qfwfqのみずにながして Una pietra sopra

2008-09-29

こころのうちのすさまじきかな――ついとうさいごうしんつな




 むらさきしきぶせいしょうなごんをライバルししていたことはよくしられている。『むらさきしきぶにっき』にせいしょうなごんをなざしでしんらつにひはんしたかしょがある。


 《せいしょうなごんこそ、したりかおにいみじうはべりけるにん。さばかりさかしだち、まなかきちらしてはべるほども、よくみれば、まだいとたらぬことおほかり。》


 にっきとはいうものの、このかしょはだれかにかたりかけるいわゆるしょうそくぶんとなっており、さいいんのにょうぼうのてがみぶんにたいするひはんやら、いずみしきぶやあかそめえもんのうたへのしょうさんといったぜんだんにつづいてせいしょうなごんへのひはんがのべられる。せいしょうなごんこそしたりかおをしたはなもちならぬにんで、さかそうにかんじをかきちらしているけれどもよくみるとみじゅくでたいしたことはない。このむらさきしきぶのせいしょうなごんひはんは『げんじものがたり』ははきぎかんのあめよるのしなさだめをおもいおこさせずにいない。

 あめよるのしなさだめについてはまえにすこしふれたけれども(id:qfwfq:20080615)、ふじしきぶじょうが、これもまなかきちらすさかしらなおんなのはなしをひろうしたのち、うまのあたまがさいごにけつろんめいたはなしをしておひらきとなる。


 《すべておとこもおんなも、わろものは、わづかにしれるかたのことを、のこりなくみせつくさむとおもへるこそ、いとほしけれ。(りゃく)さるままには、まなをはしりかきて、さるまじきどちのおんなぶんに、なかばすぎてかきすすめたる、あなうたて、このにんのたをやかならましかばとみえたり。》


 なまはんかなやからはわずかばかりのしっていることをすべてみせてしまおうとするからこまりものです。あげくはおんなどうしのてがみにもかんじだらけのぶんをかいて、おおいやだ、おんならしかったらどんなにいいかとおもってしまう。むらさきしきぶはかんがくもののちちためときがおとこのこでないのをざんねんがるほどかんせきのそようにひいで、『げんじものがたり』にもしろきょえきのいんようはすくなくない。だが『むらさきしきぶにっき』に「なでふ(どういう)おんながまなかきはよむ」とにょうぼうたちがかげぐちをきくようすをかきとめているように、とうじ、おんながかんせきをよむことはいみきらわれていた。うまのあたまのことばもそうしたふうちょうをにょじつにしめしたものであるけれども、それをおんなであるむらさきしきぶがおとこのくちをかりてかくところにあめよるのしなさだめのアイロニーがある。もとおりせんちょうはあめよるのしなさだめのこのくだりをむらさきしきぶの「みずからの、がくもんだてをにくみてせぬこころを、しめしたるものなり」とひょうしているけれども、ことはそうたんじゅんではない。

 じじつ、にっきのなかでむらさきしきぶは、どうりょうのにょうぼうたちに「きどっててとっつきにくく、ものがたりすきで、なにかといえばふうりゅうぶってうたをよみ、たにんをみくだしているいやなおんな、とおもってたけど、あんたってほんとはふしぎなほどおっとりしたにんなのねえ」とくちぐちにいわれて、あららそんなにぼんやりものとおもわれてたなんて、とないしんおもいはするけれど、それがかんいおぼえたみのしょしかたで、なかみやにさえ「とてもだとけてはつきあえないとおもってたけど、ほかのにょうぼうよりずっとしたしくなったわね」となにかにつけていわれるありさま。あるにょうぼうにはまなのあるのをはなにかけてと「にっぽんきのおきょく」というこんめいをつけられるしまつで、それならとわたしなんか「いち」というかんじすらかけませんし、びょうぶのかんしぶんもよめませんというかおをしていたのに、なかみやがしろしぶんしゅうをよみたそうになさっているので、にょうぼうたちのいないげきにかくれてらくふのすすむこうもしてさしあげたけれど、もしあのくちうるさいにょうぼうにでもしられたらなんていわれることか。あ〜あ、やんなっちゃう。「すべてよのなか、ことわざしげく(なにかとことがおおく)、ゆうきものにはべりけり」としるしている。


 ねんくれれてわがよふけゆくかぜのおとにこころのうちのすさまじきかな   むらさきしきぶ


 こくぶんがくもののさいごうしんつなは、『げんじものがたり』のぶんしょうがおなじさんぶんでも『たけとりものがたり』や『うづほものがたり』のようなおとこのてになるものとちがって「ずっとしせいとしょうちょうせいにとむのはなぜか」とといかけ、それは「おんなのさくがせいかつのなかにいきるうたのでんとうをははたいとしてうみだされてきたのにもとづくとくしつであった」とじこたえしている。むらさきしきぶには(かんぶんとの)バイリンガルなけいけんがきょうれつであっただけ、いしつなものをとうしてじこくごをついじかせねばならず、『とんぼにっき』などにくらべて「しとさんぶんのこうしたぶんかかていはいっそうげきてきにつらぬいたとかんがえていい」と。


 《つまりそのぶんたいがしせいにとむのは、せいかつのなかにいきるうたのでんとうがへいばんかといういみでのたんなるさんぶんかにあらがい、そのさんぶんにどくじのきんちょうやおくゆきやだんりょくをあたえているからで、ぎゃくせつめくが、それはしのけんりをもほうきしないさんぶんなのだ。それでいてそれはふしぎにもれきとしてちょうへんのつくりものがたりであった。》


 たっけんである。「しとさんぶんのぶんかがはじまったばかりの、そういうれきしてきないっかいせいのなかで、むらさきしきぶのようにおんなであってしかもかんぶんがじゆうによめるさくしゃのみのなしえたところであった」。れきしてきないっかいせいとは、いかのようなじじょうをさす。


 《かんがくこそりつりょうせいにおけるけんいのしちゅうであったのをかんがえるならば、こだいしゃかいのちすべりにもにたがかいがこのへんでかそくされ、そのかいそうてきぶんかとたようかがすすみ、それとともにこうてきなとういつのかげにかくれていたしょちからがしゅんどうしはじめ、これまできこえなかったさまざまなこえがざわめきだしたゆえんをなっとくできるだろう。せいかくやうんめいをことにするいろいろなじんぶつがとうじょうしてきてふくざつなもようをおりなすちょうへんしょうせつがあらわれたのは、まさしくこうしたほうかいかていのなかからであった。》


こうしたバフチンのいうポリフォニー、あるいはオーケストレーションはしょうせつというサブジャンルにおいてこそかのうであった。しょうせつすなわちきょうげんきご。しろきょえきが「きょうげんきごノごリヲほんシテさんほとけじょうノいんトセム」とうたったようにぶんげいのせいさくにはいっしゅのしゅうきょうてきざいぎょうかんがつきまとっていた、とさいごうしんつなはいう。そして「むらさきしきぶは、きょうげんきかたとかくごしながら『げんじものがたり』をかきついで」いったのではないか、と。むらさきしきぶの「すさまじき」こころのうちとは、あるいはそうした「きょうげんきごをつづらざるをえなかった」しょうせつかの「ざいぎょうかん」であるのかもしれない。

 ちなみにわたしが『げんじものがたり』のあめよるのしなさだめのおもしろさをしったのも、このさいごうしんつなちょ『げんじものがたりをよむために』(へいぼんしゃ、1983)によってであった。まえにちらとふれたことがあるけれども、だいがくにいっったねんにわたしはさいごうしんつなしのこうむしろにれつした。なかいしょういちびがくにゅうもんをテキストにしたこうぎはぼんさいにはこうきゅうすぎてぶたにしんじゅだったが、さいごうしのこうぎをうけられるというだけでまんぞくだった。そつぎょうしていち、にねんたったころ、あるしてつのホームでさいごうしのすがたをみかけた。いさみをつづみしてはなしかけた。おそらくへんしゅうのしごとをしているというようなことをはなしたのだろうとおもう。ことばをかわしたのはのちにもさきにもただいちどである。ときにはばんゆうもふってみるものである。『しのはっせい』『こじきけんきゅう』『こだいじんとゆめ』『しんわとこっか』『りょうじんひしょう』『さいとうしげるきち』……、わがまずしいしょかにもしのちょしょはすくなからずちんざしている。ほとんどししゅくというにひとしいが、わがしであり、ふしょうのでしである。

 にじゅういつかやはん、しはちょうせいなされた。こころよりごめいふくをおいのりもうしあげます。


げんじものがたりをよむために (へいぼんしゃライブラリー)

げんじものがたりをよむために (へいぼんしゃライブラリー)

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