2008-11-21 きえてしまいそうなときは
こんばんは。こんしゅうもきんようびがやってきましたね。
ぼくはといえば、ろんぶんしっぴつもおおづめにちかづき、きょうもごぜんちゅうからけつろんへのろんしょうについてゆっくりとかんがえていたりしました。こんなろんぶんはべつにだれによまれるわけでもないのだけれど、すくなくともじぶんのおもいをなにかしらのかたちにしていくってよいものです。いろんなものがいみもなくとおりすぎていくまいにちのせいかつのなかで、すこしずつでもどこかにむかってすすんでいるようにかんじることができます。
さて、こんやはあるうたについておはなし。
いっかげつほどまえでしょうか。よくはれたきゅうじつにようのひかりのさしこむへやでひとりでおそめのちゅうしょくをとっていました。テレビをつけていたのですがきゅうじつのひるさがりにしてはそうぞうしいばんぐみだったのでなにげなくチャンネルをかえると、NHKきょういくでぜんこくがっこうおんがくコンクールのぜんこくたいかいがやっていました。ひょうしょうなどもすべておえたあとだったのだとおもいます、ステージにかだいきょくをつくったアンジェラ・アキがでてくるところでした。
コンクールのかだいきょくになっていた『てがみ』はそのぜんから『みんなのうた』できいたことがあって、『なんだかいいうただな』とおもっていました。だからかもしれません、ぼくはチャンネルをかえずにいました。なにもなければわざわざちゅうがくせいのがっしょうとかみたりしないですよね。
ステージのうえのピアノのまえにすわったアンジェラ・アキはホールにいるさんかがっこうのせいとにすこしかたりかけ、そして『てがみ』をうたいはじめました。おそらくかのじょはそこにいるせいとたちに、そこにくることができなかったけれどぜんこくたいかいをめざしてそのうたをがっしょうしたせいとたちに、そしてそのときテレビをつうじてそれをみている15としのせいとたちにむけて、せいいっぱいのおもいをこめてうたったのでしょう。そのうたごえは『みんなのうた』できいたものよりもはるかにこころをゆさぶるものでした。ホールにいるせいとたちはかのじょのすがたにめをこらし、そのうたごえにききいっっていました。そのなかにはないているせいともいました。そのうたごえがはこんでくるものをまっすぐぐにうけとめてなみだをながしていました。
そしてアンジェラ・アキがうたいおえたのち、コンクールぜんたいのさいごのプログラムとして、そこにさんかしているすべてのせいとによる『てがみ』のがっしょうがありました。かれらやかのじょらのこえはひとりひとりのおもいをだえながら、ひとつのじゅんすいなおんがくとなってホールにひびいていきました。15としのこどもたちが15としのこどもたちのうたをうたっていました。こどもだけではなく、そこにいたすべてのにんが15としのときのことをおもってうたっていました。ぼくもじぶんが15としだったときをおもいだしながらそのうたをきいていました。そこにはおおげさなものはすこしもなく、きょせいもおもわくもありませんでした。
こんなうそやデタラメだらけのせかいにあって、こうやってよいうたをなみだをながしながらみんなでうたえるなんてステキなことだな、とすなおにおもいました。リアリティーのないフィクションのなかで、あいとかこいとかゆめとかほんらいはこじんてきなおもいが、ビジネスライクにらんざつにしょうひんかされステレオタイプにしょうひされつづけられるようときにあって、そういうこうけいをみてぼくはささやかにしあわせなきもちになり、すこしなみだをながしました。
いま まけそうで なきそうで きえてしまいそうなぼくは
だれのことばをしんじあるけばいいの?
ひとつしかないこのむねが なんどもばらばらにわれて
くるしいなかでいまをいきている
いま まけないで なかないで きえてしまいそうなときは
じぶんのこえをしんじあるけばいいの
おとなのぼくもきずついて ねむれないよるもあるけど
くくてあまいいまをいきている
そうだよな、きえてしまいそうなときはじぶんのこえをしんじるしかないんだよな、っておもいます。
もちろんじぶんのこえがかんたんにきこえてくるわけではないし、それをひとりでまちつづけるのはくるしいことだけど、せいじゃくのなかにかすかにうかんでくるそのこえにしずかにみみをすまし、それをしんじることでしか、きえていきそうなじぶんをかんじつづけることはできないんじゃないかな。
じぶんのこえはどこかからしぜんとふってくるものではありません。いつでもどこででもしずかにみみをすましていないとまわりのざつおんにかきけされてしまいます。
このうたは15としのじぶんへのおもいであるとともに、おとなになったじぶんへのおもいであるともおもうのです。
コンクールでのアンジェラ・アキの『てがみ』、ぜんたいがっしょうの『てがみ』はYouTubeでもみることができるのできょうみがあるにんはみてみてくださいね。とてもいいですよ、ほんとにね。
こんしゅうになってますますひえこんできましたね。ぼくはこうやってあいかわらずひとりでPCにむかい、しずかなへやでグレン・グールドのゴールドベルクへんそうきょくをききながらパタパタとブログをつけているわけだけど、きんようのよるというだけですこししあわせなきもちになります。まぁもうすこししたらいつものようにワインをのみほんをよみはじめるわけだけどね。
しゅうまつはきもちよくはれるみたいですね。ではみなさんよいしゅうまつを。
2008-11-14 やくにたたない
さてこんしゅうもきんようのよるがやってまいりました。ふゆのけはいもこくなってきましたがみなさんげんきにくらしていますか。
ぼくはといえばこのごろはもっぱらこはるびよりのようきにまどをひらけほうっってPCにむかってパタパタとろんぶんをかいています。
ぶんけんやしりょうをパラパラとひろいよみしながら、じぶんがぼんやりとかんじているかんがえをきちんとろんりてきにせいりしてぶんしょうかしていくのってけっこうたいへんなことです。こういうブログにみたいに
『じつはさいきんたいちょうがわるくていっさくじつからきんしゅしています。はなしはかわるけどそういえばきのうそばやでビールをのみました、おっと・・・(うそ)』
みたいなきまぐれなぶんしょうをかくのとはわけがちがいます。まぁあるいみでトレーニングみたいなところはありますね。
アカデミズムのせかいでろんりせいというものをじゅうししなくなったらぎろんじたいがなりたたなくなってしまうのでこんなこというのもせいとうないけんではないのかもしれないけど、ぶんけんとディスプレイをにらみながら「ああでもないこうでもない」となやんだけっかあらわれてくるぶんしょうが100%じぶんのなかにあったものをひょうげんしているかというと、やはりそんなことはなくて、けっこうたいせつなニュアンスのようなものがうしなわれてしまっているようなきがします。それでも「まぁしかたないか」ってところですすんでいくしかないわけですが。だからろんりってじぶんのいけんをあまねくにんにつたえようとするさいのどうぐであるわけだけど、それいじょうのものでもないってことですね。
そんなろんぶんしっぴつちゅうしんのまいにちですが、やはりねるまえにはベッドにいっってワインをのみながらほんをよんでいるわけです。いまよんでいるのがジョン・クラカワーの『こうやへ』というノンフィクションさくひん。しってるにんもおおいとおもいますが、このほんはエリートとしてだいがくをそつぎょうしたせいねんがすべてをすててほうろうせいかつをはじめ、やがてアラスカのこうやにひとりいっったままがししたというじつわをあつかっています。ぶんめいしゃかいへのひはんにしてもところどころにアメリカてきなはっそうをかんじざるをえないところはあるし、せいねんのこうどうにも『このにんははげしくなにかをもとめていたにしろ、さすがにちょっとようちでアホなんじゃないか』とおもってしまうところがあるんだけど、そのそこにあるこどくかんのようなものにはしずかにきょうかんできるところがあります。
みかたによってはめいちらずであおくさいせいねんのこうどうにアメリカこくないでもひはんはあったわけだけど、このほんのおもしろいところはさくしゃがそのようなひはんをうけいれながらも、かつてのじぶんやほかのひとびとのせいかつとかさねあわせてそのひはんのむいみさをあんにかたっているところです。
おそらくじぶんをこどくについきゅうしているにんに『はんしゃかいてきだ!』ときゅうだんしたところであまりいみはないんじゃないかなっておもいます。おおくのにんがあまりきにとめないものにめをこらしてなにかをつかもうとするにんにはじっしゃかいでめにみえるやくにたたったりしないにんがおおいんじゃないかな。ドストエフスキーやトルストイといっただいさっかにしろ、かれらがちょさくをとおしてめにみえないかたちでだれかのこころをすくったとしても、じっさいのせいかつにおいてまともなにんげんであったとはとてもいえないでしょう。サリンジャーなんかファンはおおいけど(ぼくもそのうちのひとりですが)『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン・コールフィールドにしょうちょうされるようにはっきりいっってじっさいにめのまえにいたらけっこうやっかいなにんげんだとおもう。じぶんのきらいなものをひはんしてばかりいるけど、かといっってじっさいになにをするわけでもないし。
おそらく『こうやへ』のしゅじんこうのせいねんとかれらのちがいなんてほとんどないんだとおもいます。げんじつせかいでなにかしらのしょくぎょうたいけいのなかでひょうげんするばをえたからゆうめいになるにんもいるのだけど、きっとかれらは『しごと』だからそれをやっていたわけではなくて、じぶんのなかにあるあいまいなものなんらかのかたちでひょうげんしたいとおもっていただけなんじゃないかとおもうんだよね。
まぁだからそういうにんに『はんしゃかいてきだ!』っていっってもあまりいみはないってことです。
ぼくはあきのはれたこうえんでなにもせずにビールとかのむのがすきなんだけど、たぶんそれはどこかで『しゃかいとかしごととかきまりとかしゅうかんだとかってめんどくさいなぁ』っておもっているからだとおもうんだよね、あんまりよくわからないかもしれないけど。ふつうにくらしているなかにも、りゆうもよくわからないきそくみたいなものをもうもくてきにしんじてしんけんになやみ、それでぎゃくにほかのにんをくるしめているようなにんってけっこういて、そういうのみていると『くだらないな』っておもってしまいます。そんなのならよほど『はんしゃかいてき』であってもじぶんがもつリズムをかんじようとコツコツどりょくしていたいですよね。せいかつしていくためにだきょうしないといけないこともあるのはわかるけど、すくなくともじゆうであることをあきらめたくはないものです。あおくさいですかね。まぁあおくさいんだろうな(わらい)
さて、そろそろワインをひらけてほんでもよむか。ではみなさまよいしゅうまつを。
2008-11-07 ちいさいようでおおきなもんだい
きんようびのよる、みなさまエンジョイしていますか?
ぼくはいつもとおり、ひとりいえでビールをのんだりほんをよんだりしていました。なんかいもいうようですが、けっしてともだちがいないからってわけじゃないからね。・・・たぶん。
さいきんかたいはなしばかりかいていますが、きょうもまたかたいはなし・・・すみません。
さっきなにげなくネットををみていたらちくしてつやしがせいきょしたというニュースがありました。テレビをつけてTBSをみるとちくししのかつてのすがたがうつしだされていきました。
ぼくははっきりいっってテレビでみるかのいけんにはどういできないことのほうがおおかったし、だいがくのときなどはかんじょうてきにいかっていたこともありましたが、いまれいせいにみるとよいにしろわるいにしろかのいけんはあるかたちでじだいをきりとってきたことはたしかなのだろうな、とおもいます。そしてどうじにかのしはそういったかんがえかたのおわりをあんじしているのではないのでしょか。
ちくしてつや、くめひろしなどのキャスターをちゅうしんにしたニュースばんぐみがよろんにおおきなえいきょうをあたえたじだいがありました。こじんてきにはいまでもニュートラルなスタンスであったとはおもわないけれど、それでもやはりテレビがメディアとしてなにかをつたえるちからをもっているいたことはたしかだろうとおもいます。
しかし、いつのまにかひとびとはニュースばんぐみをみなくなりました。ネットのほうがてがるにじょうほうをてにいれることができるし、おしつけがましいかいせつもついていない。にちじょうせいかつでネットをつかわないちゅうねんせだいいじょうはいぜんとしてテレビをつうじてじょうほうをにゅうしゅし、なんなくネットをつかいこなすわかものせだいはネットをつうじてじょうほうをにゅうしゅする。ここによくいわれるところのじょうほうのだんぜつがおこります。そしてそのギャップは、ターゲットをめいかくににんしきしたメディアのじょうほうせんべつというかたちでかそくしつつかくだいしていきます。
ふるたちいちろうがわるいわけではなく(おそらく)ちくしてつやのこうにんのキャスターがわるいわけでもない(たぶん)。
ただひとびとがせだいをこえてテレビをながめ、ニュースキャスターをつうじていけんをこうちくするというじだいはもはやおわったのではないでしょうか。
そしてネットはポスト・テレビじだいのメディアとしていまやかくじつなちからをもっています。しかしそこではあっとうてきなりょうのふかくじつなじょうほうがあふれ、とまることなくとおりすぎていく。さまざまなアクターがあることで、ひとつひとつのじょうほうはそうたいかされ、そのないようはひとびとにとってきはくになる。テレビとちがってネットをみるというこういはとてもこじんてきだから、そのじょうほうをめぐってにんとコミュニケーションするきかいはすくなくなる。どこかでおきていることをじぶんにびきつけてかんがえることがすくなくなっていく。
このむとこのまざるとにかかわらず、そういうせかいになってきていくようなきがします。
じょうほうへのアクセスがこじんてきになるいっぽうで、せだいかんのだんぜつがそのままげんじつのディスコミュニケーションへとつながり、せだいかんでおたがいにたいするてきはずれなぶんせきがつづくことになる。
これはかていみたいなちいさなレベルからせいじのようなおおきなレベルまでいえることであり、にっぽんのしゃかいにないざいするとてもおおきなもんだいとしてぼうちょうをつづけていく。
『いえではおじいちゃんはしんぶんよんで、おとうさんはテレビをみて、さよこ(だれ?)はパソコン、みんなバラバラなのねぇ、ふふふ』っていうとたいしたことないようだけど、じつはそういうことがうみだすけっかってけっこうしんこくなのかもしれない。
ちくししのしをついとうするキャスターのすがたをみて、マスメディアにたずさわるとうじしゃとしてそのせつじつさをかんじているとはおもえなかった。『テレビぎょうかいたいへんだよな』くらいはおもっているかもしれないけどね。
ひとつのせだいがかくじつにしゃかいのちゅうしんからきえていっている。しかしそののちにあるべきもののすがたはどこにもみえない。ちゅうしんをうってうんどうはかくさんし、しらぬまにサイクルのなかからこぼれおちるにんたちがいる。だれもそんなこときにしない。いみをもたないじょうほうのみがだんぜつのなかにすいこまれていく。もちろんよいこともあるしわるいこともある。でもそのあらたなしくみにちゅういをはらうにんはいない。それでいいというのならそれでいいのでしょう。
でも、ほんとにそれでいいのかな?とぼくはおもう。
・・・ふぅ、つかれた。さっきかってきたすこしたかめのしろワインをのんで『こうやへ』をよもっと。
ではみなさん、よいしゅうまつを。
みやじ
さいきんかっきょくのニュースばんぐみをみていておもうのだが、よろんゆうどうというか、じぶんらのたちばをろこつにだそうとするしせいがむかしよりつよくなったきがする。
ネットのふきゅうでじょうほうのはっしんをどくせんできなくなって、テレビメディアのえいきょうりょくがていかしてきてるせいなんかなあなどとおもってみたり。
まあ、ちくしさんのごめいふくをいのろう。
ぽろぽろ
そうですね。
たしかにかつてはまだしちょうしゃにしこうをうながすようなところもあったようにおもいますが、さいきんはとにかくざつないけんをおしつけがましくいいきるようなかんじすらみうけられます。
メディアとしてじゃくたいかしてきているのにともなって、きっとじょうほうについてしっかりとぶんせきをするしせいがうしなわれているのかもしれません。テレビがニュースのメディアとしていきのこるならむしろ『あんていしてきくにあたいするいけんをていきょうしつづけること』をじゅうしすべきだとおもうのですが。
このごろはあまりにおそまつないけんにいかりをとおりこしてぼうぜんとしてしまうこともあります。「そりゃだれもテレビのニュースばんぐみなんかしんけんにみなくなるよな」っておもいます。
こじんてきにはマスコミがゆるがないぶんせきりょく・しこうりょくをもってじょうほうをつたえていくことはとてもじゅうようだとおもっているのですけど・・・
みやじ
ぶんせきするしせいがうしなわれてる、にいっぴょう。
あとそれにくわえて、じぶんがみたくないじじつはみない!ってなってるきがするわ。
べつにへんこうしてたってそれはそれでじゆうなんだが、まがりなりにもジャーナリズムをひょうぼうするいじょう、じじつはじじつとしてすべてほうどうしてみせてほしいよね。
それからフォローをいれるのはすきにすればいいし、きちっとせっとくりょくのあるフォローをいれられるならむしろかんげい。
なのに、さいしょっからほうどうさえしないってのはいただけんよな。
2008-10-29 よりかかる
こんばんは。
ふときがつくともうすこしで11がつなんですよね。なんかふりかえるとじかんがあっというまにすぎていってしまっているようなきがします。
けんしゅうちゅうということもあり(もうすこしでおわってしまいます、しくしく・・・)、いままであまりじかんをとってこなかったえいがかんしょうにじかんをさき、ほんもよむぶんやのはばをひろげました。いそがしくはたらいているときはあいたじかんにほんをよむだけでせいいっぱいだったけど、いしきしてしずかにかんがえるじかんもとることにしました。
そうやってすうかげつへったいま、じぶんのなかのへんかをはっきりとかんじることができます。
それは『あのときのじぶんはウソだった』とか『やっとじぶんはめざめることができた』とかいうたいそうなことではなくて、もっともっとあたりまえのこと。
きっとどんなにんもなにかによりかかることなしにはいきていけないっていうのは、いろんなにんがいっっていることです。それはしごとだったりれんあいだったりいろいろあるわけですが、じぶんをそこによせていくといういみではちがいはないとおもいます。だから『いきているまになにかをなしとげるんだ』とか『じぶんはくるしんでいるにんをすくいたいんだ』とかいうかんがえかたすらもいろいろあるなかのひとつの『よりどころ』でしかないともいえるのでしょう。
じゃあなんでよりかからないといきていけないかというと、それはじぶんというそんざいがとてもあやふやなものだからです。じぶんが『じぶん』とかんがえているものなんてけっしてたしかめることができないからです。それをしんけんにみつめつづけようとすると、はてしなくふあんになりこどくになっていきます。だからなにかによりかかりって、そこからおしかえされてくるはんさようのちからをつうじて『じぶん』をかんじることで、いきていくためのどだいみたいなものをすえることができるんだとおもいます。
ごかいをおそれずにいえば、そういういみでは『えらいにん』も『えらくないにん』もいません。『そんけいできるにん』も『そんけいできないにん』もいません。にんはそれぞれにじぶんの『よりどころ』によりかかることでいきています。そのよりかかりかたがけっかとしておおくのにんのためになるかもしれない、にんにゆめをあたえるかもしれない、だれかをしあわせにするかもしれない、でもそれはあくまでそのにんのよりかかるところがちがうというだけのことです。
ただ、そのよりかかりかたによってしゃかいにおけるいきやすさがかわってくるということはあるようにおもいます。
『じぶんのすきなにんをしあわせにするんだ』というふうによりかかれるにんは、あいてもじぶんによりかかってきてくれればとてもしあわせにくらすことができるでしょう。『みんなのためになる』というかんがえかた(もちろんそこにはにんのかずだけのこじんてきなおもいがあります)もしゃかいではみとめられやすいから、げんじつてきなかたちをとることができればじゅうぶんな『よりどころ』となるでしょう。それはそのにんにとっても、そのにんのまわりにいるにんたちにとっても、とてもよいことだとおもいます。
でもいっぽうで、そういうかぜにみとめられやすい『よりどころ』をみつけることができないにんがいることもたしかです。なかにはさけやギャンブルなどを『よりどころ』にしてじぶんをあんていさせるはんめんでじぶんをそこなっていくにんがいます。しゃかいにひそむあんがりにぎもんをかんじてカルトしゅうきょうを『よりどころ』にし、おおぜいのにんのせいかつをそこなうようなはんざいにかかわるようになるにんがいます。どこにも『よりどころ』をみつけられずにあるにちとつぜん、まちなかでしらないにんのいのちをうばうにんがいます。
さて、じゃあふつうにしあわせにくらしているにんとそうでないにんのどこにちがいがあるのだろう?
もっといえば、かれらかのじょらとじぶんとのまにはりんりにおいてなにかけっていてきなちがいがあったのだろうか?
むずかしいですよね。たぶんちがいなんてないんでしょうね、きっと。みんななにかに『よりかかろう』としているだけなんだから。
だれがわるいとかいうだけじゃなくて(そういうのもひつようだとはおもうけど)、そういうあやふやなもののまえにたちとまってジッとかんがえることもひつようなんじゃないかなっておもったりするんだよね。そういうのっていまどきあんまりはやらないみたいだけど、なんとなく。
けっこうひえてきましたね。きょうはあさひかわではつゆきがふったみたいです。そらもなんとなくふゆっぽくなってきたし。
さいきんはもっぱらグレン・グールドをききながらろんぶんのためのぶんけんをよむまいにち。ゴールドベルクへんそうきょくにかんしていえば、こうきのえんそうのほうがすきです、なんとなく。
おいしいしろワインがのみたくなるきせつですね。ではまた。
2008-10-17 にんのこころをめぐるたたかい
きょうはちょっとカタいはなし。
このまえ、あるところで『にんのこころをめぐるたたかい』ということばをききました。
これはいぜん、イラクちゅうりゅうたこくせきぐんしれいかんだったデイビッド・ペトレイアスがいっったことばで、イラクにんやアフガンにんがみずからのてでこっかをさいけんするというもくひょうのためには、イラクやアフガンにおけるせんとうはてきせいりょくのぐんじてきあっとうというきゅうらいのせんそうがいねんをこえてかれらのこころをかくとくしなければならない、ということをいみしています。
アフガンせんそうやイラクせんそうをひょうかすることはここでのもくてきではないのでそのないようにはふみこみませんが、『にんのこころをめぐるたたかい』ということばはペトレイアスがかんがえるところのいみをこえて、さまざまなことをぼくにかんがえさせます。
そのぜったいてきなはかいりょくのために『じっさいにはつかえない』といわれるかくへいきによるよくしのもと、べいこくとソれんがこうどにせんりゃくてきなバランスをとりつづけたれいせんじだいは、1991ねんのソつらのほうかいというかたちでしゅうえんしました。そのけっか、ぐんじてきにはじこくをちょうてんとするいっきょくこうぞうへといこうしたわけですが、そこでべいこくをまっていたのはくらやみのなかにてきのすがたすらみえないきょうふのせかいでした。
911テロはべいこくにおおきなだげきをあたえ、それはべいこくの『じえいけんのこうし』としてのアフガンせんそう、さらにはイラクせんそうへとつながっていきます。『じえいけんのこうし』というかいしゃくにはさまざまなぎろんがあるけれど、このことばはべいこくをせんそうへとみちびいたものがほかでもない『みえないてきへのきょうふしん』であることをあらわしているのだとおもうのです。
しそうのたいりつをじくとしたたいこくかんのかくよくしという、あるいみでフィクションともいえるれいせんじだいをこえたさきにあったのがせんりゃくてきしこうのせいりつしない、にんげんのこんていにあるきょうふしんをめぐるせんそうであるなんて、とてもひにくなはなしだなとおもいます。テロリストにしろフセインにしろべいこくの『じえいけんのこうし』にしろ、これはけっきょく、にんげんのこころにあるかんじょうをめぐるせんそうなのではないかなとおもうのです。
はなしはかわりますが、いっさくじつDVDで『エレファント』というえいがをみました。1999ねんにアメリカのコロラドしゅうでおきたコロンバインこうこうじゅうらんしゃじけんをテーマとしており、ベートーベンの『げっこう』とともにはじまるこのえいがは、うつくしくせんやかなえいぞうでこうこうせいのへいおんなついたちをしずかにえがいていきます。よけいなせつめいはなく、げきてきなてんかいもありません。くわしくはかかないけれどみおわったときにぼくがおもったのは、きっとそのにち、そこにいたにんたちにとっては、じけんがおこるまでとくべつなことなんてなにもなかったんだろうな、ってこと。いじめのもんだいとかマスコミによってのちからかたられたけど、それもふくめてかれらかのじょらのいちぶだったんだろうと。
いろいろかんがえかたはあるけど、ぼくたちのいるこのせかいにはだれもきがつかないおとしあなみたいなものがあって、そこにおちてしまったときのことがのちからひさんなじけんとしてかたられるんじゃないかなっておもうことがあります。それはもともとそこにあったし、もしかしたらふつうにいきていくかていでじぶんたちがつくりだしているものなのかもしれません。だからあるにち、なにかがおこるまでは、とくべつなことなんてなにもないんじゃないか、って。
ぼんやりとだけど、せんそうとかについてもおなじようなことがいえるんじゃないかなっておもったりもするのです。どこでもにんはこころをめぐってしずかにたたかっているんだ。こじんにしろ、こっかにしろ、そのこんていにあるのはにんのこころなんだ。それがよきものにしろ、あしきものにしろ。
だからといって『じゃあしかたないじゃん』っておもっているわけではけっしてないけれど。
きょうみがあるにんはみてみてくださいね。じゅうげきシーンとかがダメなにんにはおすすめはしないけど、そこにあったものをリアルにつたえるとてもいんしょうてきなえいがだとおもいます。
はれるにちがつづきますね。きもちもあかるくなります。あしたははやくおきてはしりにいこっかな。
2008-10-12 としょかんパラダイス
そいえば、このまえ、たまたまNHKきょういくテレビの『ちゅうがくせいにっき』をみました。
このばんぐみはけっこうあたりはずれがあるのだけど、そのにちにみた『としょかんパラダイス』はとてもおもしろかった。
にんとのきょりのとりほうをなかなかつかめなかったりしたおもいでや、ちいさなことのまえにたちとまってじっとみつめていたおもいだって、けっこうおおくのにんにあるとおもうんだけど、それをすなおにかんじることのできるないようでした。
こじんてきにはとしょかんがぶたいになっていたのがまたよかったんだよね。
かなしいかな、ぼくはだんしこうしゅっしんで、がっこうのとしょかんにはぼくのあまりすきではないだんしがくせいたちがあつまってカードゲームとかしていたので、あまりがっこうとしょかんにはいかなかったけれど、そのかわりにがっこうのちかくにあるさくらぎちょうのしりつとしょかんにはよくいきました。あきのはれたどようのごご、がくせいふくのままのげさかをあってとしょかんにむかうかんじとか、ぼんやりとおもいだすことができます。
まぁみなさんもひまがあって、ふつうのテレビドラマのれんあいとかなんとかあんなリアリティーのけつへんもないものに(おっと・・・)あきたら、『ちゅうがくせいにっき』みてみてください。ちゅうがくせいはほんもののちゅうがくせいからオーディションでえらばれているということでえんぎのしつはにんによってさまざまだけれど、すくなくともステレオタイプではないし、じっさいのたいけんをしゅざいしてつくっているというストーリー、えいぞうやおんがくもふくめてそこらのドラマよりはよほどクオリティーはたかいとおもいます。ふと「あ、なんかわかるな、このかんじ」とおもってこころがふとほんわりしたらそれがちゅうがくせいにっきこうかですね。しかも、むかしかんじていたそのおもいって、じつはいまになってもまるでかいけつされていなかったりもするんだよね、これがまた。
こじんてきには『おあついのはイヤ!?』とかおもしろかったな。わからないですよね、あはは。
というわけでひまなときにはぜひ。
きょうはひさしぶりにいいてんきだったので、2じかんくらいかけてはやししのもりこうえんをさんぽしてきました。はじめてあるいたのだけど、みどりがキレイでいけにはカメがおよいでいていいこうえんです。みんなたのしそうなのがなにより。そんななかをアシュケナージのベートーヴェン(ピアノ・ソナタ)とかヘッドホンでききながらあるいていると、とてもしあわせなきもちになります。こうえんのきぎも、もうすぐこうようしてくるのかな。
これからさむくなってくるけれど、ふゆはけっこうすきなので、すこしたのしみだったりもしているきょうこのごろです。
そろそろおでんのきせつですね、ほくほく。
2008-10-01 わすれない
このごろいろいろかんがえることもおおくて、へやのなかでひとり『・・・』ってしているじかんがおおいです。
きっともんだいじたいはかんがえてもどうしようもなくて、ささやかにでもどこかにじぶんをいどうしないと、きっかけようなものすらつかめっこないことはわかっているんだけど、それでもそのささやかないっぽをどこにむかってふみだしてよいのかわからず、テレビをけしたへやでルービンシュタインのショパンをエンドレスでききながらあいかわらず『・・・』としつづけるわけです。
そんな『・・・』っていうじかんのなかでなんとなくかんがえていたことのいくつかのうちのひとつ。
ウソについて・・・
じぶんがいままでついてきたウソのなかでいちばんひどいものってなんだろう?ってりゆうもなくかんがえだして、けっこうながいじかんかんがえつづけてみたんだけど、けっきょくきめることができませんでした。おもいうかぶものといえば、しょうがくせいのとき、じゅくでひどいせいせきをとってははおやから『せいせきかえってきた?』ときかれてときにいっった『まだ』というウソ、だれかのノートにらくがきしてみつかったときにおもわずいっった『ぼくじゃないよ』というウソ、そんなものばかりです。そのときにかんじたなんだかしめつけるようないきぐるしさはいまでもこころのおくにかんじることができます。
でも、きっとだいがくうになってからとか、もっともっとひどいウソをついたことがあるとおもうんだよね。そのときにかんじたきもちみたいなものはなんとなくおぼえているんだけど、どんなウソをついたのかおもいだせないのです。たぶんじぶんのなかにはじぶんがしらないシステムみたいなものがあって、じぶんのつごうのわるいものをじかんとともにけしていってしまっているんじゃないのかな。
なにかをわすれないことには、いつかぼくのあたまはこうかいだらけになってしまうしそれはせいしんえいせいじょうもよくないから、じこぼうえいほんのうみたいなかたちで『まぁこれはけしちゃったほうがいいな』っていうことになっているんだとおもう。
しかたないのかもしれないけど、それってひどいはなしだよね。そのときにかんじたものはどこにいってしまったのだろう。きっとぼくはせかいとおなじようにうしなわれていくもののことをわすれつづけ、なにもまなばないんじゃないかとおもうと、こころのそこからがくぜんとしたきもちになります。
カズオ・イシグロのほんのもつとくちょう(でありみりょく)はにんがもつきおくのあいまいさをしずかに、そしてせつないほどリアルにどくしゃにつたえるところにあるとおもいます。
ものがたりのかたりてであるしゅじんこうはじぶんのかたるきおくをしんじつであるとしんじるとどうじに、それがじぶんのなかのどこかしらないところでいつのまにかくみかえられ、じじつとはことなってしまっているということをこころのどこかできづいているようにおもえます。れんあいであり、ほこりであり、ゆうじょうであり、そんなもののなかにそんざいするちいさなじこはたんをいくつもだえつづけながら、それでもいきていくわけです。
きっと、ぼくたちのきおくもいろんなところでくみかえられていて、じぶんのきおくもじじつからはかけはなれてしまっているのかもしれないな、っておもうことがあります。それはわるいことだけではないのだろうけど、たまに『よけいなことするな!』っておもったりもするんだよね。そんなこといっってもしかたないのだけど。
あしたからはひさしぶりにはれるみたい。そうかんがえるだけでもすこしきもちがあかるくなります。てんきってたいせつだよね。
ゆみ
このまえはありがとうございました!
ぽろぽろさんがこのぶんしょうをかかれたときににどよんで、いままたよみなおしてみて、やっぱり「それってどういうことだろう」とぐるぐるぐる…
カズオ・イシグロ、もういちどよんでみようかなぁ。またわからなくなっちゃうかなぁ。。
ぽろぽろ
どういたしまして。ぼくもたのしかったです。こちらこそどうもありがとう。
ぼくのぶんしょうりょくのけつじょゆえにかんがえさせてしまってごめんなさい。じぶんでよみかえしてもたまによくわからないことがあるんだよね(わらい)
『わたしをはなさないで』もういっかいよみかえしてみてよ。ほんをよむってとてもこじんてきなこういだからいろいろあってよいとおもうけど、カズオ・イシグロのほんをよむとき、ぼくはナレーターであるしゅじんこうがほんをとうしてちょくせつじぶんにはなしているのだとおもってよんでいます。
よんだあとことばにできなくとも、そのときにかんじていることこそほんがあなたにもたらしてくれたものです。
ヴィルヘルム・ハンマースホイのえっていいんだね。ぼくもじかんをつくってみにいってみようとおもいます。
ゆみ
ありがとうございます :)
ぽろぽろさんのぶんしょうりょくのもんだいじゃなくて、わたしのしこうりょくのもんだいです。。たぶんわたしはひごろ「かんじて」いるけど、ちゃんとことばにして「かんがえて」いないので、こんがらがっちゃうのだとおもいます。へへ
『わたしをはなさないで』、もういちどよんでみます。こうやっていろいろかんがえ(かんじ)させてもらうきかいをあたえてもらったのも、なにかのへりだとおもうので :D
ハンマースホイ、たぶんぽろぽろさんもすきなせかいかんかなとおもいます。たのしいきぶんになれるかはほしょうできないけど…ぜひ♪
2008-09-12 そのことのしくみ
こんばんは。
いまはきんようびのよる、せいかくにいえばどようびになったばかり。あしたからはさんれんきゅうだということでパッとまちのいざかやでのんでいてもよさそうなものだけど、なにをかくそうひっそりとひとりでいえにいます。それはべつにともだちがいないからとかそういうことではなく、ただそんなきぶんだから。なんかいいわけみたいだけど・・・とにかくひとりでパソコンにむかい、おおにしじゅんこの『Junko Onishi Live At The Village Vangard』をききながらカタカタとブログをつけているというしだいです。
こんしゅうはすずしかったかとおもうときょうみたいにきゅうにあつくなったりしてムチャクチャなてんきでした。そういえばかようびにすごいゆうだちもふったな、たしか。
まいにちコツコツとえいごをべんきょうしながらものうりょくこうじょうのおそさにがくぜんとするまいにちだけど、まぁそれはそれでおもしろみもあります。けっしてとうたつはしないもくひょうにむかってすこしずつすすむかんかく、すみきったあおぞらにちいさくうかぶくもにふれようと、どこまでもたかくつづくはしごをいちだんずつあっているようなね。だれもそのどりょくをわらうまい。
さて、ぼくはそこまでせいじとかにきょうみはもっていないのだけれど(ほんとです)、ゆれうごくせいきょくはひがおうでもテレビのニュースなどをつうじてめにいっってきます。う〜ん、どうなるのかなぁ・・・とまゆをよせながらも、まぁいずれくるせんきょにはいかないとなとおもっているこのごろ。
このごろ、マスコミのほうどうやさまざまなにんのこえをきいていて、このひとたちはだれをひはんしているんだろうってふとおもいました。
せいふ?せいじか?かんりょう?きぎょう??このにんたちはいったい『だれ』をひはんしているのだろう、と。
しゃかいにんになってそんなにけいけんをつんでいるわけではないけれど、おおくのにんがかんたんに『くに』とか『せいふ』とか『きぎょう』とかくちにだしてはなしをするとき、ぼくはちょっとしたいわかんをおぼえます。たしかにそういったことばはべんりだけれど、あなたはほんとにそのもののそんざいをかんじたことがあるのですか?じぶんのことばがいみするもののそんざいをかくしんしているのですか?ってね。
たぶん、だれもそんなものみたことはないはずです。きっと『くに』とか『せいふ』とかだったら、こっかいぎじどうとかせいじかとかしゅしょうとかかくりょうとかを、『きぎょう』だったら、かいしゃのビルとかめいしやプレゼンしりょうにいっったロゴとかにっけいしんぶんにのったしゃめいとかを、そのものじたいとおもいこんでいるだけなのではないのかな。
たとえばにほんしゃかいにはもんだいがあるという。でもにほんしゃかいっていったいなんだ?とはあんまりかんがえない。
きっとひとりのにんがしょうがいいきていくなかであうにんのかずなどかぎられているのに、そのにんになんらかのなまえをつけ、カテゴライズし、いっぱんてきにかたられるそのわくにおさまるひとぜんたいのことをしったようなきになったりする。そういうことってよくおこっているとおもう。
なんらかのじゅうだいなけっていやおおぜいのにんのいしとおもわれることも、じつはひとりのにんがあたまをふりしぼってかんがえだしたけっかにすぎないのだとおもうことがあります。さまざまなところでひはんしているものは、じつはもとをたどればひとりのにんのけっていであったりするのだとおもうのです。そしてここからがほんとのもんだいなんだとおもうんだけど、じゃあふだんはこえをだいにしてひはんしているにんたちでも、いざそのひとじしんをめのまえにすると、かんたんにはひはんできなくなってしまうとおもうんだよね。なぜなら、そのにんはカテゴリーにはりついたイメージとはちがってじつはいいにんだったり、ぎゃくになにをいっってもむだなくらいにダメなにんだったり、あるいはほかのだれよりもひっしにかんがえてけっていをくだしていたりするばあいもあるから。まぁあくまでぼくのかんかくですが。
だからさいきんテレビをみるたびに、『いいたいことはわかるんだけどな、これじゃなににもかわらないよな』っておもいます。たいせつなのはなにかをひはんすることではなく、だれがなぜそうかんがえたのかをしることなのだとおもうんだけど、どうだろう?
むずかしいはなしはやめにして、じつはさっきまでDVDでひさしぶりに『LOST IN TRANSLATION』をみていました。なんねんぶりかなぁ。
なにかとくべつなこともおこらないし、けっきょくかれらかのじょらにドラマチックなへんかがあるわけじゃないんだけど、よいたんぺんしょうせつのようにりょうてのひらでつつめるくらいのあたたかさをこころにつたえてくれるステキなえいがだとおもいました。にかいめにみたほうがよかったっていうことがなにかすこしうれしかったりします。
なつやすみにNHKでみたからでしょうか。きょうとやならにいってぶつぞうがみたくてしかたがありません。
でもやすみあけでおきんもそんなにないので、いまのところはへやにかざってあるぶつぞうのしゃしんをながめてがまんすることにしています。
しゃしんはきょねんきょうとにいったときにとったおじいちゃんのしゃしん。しらないにんです。はなしてもいません。でもこういうかんじがすきだったりします。
2008-09-05 The summer vacation
こんばんは。
8がつのまつはすずしかったのだけれど、9がつにいっってあついにちがつづきますね。
きおんのへんどうがはげしいせいか、ぼくのまわりのにんもまいにちけっこうだるそうです。こんなときにはかぜをひきやすいものだからちゅういしてくださいね。
とくにしゃかいにんはたのしみだったなつやすみがおわってしまったことで、はぁ・・・っておもってるにんがいるとおもうけど、だいじょうぶ。なぜなら9がつはさいじつがおおいからです。とりあえずはらいしゅうまつのさんれんきゅうをめざしてがんばりましょう。
ぼくはせんしゅうがおそいなつやすみで、とうしょはまいとしこうれいのいずのうみにいくはずだったのだけれど、てんきよほうをみてみるとにほんれっとうのほとんどがあめ・・・
でもせっかくのやすみをいえのなかでむいにすごすことはありえない!というつよいいしのしたに3にちまえからせいりょくてきにフライトチケット、ホテルよやく、いどうしゅだんやこうどうけいかくのりつあんをおこない、おきなわのちゅうせいぶのビーチにいってきました。
おきなわにはいちどいったことがあるものの、そのときはざんねんながらつゆのまっただなか。じめじめするくうきをふりはらうようにしてなはのいざかやであわもりをのむくらいがかんのやまでした。
しゅっぱつじのとうきょうのてんきはくもり。ほんとにおきなわははれてるのか?といういちまつのしんぱいもありましたが、とうちゃくしてみるとかいせい。しかも8がつもこうはんだったからかくうきはカラッとしていてここちよいくらい。
にっちゅうはビーチパラソルのしたでねっ転がりながら、のどがかついたらキンキンにひえたオリオンビールをかってきてのむというしあわせなすごしかた。なにもかんがえないってじつはけっこうむずかしいことだとおもうけど(ふだんからなにもかんがえてないにんにとってはそんなにむずかしいことではないとおもうけど)、こころゆくまでなにもかんがえずにいることができました。とってもきもちよかった。
よるはペンションのマスターにきいたじもとのいざかやへいってオリオンビールをのむ(どこでもきほんてきにオリオンビールをのむ)。
じもとのにんもいくいざかやで、じもとのおきゃくさんといざかやのマスターにからまれ、ぜんぶをりかいすることができないおきなわのことばをになんとなくあいづちをうっていたら、マスターがじょろにいいました。
『やぎしるのむ?』
のむののまないもこたえるかんもなくマスターはけいたいでだれかにオーダー。こうどうがすばやい。まぁこうなったらのむしかない。
ごちそうしてもらったやぎしるはどくとくのクセはあったものの、モツやきとかにあまりていこうのないぼくはけっこうたべることができました。
やぎしるをたべてるとき、マスターやとちゅうからいっってきたじもとのわかいおにいちゃんが『やぎしるはせいがつくよ〜。むふふ』とかいっってわらっていました。やはりよっぱらいはどこにいってもかわらないですね、ほんと。
それにしてもあついよる、あわもりにシークワーサーをいれてぐいぐいのむのはおいしかったなあ。
ビーチではたいけんダイビングをしてキレイなうみやさかなにかんどうしてライセンスをとることをかたくこころにちかったり、むくちだけどよいタクシードライバーにかくやすでちゅうせいぶ〜びらかいすいぞくかん〜なはまではこんでもらったりと、とってもよいじかんをすごすことができました。
さいごのよるにいったなはのいざかやさんではライブとしょうしてわかものがこじんまりしたみせのかたすみでみんようをうたっていたんだけど、それもなんかたのしかった。じつはむかししゃみせんをすこしやったことがあるので、きかいがあったらさんせんにもチャレンジしてみたいなとおもったり。おきなわにはまたいくきがするな。
(がぞうはびらかいすいぞくかんでのんだビールとか)
はなしはかわるけど、りょこうにいくまえ、じっかにかえってるときにレベッカ・ブラウンの『からだのおくりもの』をよみました。シンプルでわかりやすいほんだとおもうけど、あたたかいものをフィジカルに、しずかに、ダイレクトにつたえるちからをかんじることのできる、すなおにいいほんです。
いまはカズオ・イシグロの『わたしをはなさないで』をさいどくしています。
どくとくのかたりくち、しずかなトーン、どくしゃとわしゃのシンクロをかのうにするせいちなてんかい。あんまりすきじゃないにんもいるとおもうけど、ぼくはすばらしいほんだとおもう。
きょうはきんようびなので、テレビもおんがくもけし、まどをひらけてむしのこえでもききながら、しずかにつづきをよもうとおもいます。
2008-08-17 おもいつくままに
さいきんのことをかいてみようかとおもいます。
なぜかって、それはとくだんかくようなことがないからです。
まずはソファーのこと。
しぶやのロフトをぶらぶらしていて、たまたまみかけたソファー(あまりたかさはなくておおきいざいすみたいなやつ)がげつようにとどきました。2まんえんくらいしたからかおうかどうかまよったけど、いざへやにすえられてみるとそのかいてきをみにしみてかんじます。というわけで、さいきんはきっさてんでおちゃをすることもなく、いえでジッとそのソファーにすわってべんきょうをしたりほんをよんだりぼぉっとしたりしています。
つぎにカレーのこと。
こんなにあついからかむしょうにカレーがたべたくなることがあって、せんしゅうは2かいもカレーをたべにいってしまいました。かんがえてみればだいがく1ねんとか2ねんのときは、よくしぶやにあるインドカレーやにいったものだなぁとふとおもいだしてみたり。ナンってでてくるときには『こんなでかいのたべられるのか?』っておもうのだけど、カレーをたべおわるごろにはキレイになくなっています。ふしぎですよね。
そしてオリンピックのこと。
ぼくはじぶんのことをけっこうなニヒリストだとおもっていますが、オリンピックとかみていてにっぽんじんせんしゅがメダルとかとるとやはりうれしい。そうじゃなくても、いろんなくにのせんしゅがひとつのばしょにあつまっていっしょうけんめいにがんばり、それをおおぜいのにんがかたずをみまもっているすがたをみているこうけいはいいものです。たにもとのけっしょうでのうちまたはきもちよかったです。そしてやはりきたじまはすごい。
そのはんめんでにっぽんじんせんしゅがいいけっかをのこせなかったからといっってそのせんしゅのことをえらそうにひはんするにんをみるととてもはらがたちます。いっさくじつ、パブですずきけいじのことをとてもわるくいっっていたにんがいたのでひとことちゅういしようとおもったんだけど、けっきょくやめました。たしかにけっかがたいせつなせかいであるのはわかっているけど、4ねんかんがんばったまつのくやしなみだをいともたやすくなじるなんておかしいんじゃないかな。
さいごにビールのこと。
なつなのでビールをよくのみます。きんようびにはビアガーデンでなつぞらのしたビールをのみました。きもちよかったよ、ほんとに。きんじょにひえたオリジナルちビールをだすいざかやがあって、そこでしんせんなさかななんかをたべながらのむビールはさいこうです。ちなみにきのうもいってきちゃいました。かつおのたたきとしますしがとてもおいしかった。がぞうはそのしますし。おいしそうでしょ。
きょうでなつやすみがおわるにんもおおいのかな。ながいきゅうかののち、しごとにもどるのはけっこうつらいものですよね。
ぼくのなつやすみはげつまつなので、いまはうみへのおもいがつのるばかりです。
うみ、たいよう、ビーチ、あおぞら、ビール!
こんにちはとてもすずしいですよね。
ひさしぶりにビールをのむのはやめてウィスキーでもでものみながら、かいてきなソファーにすわってどくしょでもしようとおもいます。









「まずいみありき」「まずちからありき」とかんがえたのち、
「まずこうどうありき」とかきのこしました。
せいしょがキリストのしごつくられたものであるいじょう、
「まずことばありき」はちょくせつてきにかのことばであるとはいえませんが、かのこうけいしゃたちのなかでかれにもっともちかいペトロのことばかもしれません。
「まずことばありき」とは、わたしのうそいつわりのないことばをしんじてください、といいたいのではないかとおもいます。
ことばは、ほんらいうそをつくためにあるわけではありません。
じぶんのなかにあるかたちのないものに、ことばというかたちをあたえ、せかいにうみだす。せいめいとおなじです。
ことばがしょうひざいとしてあつかわれてしまうことで、
あんいにせいめいをもたないことばがうみだされてしまいます。
だからだれもことばのほんとうのつかいかたをしらないんでしょう。
かなしいことです。
ことばとはそのままではじっしつをもたないにくたいです。
そこにいのちをやどらせることで、ほんとうのことばになる。
こえもおなじかもしれません。
ふつうのこえではなく、せいめいをやどらせたこえ。
せんりつにのせることで、それはうたになる。
きりつはそれじたいがそもそもたしゃとのきょうゆうをしこうするものだからです。
アンジェラ・アキさんは、
こえにいのちをふきこむことができるにんなのかもしれません。
うたにすることで、おおくのにんとこえをきょうゆうできるにんかもしれません。
そしてしんじつにたどりつくこどもたちも。
わたしはグルードのへいきんりつクラヴィーアです。
よいついたちを。
せいしょはしょもつとしてよみます。
おそらくしょうがい、きぞんのしゅうきょうのどれかにぞくすことはないとおもいます。わたしはひとつのせいめいでありつづけたいとのぞむひとりのにんげんです。
ひるさがりのとうきょうはとてもよいてんきです。
『ことばとはそのままではじっしつをもたないにくたいです。
そこにいのちをやどらせることで、ほんとうのことばになる。』
そうですよね。ぼくもそうおもいます。
にんがいきていくかぎりことばはたえずつかうものなので、そのひとつひとつにしんけんにむきあうことはこんなんですが、そういうなかでことばのほんしつをぼうきゃくしむいにしょうひしていくほどに、ことばにおもいをあたえるちから、ことばがもつそのおもいをうけとるりきもなくなっていきます。
それはたしゃとおもいをきょうゆうするのうりょくがおちるということでもあります。とてもかなしいことですよね。にんげんはしぬまでひとりですが、たしゃとのきょうゆうなしにはいきてはいけません。
へいきんりつクラヴィーアもいいよね。グールドのおんがくをきいているとふしぎとしずかできもちになります。
あなたがしとでもきょうととでもないことはしってますよ(わらい)
『わたしはひとつのせいめいでありつづけたいとのぞむひとりのにんげんです。』
っていいひょうげんですね。なかなかにちじょうせいかつでくちにできるひょうげんではないけど、ぼくもそうありつづけたいとおもいます。