【しょひょうとろんぴょう】これまでやく2ねんかんにわたって「しょひょう」だけをとりあげてきた。これからはじゅうらいのスタイルによるしょひょうにくわえて、あらたに「ろんぴょう」もずいじおりこんでいきたい。ぐたいてきにはかこになんらかのメディアにけいさいされたきじをしょひょうのまにはさんで、とうブログにけいさいしていく。もちろんけいさいもとのどういはえてある。これからはだれのじんせいにおいてでもおもいあたることがあるであろうしんらばんしょうについての、Tokyokid のしょひょう(ほん)やろんぴょう(きじ)をはっしんしていくつもりだ。 (080808)
2008-05-15 しょひょう・ひじりみちかこくさいびょういんはちじゅうねんし
しょひょう・ひじりみちかこくさいびょういんはちじゅうねんし(ひじりみちかこくさいびょういん・はっこう)ひじりみちかこくさいびょういんはちじゅうねんしへんさんいいんかい・へんしゅう
【あらすじ】
このはちじゅうねんしは、しょうわ57ねん(いちきゅうはちに)に、とうびょういんせつりつのち80しゅうねんをきねんしてはっこうされた。ほんしょに「はちじゅうねんしかんこうのことば」をよせたひじりみちかこくさいびょういん・いんちょう(とうじ)ののべちあつしろうしによれば、そうりついち〇〇しゅうねんをきねんしてつくるのがてきせつであろう「としふみ」だが、それまでにおこりえるじんぶつ・しりょうそのほかのさんいつにそなえてこのはちじゅうねんしをつくることにした、とのことだ。まことによういしゅうとうなことといわねばならない。ちなみにいち〇〇としふみはこのあと「ひじりみちかこくさいびょういんのいち〇〇ねん」としてはっこうされた。ないようはびょういんかんけいしゃよにんのじょぶんにつづいて「じょしょう」「えんかく」「のちしょう」「つき」「グラフ」「こうき」にわかれる。おもしろいのは「グラフ」で、じつはこのしょうはめいじさんじゅうさんねん(いちきゅう〇〇)のさいしょの「しりょうしんりょうじょ」からはじまって、しょうわさんじゅうななねん(いちきゅうろくに)のみかさみや・どうきさきしゅっせきのもとにおこなわれたそうりつしゃトイスラーたんじょうびの「はってんけいかくかんせいかんしゃれいはいしき」にいたるまでの、にじゅうぺーじにわたる「しゃしんアルバム」なのである。すべてしろくろのスチルしゃしんであるが、めいじ・たいしょうからしょうわにいたるびょういんのたてものやぎょうじやふうぞくがみられてきょうみがことごときない。とくひつすべきは「えんかく」で、このしょうはさらに「しんりょう」「かんご」「かんごきょういく」「しんりょうほじょ」「じむ」「チャペル」のしょうしょうにわかれる。ぶんちゅうきょうみあるきじのうちひとつだけをしてきすれば、じんぞうとうせきはそののちいっぱんかされていまではだれでもうけることのできるひじょうにまされたちりょうほうのひとつであるが、とうびょういんではしょうわしじゅうよねん(いちきゅうろくきゅう)にさいしょのじんこうじんとうせきそうち1だいがせっちされ、だいいちごうかんじゃのとうせきがおこなわれたとのことだ。じんぞうとうせきひとつをとっても、そののちのたんきかんにこれほどのふきゅうをみたということは、わがくにがせんごへいわにすごしたじだいのたまものといわざるをえない。ほんしょのなかで、めいじいしんのちにとうびょういんがほそぼそとほっそくして、それからだんだんとないようをととのえていくさまや、とちゅうの「べいこくひじりこうかい」によるしきんそのほかのえんじょ、またせんごのべいぐんによるびょういんしせつのせっしゅうやへんかんなど、わがくにのだいきぼびょういんのはしりともいえるこの「ひじりみちかこくさいびょういん」のそくせきをはちじゅうねんにわたるってたどることができる。ついでながら、とうびょういんのある「とうきょうとちゅうおうくあかしまち」は、えどじだいの「てっぽうす」のあとであり、とうじのえどばくふがたいほうのししゃをしたところである。ちかくにふくざわゆきちのけいおうぎじゅくはっしょうのちもある。
【よみどころ】
ほんしょの「じょしょう」にかたられるとおり、とうびょういんと「べいこくひじりこうかい」のきずなはひじょうにつよい。もともとしゅうきょうほうじんとしての「ひじりこうかい」はえいこくがほんばで、べいこくのひじりこうかいはそのでさききかんであった。だがにっぽんにたいするアプローチでは、べいこくひじりこうかいがさきをこしたとみえ、ほんしょでは「あんせい6ねん〜めいじ45ねん」のこうに「べいこくひじりこうかいのせんきょうし・C・M・ウイリアムスがあんせい6ねん(いちはちごきゅう)ながさきにじょうりくしたときにはじまる」としるしている。とうびょういんとのかんけいでいえば、そうりつしゃのトイスラーひろしさむらいがべいこくしゅっしんのいしであったことがけっていてきにえいきょうしているといえよう。けいれつでいえば、にほんかくちでみられるキリストきょうのしゅうきょうほうじん・ひじりこうかいとのつながりがふかい。だいがくでいえばとうきょう・いけぶくろの「りっきょうだいがく」である。とうびょういんとしゅうきょうとのかんけいはそれほどにしておいて、とう「ひじりみちかびょういん」はにっぽんにおけるだいびょういんのいっぽうのくさわけであることもじじつなのである。めいじいしんいこう、にっぽんはせいおうにおいつき、おいこすことをこっかのもくひょうにしてきたが、この「はちじゅうねんし」をよむと、とうじのにほんじんがひたむきにとうじのせいおうのぶんめいをとりいれるのにねっしんであったさまをうかがうことができる。そのどりょくはいじらしいほどのものである。またなぜかめいじきそうりつとうじから、とうびょういんとにっぽんのこうしつとのむすびつきがふかく、そのじょうたいがげんざいでもつづいている。このあたりにしゅうきょうとけんいのいわくいいがたいりゆうによるせっきんのけはい、はっきりいうと(こうじゅつのさがくベッドもんだいともからんで)りょうしゃにえたいのしれないいかがわしさをかんじるのはひょうものだけであろうか。
【ひとこと】
ひじりみちかこくさいびょういんにはちょくせつにはへりもゆかりもないひょうものがなぜほんしょをてにしているかについては、いかのエピソードをのべねばならない。せんぜんのえいがかいをふうびしたアメリカにんのしまいじょゆうといえば、オリヴィア・デ・ハヴィランド(えいが・かぜとともにさりぬなどにしゅつえん)とジョーン・フォンテイン(どう・レベッカ、ジェーン・エアなどにしゅつえん)であった。このにっぽんうまれのしまいはちょうじてからふなかなことでゆうめいになった。ひょうものとこのしまいとはとおいいんせきかんけいにあたるが、オリヴィア・デ・ハヴィランドからじぶんのうまれたびょういん「ひじりみちかこくさいびょういん」とはどういうところかときかれ、そのせつめいしりょうとしてどうびょういんのサービスセンター・ギフトショップでこうにゅうしたのがほんしょであった。
【それはさておき】
げんざいひじりみちかこくさいびょういんは、いっしゅの「こうきゅうな」びょういんとしてしられる。にゅういんするといっても「さがくベッド」がたいはんで、それもちかいしょうらいぜんぶきりかわるということだから、しょみんがきやすくにゅういんできるびょういんではなかろう。こうしつとのかんけいも、そのようはけいえいほうしんにかんれんしているのではないかとおもわれる。ほんらいひんみんをすくうというけんちからすれば、キリストきょうにかぎらず、しゅうきょうだんたいは、びんぼうにんのふところにいっってきゅうさいかつどうをするのがもっともこうりつがいいはずである。だがそれではひようがまかなえない、ということで、かねもちからのきふをあおぐというじっしつてきでもあり、めいもくてきにもなりえるりゆうによって、こんにちでもたくさんのしゅうきょうだんたいの「きょうかい」はやまてのこうきゅうじゅうたくちのなかなどにたてられることがおおい(もちろんカトリックのゼノしんぷのようなれいもある)。これはなぜなのか。ところでひょうもののははおやは、えいこくひじりこうかいのけいけんなクリスチャンであったが、がくせいのころにひょうもののしたしいゆうじんであったAくんがあそびにきたときにこのしつもんをはっして、ははおやほんにんはこたえにきゅうしていたのが、いまはなつかしくおもいだされる。
【だそく】
ほんしょはさんご〇ぺーじあまりのどうどうたるほんだが、ひだりとじのよこがきほんである。しゃしでもいぜんにあげたにっさんじどうしゃほかのかいしゃのしゃしでも、よこがきほんはすくなくない。ひょうもののいけんをいえば、えいごのたんごでもふんだんにつかってあるならともかく、いちどくしてみればそのようにもみえず、このたねのほんでよこがきはよみてにとってまことによみにくい。かんじは「うえからした、ひだりからみぎ」へとかきじゅんがきめられているから、よこがきにされるとかんじのつながりがよくなくなる。またかんじじたいがもともとたてながのじたいである。このようなことから(ていきかんこうぶつたるまいにちのしんぶんのしめんをみても)、にほんごはやはりたてがきにかぎる。がくじゅつろんぶんでもあるまいし、しゃしのようなほんによこがきはふさわしくない。このようなじたいをまねいたのは、なにかとくべつなりゆうでもあったのだろうか。ま、かんじんのにほんじんのだいたすうがそのようにかんじることがなければ、それはそれでかまわないささいなことではあるが。□
2008-05-01 しょひょう・にっさんじどうしゃ50としふみ
しょひょう・にっさんじどうしゃ50としふみ(にっさんじどうしゃかぶしきがいしゃ・はっこう)にっさんじどうしゃかぶしきがいしゃちょうさぶ・へんさん
【あらすじ】
にっさんじどうしゃはさいしょしょうわ8ねん(いちきゅうさんさん)に「じどうしゃせいぞうかぶしきがいしゃ」としてせつりつされたが、よく9ねん(いちきゅうさんし)ににっさんじどうしゃかぶしきがいしゃとかいめいしてげんざいにいたる。ほんしょはしょうわ58ねん(いちきゅうはちはち)にそうりつ50しゅうねんをきねんして、いぜんにもはっこうされていた「にっさんじどうしゃ30としふみ(しょうわ8〜38)」と「にっさんじどうしゃしゃし(しょうわ39〜48)」ののちの10ねんのれきしをくわえかつそうりついらいのぜんきかんをとおりみするようにはいりょしてへんさんされた、と「あとがき」にある(ひばいひん)。ないようをもくじからひろうと、「だいいちしょう・そうぎょうからせんじかのせいさんまで」「だいにしょう・せんごのこんらんからのふっこう」「だいさんしょう・じしゅぎじゅつのかくりつをめざして」「だいよんしょう・モータリゼーションをすいしんして」「だいごしょう・ほんかくてきたいしゅうかじだいをむかえて」「だいろくしょう・ゆしゅつきばんのかくりつ」「だい7しょう・しゃかいとのちょうわをめざして」「だい8しょう・だいいちつぎせきゆききへのたいおう」「だい9しょう・グローバルきぎょうへのてんかい」のぜん9しょうからなる。そのほかに「DATSUNのたんじょう」「ウィリアム・R・ゴーハム」「だいねんくるま」「オースチンしょうし」「だいいっかいじどうしゃショー」「プリンスじこうしょうし」「DATSUN からNISSAN へ」など、いっぱんどくしゃにとってもきょうみぶかいぜんぶで32こうもくのコラムがぜんへんにちりばめられてある。そのあとの「こうこくにみるにっさんくるまのあゆみ」と「しりょう・ねんぴょう」は、おうべいせんしんこくのじどうしゃにたいこうしようとしたとうじの、じじつじょうにっぽんのじどうしゃさんぎょうのようらんきのじゅうようないちよくをになった「にっさんじどうしゃ」の50ねんのれきしをものがたるものとして、まことにきちょうなしりょうである。
【よみどころ】
ほんしょがカバーするしょうわ8ねんからしょうわ58ねんまでのはんせいきは、いちにっさんじどうしゃにとってばかりではなく、にっぽんのくにぜんたいにとってももじどおり「たいへんな」はんせいきであった。このかんにっぽんは、だいにつぎせかいたいせん(たいへいようせんそう)にとつにゅうし、わがくに2せんねんのれきしはじまっていらいつまりけんこくいらいはじめてがいこくのちからにくしてはいせんをけいけんし、せんごのだいこんらんのじきをへたうえで、こんどはいってんしてだれもそうぞうしえなかったせかいのれきしじょうでもまれなけいざいこうどせいちょうをたんきかんでじつげんすることになる。このかん「こくさく」としてのじどうしゃしんこうのせきにんをおわされたしきぎょうが、どのようにこっかのとうせいをうけながらじどうしゃのせいさんにはげんだか、してんをかえれば、りえきついきゅうをむねとすべきしきぎょうがいかにしてじゆうをぎせいにしてとうせいのめいのもとにこっかにほうしさせられたかについて、しゃしはちょくせつあからさまにかたることはないのだが、そのきでよめばぎょうかんやしはいからそのじじつをいくらでもくみとることができる。そしてこのにっさんじどうしゃの(せんぜん・せんちゅうの)しゃないけいけんが、のちにどうしゃがせかいてききぼのかいしゃにのぼりづめたときに、とうじのほんしゃしょざいちをもじって「ぎんざつうさんしょう」とヤユされるほどまでにしゃないがこうちょくし、ついにじだいのへんかについずいできなくなる、じつにそのちょくぜんのときまでのれきしがかたられているのである。
【ひとこと】
ほんしょには「21せいきへのみち」というふくだいがつく。それがやがて、といってもかんもなく、がいこくのどうぎょうしゃにみうりすることになるだろう、ということはもちろんかかれていない。せんごはんせいきあまりで、にっぽんのじどうしゃさんぎょうは、べいこくとならんでせかいでもいち、にをあらそうまでにせいちょうした。そのかん「トヨタ・ニッサン」といえば、2きょう×よわといわれたように、にっぽんをだいひょうする2だいじどうしゃがいしゃのいっぽうのはたがしらであった。それがこの「50としふみ」がかんこうされたそのすぐあとで、まさかのてんかのにっさんじどうしゃががいしにみうりするというじたいがおこった。これをあらかじめそうぞうしていたにんは、この「50としふみ」がかんこうされたとうじ、いたとしてもすくなかったにちがいない。だがじじつはあれよ、あれよというまにおうべいのばいてのめいがいくつもとりさたされ、そのうちでもじゃくしょうメーカーとめされたフランスのルノーにわずか6せんおくえんほどでばいしゅうされてしまう。このときのにっさんのしさんは2ちょうえんをこえていたのに、である。そしてルノーかららつわんのカルロス・ゴーンしがはけんされ、たんじじつのうちににっさんじどうしゃのさいけんをはたす。それはそれでいい。だがひょうものには、このときのにっさんじどうしゃのさいけんがなぜがいじんのてによらねばできなかったのかりかいできないし、けっていてきなりゆうをさがすこともできない。なぜならば、にっぽんにだってゆうしゅうなけいえいしゃはいくらでもいり、かたむいただいきぎょうをかいせいさせためいけいえいしゃをなんにんもあげることができるのに、なぜゆうしゅうなとうだいしゅつがくもしゅうしていたであろうぎんざつうさんしょうがじりきでかいふくできなかったのか、このてんをにっぽんのけいえいがくものにせいかくかつてきかくにぶんせきしてもらいたいとおもうのである。ついでながら、ほんしょがへんさんされたじきのにっさんじどうしゃのけいえいトップは(ひょうもののすんぴょうをまじえつつしょうかいすると)、「ちゅうこうのそではあったがかいしゃのかじをまちがったほうこうにきりつづけたじおおおとこ・かわまたかつにかいちょう」と「ついにちょうきていらくけいこうのにっさんじどうしゃをかいふくきどうにのせられなかったおとこ・いしはらしゅんしゃちょう」であった。このふたりのけいえいしゃが、にっさんじどうしゃをがいしにわたさねばならなかったじたいにいたるしたじをちょうきかんにわたってつくりつづけたことは、まちがいない。
【それはさておき】
じどうしゃ、とくにじょうようしゃはしゅみのせいひんである。かんげんすれば「ファッションせいひん」であるそくめんをたぶんにもっている。するとじどうしゃをこうばいするしょうひしゃが「このむ」または「もとめる」じどうしゃをきょうきゅうできないメーカーは、いずれじょうがいにさらねばならない。へいせい20ねん(に〇〇はち)のこんにち、アメリカでかつて「ビッグ・スリー」といわれた「ゼネラル・モーターズ(GM)」「フォード」「クライスラー」は、しょうひしゃがのぞむこうねんぴのクルマをきょうきゅうできないというきょうつうのりゆうで、3しゃそろってこのわだちをふみつつある。そのたねのクルマは、げんゆがバーレルひゃくじゅうしちドルをこえたげんざい、じどうしゃメーカーとしていきのこるにはそのきょうきゅうがひっすじょうけんなのだ。いっぽうおもしろいことに、しょうひしゃのきょうみがむくじどうしゃをつくるには、さんどのメシよりクルマのすきな「カーガイ」がいなければできるものではないと、じどうしゃひょうろんかのとくだいじありつねしもそのちょしょでかっぱしている。しかもきぎょうがおおきくなってくれば、ますますけいえいしゃのけいえいのうりょくがもんだいとなってくる。ほんしょのしゅじんこう・にっさんじどうしゃは、そのかっこうのケーススタディたりえる。にっさんががいしのルノーにばいしゅうされたあと、トヨタにつづくにっぽんのじどうしゃメーカーの2ばんてとしてとうじょうしてきたのが(みんぞくしほんの)ホンダであるが、どうしゃも「あおやまけいざいさんぎょうしょう」などとヤユされないように、しょうらいもすえながく、しっかりとせかいでにっぽんのじどうしゃメーカーのそんざいかんをしめしてもらいたい。□
2007-12-24 しょひょう・ろっぽうぜんしょ
しょひょう・ろっぽうぜんしょ
★ しょうろっぽう・しょうわ64ねんばん・ゆうひかく(へんしゅうだいひょう・ほしのえいいち、まつおひろや、しおのひろし)
【ろっぽうぜんしょとは】
にっぽんはほうちこっかとされる。そのこっかのほうりつのげんとなるろっぽうりつてんつまり「けんぽう」「みんぽう」「けいほう」「しょうほう」「みんじそしょうほう」「けいじそしょうほう」をかいたほん。じっさいにこのしょひょうのていほんとした「しょうろっぽう」のもくじは「こうほう(けんぽうほかをふくむ)」「みんじほう(みんぽう・しょうほう・みんじそしょうほうほかをふくむ)」「けいじほう(けいほう・けいじそしょうほうほかをふくむ)」の3ぶにだいぶんるいされている。くわえて「しゃかい・けいざいほう(ろうどうきじゅんほう・ぎんこうほう・ほけんほうほかをふくむ)」と「じょうやく(こくさいれんごうけんしょうおよびこくさいしほうさいばんところきてい・じょうやくほうにかんするウィーンじょうやく・せかいじんけんせんげん・カイロせんげん・ポツダムせんげんほかをふくむ)」の2ぶがつづいてきさいされ、ぜんぶで5ぶのへんせいである。
【あるべきよう】
ほんとうはいっさつの「ろっぽうぜんしょ」で、ぜんぶのほうりつがいちどきにさんしょうできることがのぞましいのだろうが、それではだいぶになってしまうので、かくしゅっぱんしゃからはまいとし「xxねんばん」として、しんばんがはっこうされる。ほうりつはねんねんさいさいふえつづけるので、このしょひょうのていほんとなった「しょうろっぽう」では、つぎの3てんをきほんほうしんとしてしんねんはんをへんしゅうしているという。その3ほうしんとは?ねんねんふえつづけるたすうのほうれいのなかからとう「しょうろっぽう」にきさいするのがてきとうなないようのものをせんたくすること、?ほうれいしゅうのせいめいともいうべきほうれいのせいかくさをかくほすること、?ほうれいのけんさくのびんをはかること、であるという。たしかにこれはあるべきりっぽうぜんしょのすがたであろう。
【つかってみれば】
にっぽんをふくめてみんしゅしゅぎこっかは、「りっぽう=こっかい」「しほう=さいばんしょ」「ぎょうせい=ぎょうせいふ」の3きかんがぶんりつしてくにをほうちすること、ぎむきょういくのかていでがっこうのしゃかいかでおしえるとおりである。ほうりつはそのもととなる。くにのりっぽうにたずさわるこっかいぎいんや、しほうのせんもんかであるさいばんかんやべんごしがにちじょうそれぞれのかつどうのきじゅんとしてさんしょうするのが「ろっぽうぜんしょ」であろう。これらのせんもんかとはべつに、ほうりつのせんもんかではないひょうもののようないわば「しろうと」がにちじょうけいけんするいろいろなばめんにおうじて「ほうりつ」をさんしょうするさいにも「ろっぽうぜんしょ」はひつようなのである。しろうとには、つかう「ろっぽうぜんしょ」がほうりつにかんしてさいだいもらさずきさいしてあるひつようはなくむしろようてんがわかればいい、というばあいがおおいので、そのようなばあいには、むしろようてんだけをようりょうよくしゅうろくしてある「しょう」ろっぽうぜんしょがそのもちをうまくたしてくれるばあいがおおい。そのようなようてんむき、さんしょうむきのろっぽうぜんしょのひとつが、ていほんとしたこの「しょうろっぽう」なのである。ほんしょのしゅっぱんしゃである「ゆうひかく」はつとにほうりつかんけいかきのしゅっぱんもととしてけいけんもじっせきもつんでおり、ほんしょの「はしがき」にも「ゆうひかくではろっぽうへんしゅうしつをもうけ、じょうじほうれいのへんせんをたんねんにあとづけている」とのきじゅつがある。ほんしょをじっさいにつかってみれば、ひょうもののような「ほうりつのしろうと」には、「ちいさい」が「つかいやすい」ろっぽうぜんしょであり、たいへんべんりなろっぽうぜんしょであるということができる。
【それはさておき】
ほうりつとはもともとひとりひとりのにんげんが、ほかのにんげんにかかるぶぶんのこうどうをりつする「さいしょうげんどの」ししんである、とひょうものはおもっている。つまり「ほうりつはにんげんのさいだいげんきょようされるこうどうのきじゅんをしめしている」とはおもっていないのだ。でもおしょくもんだいなどでこっかいにかんもんされるせいじかやかんりょうなどが、じぶんのこうどうは「ほうりつにはていしょくしていない」とむねをはるのをみることは、あまりこころよいものではない。「ばんぶつのれいちょう」といわれる「にんげん」が、ほうりつにふれるこうどうをしなければそれでよい、というかんがえでは、そのにんのしそうはあまりにもひんこんではないか、とおもってしまうわけだ。そのていどのにんげんが、くにのさいこうぎけつきかんやしっこうきかんのいちいんであることじたいにぎもんをかんじてしまう。かつてにっぽんのしゅしょうは、アフリカけいアメリカにんのちのうしすうをうんぬんしてぶつぎをかもしたが、このにんはにほんこくみんのたみどにこそげんきゅうすべきではなかったか。このしょひょうのどくしゃしょけんは、そのてんをどのようにおかんがえであろうか。□
2007-08-27 しょひょう・エアバスのしんじつ
しょひょう・★エアバスのしんじつ(かとうひろしいちろうちょ)こうだんしゃ
【あらすじ】
ふくだいに「ボーイングをこえたハイテクそうじゅう」とある。いちくくきゅうねんしょはんはっこうのほんであるから、ぎじゅつかくしんのはやいこうくうきぎょうかいのほんとしては、に〇〇ななねんのこんにち、ないようがふるくなっているてんがあることはいなめないじじつである。ないようはごしょうにわかれ、だいいっしょうはいちくくよねんになごやくうこう(げんざいのこまきくうこう)でおこったちゅうかこうくう・エアバスA300−600Rきのちゃくりくじこといちくくろくねんふくおかくうこうでのガルーダ・インドネシアこうくう・DC−10きりりくじことのふたつのじこを、オートパイロットそうちをつうじてかんさつし、ひかくしながらそのへんせんをこうさつした。だいにしょうはちょしゃがエアバスしゃをほうもんするにあってコックピットとうじょうをふくんでじゅんびしたじこうにかんしてのきじゅつである。だいさんしょうはちょしゃにとってさいしょのエアバスほうもんきで、エアバスのせっけいしゃなどとうじしゃとのとうろんなど、じつぶつをまえにしたたいけんがかたられる。ここでちょしゃは、ほうもんまえにエアバスにかんしてひじょうにごかいしていたことにきづくのである。だいよんしょうはほうもんをおってきこくしてからのこうさつで、このこうではにっぽんのぎょうせいやきぎょうのこうくうじぎょうがけっていてきにすいじゃくし、そんぞくのききにひんしていることをじっかんし、もんだいてんをさぐる。ここは(いうだけムダだろうが)こうくうきさんぎょうのぎょうせいやきぎょうにたずさわるにんたちにぜひよんでもらいたいところだ。だいごしょうはちょしゃのにどめのエアバスほうもんで、エアバスにたいするこうさつのそうしあげをしている。
【よみどころ】
ちょしゃはしょうわ10ねん(1935)とうきょううまれ。とうきょうだいがくこうがくぶこうくうがっかをそつぎょうし、かわさきじゅうこう、アメリカ・ボーイングしゃきんむのけいけんをもち、そののちとうきょうだいがくこうがくぶこうくうがっかのじょきょうじゅ、きょうじゅをへてほんしょのしゅっぱんじにはめいよきょうじゅをつとめていたこうくうきのせんもんか(こうがくはくし)である。ちょしょもたすうしゅっぱんされている。ほんしょのこうせきはなによりにっぽんのこうくうぎょうかい(にかぎったことではないが)のかんしんとりがいかんけいがすべてアメリカをむいており、ないようてきにはすくなくともアメリカとどうとうのぎじゅつてきすいじゅんをほじするヨーロッパのこうくうぎょうかいをむししているじじつをあきらかにしたところである。こうへいにかんがえて、もしこのちょしゃのこうさつがただしいとするなら(ただしくないとしょうめいできるしょうこはなにもないわけだが)、たんいつぶんかのアメリカと、EUというくにもぶんかもげんごもちがうくにがよりあつまっているEUというこくさいてきそしきのなかでのきょうどうさぎょうとをひかくをすれば、やはりよりあいしょたいをまとめることのほうがたいへんなさぎょうであるはずなのだ。エアバスのしゅけいやくしゃはしカくににまたがり、これはフランスのエアロ・スパシアル、ドイツのダイムラー・ベンツ・エアロスペース・エアバス、イギリスのブリティッシュ・エアロスペース・エアバス、スペインのカーサのししゃがさんかしているいちだいプロジェクトなのである。にもかかわらず、せいひんとしてのおおがたりょきゃっきのせっけいしそうにおいて、おうしゅうのエアバスはアメリカのボーイングにやさっている、というのがちょしゃのけんかいなのであり、それはじょうきのりゆうからけっしてまちがったもののみかただということはできないだろう。もしこのかんさつがあっているならば、にっぽんのかんちょうもきぎょうも、アメリカをみてアメリカのいうなりになっていればすむということではないことに、はやくきがつかなければならない。
【ひとこと】
ほんしょの「だいよんしょう」は「しっそくしたにっぽんのこうくうかい」というだいで「ボーイングのしっぽについてきたにっぽん」「ゼロたたかはもううまれない」とぐたいてきなれいがしめされる。こうくうきせいぞうのしゅかんかんちょうはきゅうつうさんしょう、いまのけいざいさんぎょうしょうであるが、こくさいすいじゅんをぬくぎじゅつやせつびをもちながら、げんざいせいひんとしてのじまえのりょきゃっきはひとつもないというじじつは、ひょうもののようなしろうとにもきみょうなげんしょうにおもえる。ゆいいつのれいがいであったプロペラきの「YS−11」はろくしせき、いちきゅうろくにねんにはつひこうし、いちはちにきをせいさんしていちきゅうしちさんねんにせいさんしゅうりょうした。このYS−11いらいにっぽんではりょきゃっきをせいさんしていない。ちょしゃはこうしたこうくうきさんぎょういくせいのどりょくがにっぽんではかんみんともにふそくしているじじつのほかに、にっぽんのだえるほんしつてきな「ちざい」にたいするむかんしんぶりをぐたいてきなじれいをもってしてきする。にっぽんのかいはつした「ゆうような」ぎじゅつが(とうようとはいわないまでも)アメリカにむりょうでわたって、ボーイングがB777のせいぞうにくししたといわれるCATIAのぎじゅつのことだ。ほんしょによれば、CATIAはそれまでのじょうしきをやぶり、コンピュータをつかって、こうくうきせいぞうぎょうかいではじめて「モックアップ」なしにこうくうきをかんせいさせるぎじゅつだという。このぎじゅつはじどうしゃのトヨタしゃとこうさくきかいのヤマザキ・マザックしゃがきょうどうでかいはつしたしんぎじゅつだったが、とうじのつうさんしょうはMIT(マサチューセッツこうかだいがく)をちゅうしんとするアメリカからのちょうさだんにこのぎじゅつをしょうかいし、しょうかいされたトヨタとヤマザキ・マザックはただだくと(たぶんたいかもとらずに)しんぎじゅつをかれらにこうかいしたというのだ。このぎじゅつにもとづいて、CATIAはかいはつされたのだろうというみかたをちょしゃはほんぶんちゅうでしょうかいしている。こうしたせんたんぎじゅつがにっぽんからりゅうしゅつするれいは、こうかんつたえられるだけでもまいきょにこうなく、にほんじんのちざいけいしのじじつをうらづけている。これは「ぎじゅつりっこく」をひょうぼうするにっぽんがしょうらいじぶんのくびをしめることになることにまちがいないとおもわれるが、なんとにほんじんはおおらかなこくみんであることか。
【それはさておき】
さくねんエアバスしゃはけいやくしていたちょうジャンボきのA380のひきわたしじきがちえんすることでおおきなそんがいをしょうじた。そのかんげきをぬって、ボーイングしゃがまきかえしたことはきおくにあたらしい。せっけいめんではいかにしんぽしていても、せいさんぎじゅつではまだまだスキがあることをうらがきしたようなじけんだった。このあたりはよりあいしょたいのよわみであろう。
せんごにっぽんは、とうじのにしどいつとならんで、だいにじせかいたいせんのはいせんこくであるにもかかわらず、ときにはせんしょうこくをもしのぐけいざいふっこうをとげて、きせきのふっこう、といわれた。でもさいきんのちゅうごくやインドなど、じゅうらい「はってんとじょうこく」としてかんがえられていたたいこくのさいきんのけいざいてきやくしんぶりをみていると、もうそろそろにっぽんはおカネもちしきもタダでばらまくことはやめて、せいとうにしょうばいはしょうばいとしてわりきらないとせいぞんをつづけられないじだいにいっってきたのではないだろうか。こくみんそうせいさんの10ばいをこえるこっかのしゃっきんや、がしするまでほうっっておかれるきたきゅうしゅうしでの「せいかつほご」せいどのじったいをみるにつけ、ここでにっぽんはこっかとしてもパラダイムつまりこっかのわくぐみをだいへんこうしなければ、このままではいきのこっていかれないくにになりさがってしまうとおもわれる。ひょうものが「こんせいきちゅうに、にっぽんはアメリカまたはちゅうごくのぞっこくになりさがるだろう」とよそくするゆえんである。
【だそく】
しゃしんばんでみられるとおり、このほんのひょうしは、ほんにせんでんもんくをいれたこしまきをまくことをぜんていとしたデザインがなされていて、そのぶぶんはくうはくである。ほんはりゅうつうなかにこしまきがはがれたばあいのことまでかんがえてデザインされねばならない。このひょうしデザインはこのいみでずさんのみほんである。□
2007-08-13 しょひょう・シリーズふくしにいきる2
しょひょう・★シリーズふくしにいきる2・くさかんはちじゅうおす(やすおかのりおすちょ)おおぞらしゃ
【あらすじ】
ほんしょは、とくにさいきんろんぎされたりさんにゅうされたりするにんのおおくなったしゃかいのいちぶんや「ふくし」について、そのせんくしゃ・せんぱいにあたるひとびとを、こじんごとにでんきかぜにまとめたシリーズほんである。だいいっかいにはいほんされた20さつのなかには、ほんしょ2でかたられるくさかんはちじゅうおすのほかに、やまたかしげり、アーノルド・トインビー、しぶさわえいいち、ゼノしんぷらのこじんにまじって、シャルトルひじりパウロしゅうどうじょかいのだんたいめいもみえる。めいじいしんいごのきんだいかにっぽんにあって、しゃかいのひずみのなかでぜつぼうてきなひんきゅうのせいかつじょうきょうのもとにいきなければならなかったおおくのひとびとをたすけよう・ささえようとしたこれらの「ふくしじぎょう」のせんくしゃのめいがみえる。げんざいしゃかいふくしにかんけいするにんが、にっぽんのふくしのじせきをたどるばあいのひつどくかき、といわれるところに、この「シリーズふくしにいきる」がそんざいする。
【よみどころ】
ほんしょによると、くさかんはちじゅうおすはながのけんまつもとしでめいじはちねん(いちはちしちご)、くさかんたいぞう・いくのちょうなんとしてうまれた。はちとしのときに、いまもまつもとしに「じゅうようぶんかざい」としてとうじのこうしゃがのこる「かいさとるがっこう」にまなんだ。このくさかんはちじゅうおすがちょうずるにおよんで、ふくしのげんばにみずからふみこんでいくさまが、ほんしょでくわしくかたられる。もともとくさかんはちじゅうおすは、じゅんさ、しんぶんきしゃのけいれきをへて、しょくぎょうがらせっしょくをよぎなくされたとうじの「さいたみ」つまりせいかつこんきゅうもののじったいにふれて、いちねんほっきしてそのきゅうさいかつどうにのめりこんでいったとみることができる。とくひつすべきは、じしんはたんなるこじんのみでありながら、とうじのやくしょをまきこんでふくしのみをあげていることである。とうじの「ないむしょう」がじっしした「さいたみちょうさ」にしょくたくとしてかんよし、のちにとうきょうししゃかいきょくでおなじくしょくたくとしてちょうさにあった、などのじせきがしるされている。ほんしょのだいよんしょうには「ふろうしゃたちのまんしゅういみん」のこうがあるが、これはとうじのこくさくによって「とうきょうふかんないしつぎょうろうどうしゃにしてろうどうにこたええる(ちゅうりゃく)ものにのうえんをけいえいしてだんたいてきくんれんをあたへ、しょうらいまんもういじゅうまたはないちどくりつのうみんとしてこうせいせしめんとするものである」(いちしきゅうぺーじ)としるしてあるが、このようなこくさくすいこうしたにあっても、くさかんはちじゅうおすは、こっかのきゅうさいさくにみずからしんせいすることができない「ふろうしゃ」におもいをはせる。むかしからやくしょは「こくみんからのしんせいにもとづいて」しさくをこうじるのであって、りゆうはともあれそののうりょくのないものは、こっかのきゅうさいさくからももれてしまうのである。そのじゃくしゃをおもいやるほんしょのしゅじんこう・くさかんはちじゅうおすこそ、ふくしにたずさわるもののめんぼくやくじょというものであろう。
【ひとこと】
くさかんはちじゅうおすはぜんじゅつのとおりめいじはちねん(いちはちしちご)にうまれ、はいせんのよくねん・しょうわにじゅういちねん(いちきゅうしろく)にふかえのにんとなった。72としであった。しゅうちのごとく、いしんいらいのにっぽんは、おうべいれっきょうに「おいつけ、おいこせ」と「ふこくきょうへい」にはげんだのであり、たいがいせんそうもかさなって、くにのこえぼうはたかまっためんもあったが、ないせいめんではほんしょにえがかれるような「ひんみんくつ」がはびこり、せいかつこんきゅうものがふえたのもじじつであった。しゃかいいっぱんからみれば、これらの「ひんみん」は、やくしんするしゃかいのあしをひっぱるそんざいとしてしかみえなかったであろう。そこにめをあててじしんのいっしょうをそのためについやしてくいなかったほんしょのしゅじんこう・くさかんはちじゅうおすのようなにんこそ、とうじのしゃかいにひつようとされたにんだったのではなかろうか。
【それはさておき】
じつはほんしょのしゅじんこう・くさかんはちじゅうおすは、ひょうもののははおやのおじにあたるにんである。はちじゅうおすのおとうとでほっかいどうにわたり、いまはじばのめいさんとしてゆうめいになった「ゆうばりメロン」をしょきにてがけたとわたしどもかぞくないでつたえられるはちじゅうおすのおとうと・みつぐのめいとともに、こうしてけんきゅうしゃのふでになるでんきをよむことができて、よろこびにこたえない。いえにつたわるしゃしんもほんしょにけいさいされており、ちょしゃのしゅざいときにすでにぶっこしていたははおやがもしいきていたなら、ここにはけいさいされなかったはちじゅうおすのそうわがていきょうできたかもしれないのがこころのこりである。□
ゆずきたがわゆうひとしとこうさいしているフジアナウンサーたかしまさい。かんけいしゃによるとねんないけっこんがウワサされているが・・・
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ネットではここさいきん、いぜんりゅうしゅつしたハ×とりえいぞうがわだいとなっている。
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けっこんにえいきょうがでなければよいが・・・