいからこっかしんどうのちであるそんないせでもちゅうせいにはしんぶつしゅうごうがさかんであったらしいのである。
『おんたこ』3しょうのなかで、13さいまでFゆうかくではたらかされたあげくどうもしんでしまったらしいしょうじょれいのいっっていることの
・ぜんはんはいせにおけるちゅうせいてきなしんこうてきぶんかのなごりである!
・こうはんは、きんせい〜きんだいにおけるそのすいたいのれきしではあるけれども。
このぜんはんのほうをははのびくにのこんしゅうとちちのおさむけんでらいしゅう。こうはんのほうはそののちにいっかいだけかいてみたいとおもっている←むずかしそう、というのはけいざい/せいじ/しそうとかがからんでるから。
2 ほこりたかきびくに
それ(ちゅうせいのしんこうようたい)がしょうじょれいのだいいっせい「ははおやはKひかりいんのびくにやった。ちちおやはおさむけんやった。」にあらわれている。まずしょうじょれいはほこりにみちてそういっっているわけである。ふぼがしんこうぶんかてきにすごいんだもんねーとしゅつじをじまんしているのである。「エヘンどうだおそれいっったか」というつもりなんだろうが、300ねんまえのじょうしきなのでおおかたのげんだいじんには、なんのこっちゃ??ではないだろうか。
いやこれだけでもわかるにんにはわかるのだ、とはいえいまのにっぽんのえらいぶんげいひょうろんかのほうでもわかるにんはおおくないだろうなーとおもわれる。
わからんにんはこれからべんきょうすればいいのである。だからワタシはべんきょうなか。けどちょっとわがみをかえりみつついわしてもらうと、すこしばかりべんきょうするとぼんじんってものはいちじをもってさもすべてわかったようにヒケラカシをしたくなるものである。
たとえばですねー。やなぎだくにお「みここう」なんかをチラよみして「くまのびくにってばいしゅんしてたんですよね〜ふふふんふん」とかうれしそうにいわずにいられんようになる。こういうのが「おんたこ」であり、だれしもおちいりがちなあなぼこなのできをつけようとおもう。
しょうじょれいのかたりはつづく。
――そもそもKひかりいんのかんじんとはえときびくにやあるきみこのようなかんじんではない。くぼう、だいみょうにおうかがいをたてる。Kひかりいんをなのったにせもののびくにはかいどうにおったかもしれんけれど、いんのないにはこのできるようなびくにはいままであらへんだ。P101
――Kひかりいんはもともとみやさんがはじめたてらということにはなっていたけど、ほんとうのところはくまののびくにたちがあつまってできたのや、P104
ワタシはこのほん↓『くまのみやましんこうじてん』1997などでくまのびくにについてすこしべんきょうした。じてんといってもやすしめのろんぶんしゅうである。はぎわらたつお「くまのびくにのしめい」
くまのみやましんこうじてん (しんぶつしんこうじてんシリーズ (5))
- さくしゃ: かとうたかひさ
- しゅっぱんしゃ/メーカー: じゅうひかりしょうしゅっぱん
- はつばいび: 1998/12
- メディア: たんこうぼん
このろんぶんはまずさいしょに「まつり」においてじょせいがはいじょされがちなのは、そのきょうれつすぎるせいめいりょくにあるとする。みこをぶんかのもとそうとしぶっきょうしというひょうそうとともにぶんかのぜんたいぞうとするというたちばでかかれている。
ここではみことぶっきょうしをとむすびつけるさいてきのばいかいとして「くまのびくに(びくに)」というそんざいをさいあげる。くまのびくにとは、とうしょはくまのしんこうをおうているみことしての「くまのみこ」のべつめいであった。くまのみこのあまりにもおうせいなはたらきにどうもくしたきょうだん、それはじこのほんしつとみこがあまりにもにているためにたえずかんしんをもちつづけたくまのけいおさむけんきょうだんであるが、いわずかたらずのうちにかのじょらがずいちくするのをゆるしたきょうだんが、いごみこののうりょくをさらにいっそうじこにゆうりにはっきさせるべく「びくに」のめいをあたえたためにくまのびくにのめいもくがしょうじたといってよい。
びくにはおもいがけないほうこうではってんしていった。かんじんびくにのとがそれである。にんをそそのかし、おとなになったきをおこさせて、おうぶんまたはかぶんのきしゃ(きしゃ)をさせるというのうりょくを、にっぽんのしゃかいにおいてじゅうぶんにはっきするにいたった。かんじんをちゅうしんに、ぜんこくかいおこなをなしとげ、「あるきかみこ(みこ)」などといわれながらも、ひとびとのそうだんあいて・はなしあいてになってどくりつのきょうがいにいきたのがちゅうせいのみこであった。P297
ところでKひかりいんはフィクションであるが、それとおぼしきいせのよしひかりいんというのはじつざいした。みんしゅうしゅうきょうそうかき『いせしんこう2』によると、たいへんなインテリエリートあましゅうだんであったらしい。くぼうやだいみょうのところにでいりするのはほんとうにとうぜんであったようである。それにはよしひかりいんきよしじゅんというくまのけいびくにのそんざいがおおきい。くぼうやだいみょうはもちろんてんのうまでうごかすようなかんじん(じんじゃぶっかくのためにきんをださせること)をしている。
とにもかくにもボロになったいせじんぐうのしゃどののたてかえ(せんみや)をふっこうしようとしていたいせじんぐうせんもんのかんじんしゅうだんだったのだ。
しかしじんぐうをふっこうしたとて、びくに(おんな)ではしゃないにいることもできなかった。てらやじんじゃはきほんてきににょにんはいじょであったのだ。だからきよしじゅんのいとにははかりがたいものがある。こっかしんどうやけんりょくしゃにちかづいてくまのびくにのエリートかをはかったのかもしれない。
ここで、なんとなくおんなこっかウラミズモをおもいだしてしまう。あとあとこのしょうじょれいがさんぶさくのさいごでウラミズモにんにおだてられてウラミズモいりするのもがんける。
けれどもほんとうにくまのみこのたましいがのこっていればねらいはもっとふかかったかもしれないともワタシはまよってしまうのである。うえのろんぶんのおわりちかくにはくまのびくにのひょうはくについてとかくありがちなあのみかたにこうしてまえむきなけんかいがしめされている。
さらにおおきなあやまりは、びくにのひょうはくのはっせいにかんしてである。きんせいのふうぞくしてきへんけんをさってしょみんせいかつほんいにかんがえるならば、くまのはちゅうせいにおいて、ぜんこくむめいのひょうはくじょせいをじこのさんかにへんせいすることにかたむいたのであって、じぶんのところからおくりだしたのではない。ゆうきゅうのむかしからみこてきじょせいのひょうはくはいくらでもみられたはずで、それらにたいし「じょせいをこばまぬさんがく」としてのえんこからしんこう・きょうせつのめんでせっしょくをふかめ、『しんとうしゅう』にもめいきされるじょせいむきえんぎたんをじゅようさせ、どくとくのぶんかけいしきとしてのびくにきょうかのわざにつかしめたのが、ちゅうせいくまのみやまとそのしょぼうしょいおりのいわばきょうだんへんせいじぎょうであったとかんがえるべきであろう。P299
★しょうせつはしょうじょれいがほんとうにKひかりいんのびくにのこであったかはあやしいようにかかれていて、このしょうじょれいはとうじのいっぱんてきなさいこうの「ゆめ」をかたっているようである。もし「ゆめ」でなくほんとうだとすれば、そういうエリートむすめがゆうかくでふたつし(しょうじょがふたりでいちにんまえのりょうきんですそをあげるおどりなどをやらされる)にされたのこそひさんにわがかかる。このしょうじょれいはしんでいることにもむじかくだししのげんいんはきおくからけされているらしくなにもいわない。というかのちにこういう。
そもそもしゅうきょうなきこのニじゅういちせいきにたましいはなにをめざす。こころってどこにある。しをじかくできるほどのなまというものにおたいはであってない。それゆえにおたいはまだしんでいない。『だいにっほん、おんたこめいわくし』P198
★このようなかしこいことをいうこのちちおやのおさむけんについてらいしゅうはやります。