20081014.
■[えいが]あたらしいあさのむかえほう 『トウキョウソナタ』
ささきいえのしゅ・りゅうたいら(かがわしょうゆき)はだいきぎょうのそうむかちょうをしていたが、しごとのがいぶいたくがきまったとたん、かいしゃでようなしになってしまった。しかしかぞくにはそれをひっしでかくそうとする。つま・めぐみ(こいずみきょうこ)はなんとなしにおっとのいへんにきづきながらも、「おかあさんやく」であることにけんめいでありつづけた。ちょうなん・たかし(おやなぎとも)はだいがくにいるもむなしさをかんじるひびをおくり、じなん・けんじ(いゆきわきうみ)もまたたんにんとのおりあいのつかないかんけいからこどくをあじわっていた。あるにち、ちょうなんがべいぐんにしがんしたことをきっかけに、すいめんかでかくかくがだえていたやみがうきぼりになっていく。
ささきいえがほうかいしてしまうのにはきっかけがひつようだったけれど、それはきっかけでしかない。それまでのながいながいかていをへてのことである。ただそのきっかけが、ちょうなんのべいぐんしがんであり、じなんがピアノをならいたいとつげたことであっただけのことだ。かれらのこうどうは、ちちおやにはあまりにとうとつなできごとにかんじられ、そのいっさいをきょぜつしてしまう。ひぐちたかしぶんは「とうとつなことをはいじょされつづけてきた」じんせいとひょうげんしている。げんだいシステムのたがをはずされたサラリーマンのひあいとでもいうのだろうか。
たしかにりゅうたいらは、きんだいかのおわりをいみするようなそんざいにみえる。かのしつぎょうなかまであるこうこうのどうきゅうせい・くろす(つだかんじ)は、そのほうかいにたえられなかった。たかしをふくめた3にんから、ろうどうとかちのかんけいせいがきんだいのそれとはあきらかにへんようしていることがわかる。さんぎょうこうぞうのへんかでは、それをしょうめいすることができない。
みのまわりのせかいがなだれをうったとき、よわいのはおとこのほうだ。おんなはつよい。めぐみはごうとう(やくしょひろし)にらちされたことをきっかけに、かていからのとうぼう(ぼうそう)をおっぱじめる。ごうとうもたじたじだ。やっぱりかれもたえられなくなり、すがたをけしてしまう。とうぼうさえほうかいしためぐみは、なんといえにかえってくるのだ。しかたなくではない。けついをもって、である。そして、いろいろあったじなんにむかって、おなかがすいたからなにかつくる、とおかあさんのやくめをかってでるのであった。そこに、ダメになったとうさんがやってきて、ふたりはそれをむかえいれる。それぞれがそれぞれのそつぎょうしきをへて、しきりなおしにいえにやってきた。あたらしいあさである。
ラスト、けんじがちゅうがくのにゅうがくしけんでピアノのじつぎをうける。ドビュッシーの『げっこう』はふくいんのようだ。しかし、けんじはいささかはやくおとなになりすぎている。おとなのようにいきていくじゅつをしっている、というほうがただしいかもしれない。かのじんせいにはまだかべがある。ないとこまる。そのときかていになにができて、なにをしないのか。そのよいんがちょっとこわくもある。
