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2008-11-29 にんげんはそうさかのうか このエントリーをふくむブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ずいぶんまえ(2007.01.18)に、らくてんのほうでかいたきじを、いちぶかきなおしてこちらにさいけいする。

こんかいのゴタゴタに、ちょっとかんけいするようなきがするので。

にんげんはそうさかのうか


にんげんにそんげんというものがあるとすれば、それはにんげんがあるいみでたがいにりかいふのうであり、したがってまた、なにをしでかすかこんぽんのところではわからないふかしぎなそんざいであるということとどうぎではないだろうか。

こどものじさつ、とおりすがりのものをむさべつにおそうどうきなきさつじん、りかいふのうなどうきにもとづくりかいふのうなさつじん、そういったいっけんふかしぎなじけんがおこるたびに、げんいんはなんだったのか、よちょうはなかったのか、せきにんはだれにあるのかといったぎろんがくりかえされる。

そういったぎろんがすべてむえきだとはいわない。たぶん、なにかよちょうはあったのかもしれない。そういったよちょうをただしくにんしきできれば、たしかにじけんをぼうしすることはかのうだったのかもしれない。しかし、おおくのばあい、よちょうがよちょうであったことは、じけんがおきてからはじめてわかるものだ。

せいとをしどうするぎじゅつ、ぶかをしどうするぎじゅつ、はんざいしゃをきょうせいするぎじゅつ、アルコールややくぶつのちゅうどくしゃをきょうせいするぎじゅつ、あるいはせいしんてきなトラウマや、じんかくてきなもんだいなどをだえたにんをちりょうするぎじゅつ。しんりがくについては、フロイトユングといったこてんてきなちょさくをいくつかよんだことがあるにすぎないものとしては、たぶんさいしんのしんりがくのせいかにもとづいたであろう、そのようなぎじゅつのひとつひとつについてろんじるしかくはない。そのなかには、むろんげんじつにひつようとされ、またじっさいにやくたっているものもあるのだろう。

しかし、このようなにんげんをたいしょうとするぎじゅつのなかには、にんをさくごにおちいらせてまんちゃくするぎじゅつ(だいはせいふによるよろんゆうどう、きぎょうによるこだいなせんでんこうこくから、しょうはちんけなさぎしまで)、げんじつのむじゅんからうまれたもんだいを、そのむじゅんをほうちしたまま、しんりのもんだいにかんげんしてかいけつするためのぎじゅつ、さらにはごくふつうのわかものをじょうかんのめいれいによってちゅうちょなくひきがねをひけるへいしにそだてあげるぎじゅつやほりょをしんりてきにおいこんでじはくをきょうようするぎじゅつ、そういったものもふくまれる。

じっさい、アメリカなどのせんしんこくではこういったことのために、にんげんのしんりやコミュニケーションにかんするけんきゅうしゃらがせいふによってどういんされ、そのせいかがぐたいてきにおうようされているというようなはなしもよくきく。いつのじだいでもおなじではあるが、げんだいのしはいはたんなるぼうりょくによってかんてつされ、ささえられているわけではない。それは、コミュニケーションやマーケティングにかんするりろんなど、しんりがくやしゃかいがく、そのほかさまざまなにんげんかがくてきなけんきゅうのせいかによってもささえられている。

たとえば、デーブ・グロスマンというにんがかいた「せんそうにおける『ひとごろし』のしんりがく」というほん(ちくまがくげいぶんこ)には、つぎのようなことがかいてある(このほんのちょしゃはアメリカりくぐんしょくぎょうぐんじんをながくつとめたにんである。ほんのだいめいはおそろしげだが、ないようはひじょうにしさにとんだどうさつりょくのたかいものだ。どこかのくにのおろかなまえそらまくちょうとは、あたまのできがぜんぜんちがう)


 これからみてゆくように、げんだいてきなくんれんまたはじょうけんづけのぎじゅつをおうようすれば、いかくしたい*1というにんげんのせいこうをあるていどこくふくできる。じじつ、せんそうのれきしはくんれんほうのれきしといってよいほどだ。へいしのくんれんほうは、どうしゅであるにんげんをころすことへのほんのうてきなていこうかんをこくふくするためにはったつしてきたのである。こうどなくんれんをうけたきんだいてきなぐんたいが、ろくにくんれんされていないゲリラぶたいとこうせんする ― こんなせんとうはさまざまなじょうきょうかでおきているが、そのようなばあい、くんれんがふじゅうぶんなへいしはほんのうてきにいかくこうどうをとる(たとえばそらにむかってはっぽうするなど)けいこうがあり、こうどにくんれんされたへいしのがわにそれがひじょうにゆうりにはたらいている。 (ちゅうりゃく)

 げんだいせんにおいては、くんれんおよびさつじんのうりょくにおけるこのしんりてき・ぎじゅつてきなゆういせいが、つねにけっていてきなよういんとしてはたらいている。イギリスフォークランドこうげきや、1989ねんのアメリカのパナマしんこうのときもそうだった。これらのふんそうではしんりゃくしゃがわがあっとうてきなしょうりをおさめ、ひがのさっしょうりつのさはしんじられないほどおおきかったが、すくなくともそのいちぶは、りょうぐんのくんれんのていどとしつのさによってせつめいできる。*2


ということは、ぶんめいかされけいもうされたへいしとは、ようするに「どうしゅであるにんげんをころすことへのほんのうてきなていこうかんをこくふく」したへいしだということになるだろう。けいもうにはやばんが、しんぽにはたいほがつねによりそっているというのは、そういういみだ。こういったくんれんがげんじつにゆうこうであることは、いちへいそつからちゅうさにまでのぼりつめ、りくぐんしかんがっこうのきょうじゅをつとめたというたたきあげのにんのいうことだからまちがいあるまい。

だから、にんげんをたいしょうにしたぎじゅつにいっていのゆうこうせいがあることはひていできない。また、そのようなぎじゅつがぎじゅつそれじたいとしてだけでなく、ばあいによってはしゃかいやとうがいのこじんにとってもゆうようなばあいがあることもひていできないだろう。

しかし、このようなにんげんをたいしょうとするぎじゅつというもののこんていにあるのは、なんなのだろうか。ぎじゅつとはたいしょう=きゃくたいをそうさかのうなものとみて、そのためにたいけいかされたしゅたいてき=きゃくたいてきなはたらきかけをおこなうものということができるだろう(ぶつりがくしゃであるゆえたけやみつおのことばをかりれば、ぎじゅつとは「きゃっかんてきほうそくせいのいしきてきてきよう」であるということになる)。そのようなかがくてきでぎじゅつしゅぎてきなはっそうが、きんだいぶんめいのはってんをかのうにしてきたことはいうまでもない。

だが、そのようなぎじゅつてきはっそうは、はたしてそのままにんげんにもてきようできるものなのだろうか。にんげんをそうさしゅたいとそうさきゃくたいとにぶんかつしたいりつさせるようなはっそうじたいには、なにももんだいないのだろうか。たんに、そのようなぎじゅつもあくようせずに、ただしいもくてきのためにうまくつかいこなせばいいということなのだろうか。

もしも、にんげんがにくたいてきしんりてきなぎじゅつによって、ああにでもこうにでもつくりかえることのできるそうさかのうなたいしょうであり、またそのこういがなんらかのかんさつによってきゃっかんてきによけんかのうなのだとしたら、にんげんはけっきょく、せいめいのないしんだじぶつとおなじだということになるだろう。

にんげんは、はたしてここをこうすればこうなる、あそこをああすればああなる、というようなたんじゅんなそんざいなのだろうか。もしそうだとすれば、にんげんの「じゆう」だとか「そんげん」だとかいうことばは、すべてなかみのないただのつくりはなしだということになりはしないだろうか。にんげんは、じっけんしつのなかでかがくしゃやけんきゅうしゃによってさまざまなこうどうやはんのうをそくていされている、あわれなどうぶつたちとおなじだということなのだろうか。

*1:じっさいのさっしょうこういではなく、たんなるいかくにとめておきたいといういみ

*2:どうしょ P.57,58

www.learn-japan.org(romaji/hira/kata/hirakata)