yeuxquiのにっき

2008-11-17 さいはてのマネー

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ぼうげつぼうじつ

mayakovからのメールにあわててかえる。のどのちょうしがわるくなって、ひさしぶりにメプチン+インタール。いえにかえるとちょうどにどめのきゅうにゅうなかだった。1がつほどせきがとまらず、いつかよくなるのかな、とおもっているうちにきゅうにあっかした。どようはあさからびょういん。まんいんおんれい。1じかんはんじゃくまつ。またまたオノンやそのほかのおくすりのおせわになるせいかつに。

それにしてもいぜんはきゅうにゅうをしても、きいているのかいないのかよくわからなかったが、こんかいははっきりへんかがめにみえる。なにかもたいへんれいけんあらたかなかんじ。

ぼうげつぼうじつ

いちにちじゅうSOPといえのなかであそぶ。こうふんするとせきがでるので、あんまりこうふんしないようにあそぶのだけれど、4としじはなかなかそういうわけにゆかない。エネルギーがはっさんできないせいか、かんじょうのきふくがはげしい。いえのなかでのかくれんぼがいたくきにいったようすだったが、ゆうがたになりくらくなってきたら、こわくなってしまったみたい。そういういみではまだしとし。

かいものにいったmayakovがかえってきたので、ビールをかいにぼうマンダイに。ここにはまだみどりのエビスがうっている。うーんたかいなどうしようとおもっていたら、ふとジンジャーいりのはっぽうさけというのがあったので、ものめずらしさはんぶんでかってみる。シャンディーガフみたいなものかとおもっていたら、たんなるはっぽうさけ。うーん、わるくはないけどよくもない。どうしてもかるいかんじがしてしまい、それがジンジャーのくみとむじゅんしてしまう。やはりみどりのエビスのほうがおいしい。いっそシャンディーガフにすればよかったのにとおもわないでもないが、そういえばとフランスでうっていた、なんちゃってちゅうなんべいかぜビール、デスペラードスはあれはにっぽんではみたことないなあ。たしかテキーラかなんかがまざったなんぱなあじのさけであったが、どうせまぜものビールをのむのであれば、ああいうジュースみたいにしてくれたほうが、こじんてきにはまだまし。

ビールをかったあとに、クーリエ・ジャポンをかいにいっかいのほんやにいく。まんだいのなかにあるこのほんやは、なんというかさいはてのほんやというかんじで、じっさいおなじフロアにはかのゆうめいなしまむらがいっっているのだが、みごとなちょうわをたもっている。このほんやはみなみきしゅうのほんやよりもしなぞろえはまずしい。

ぜったいすうではこちらのほうがおおいのだが、おいてあるほんのけいこうがいっかんしている。たとえばじょせいしだとほかのほんはあっても、そうえんやフィガロはおいていない。みなみきしゅうでもうっているのにだ。InRedとかはあるからなにかかんがえてそうなっているかんじがする(FUDGEはない)。マンダイのきゃくそうにとっかするとこういうことになるのだろうか。こきゃくはこうきょうだんちをちゅうしんとしたきんじょのじゅうみん(おれだ)、それとくるまでやってくるひとびとだが、たぶんこちらは、ちかくににさんけんあるショッピング・モール(サティやはんきゅうやジャスコ)ときゃくをわけあっているのだろう。

にかいでは100ひとしショップとコイン・ゲーム。ひるまからおばちゃんやおじいちゃんたちが、しょざいなげにあそんでいる。

ところがこのほんやには、なぜかクーリエはおいてあったのでここでかうことにしていた。まあじぶんのけいけんからすると、そういうささやかなしょうひこうどうがしほんのけっていになにかえいきょうをあたえたことはないのだが。

なかにはいると、おや、あきらかにざっしてんすうがしぼられている。ろんだんしなどはしょくんとかももうおいていない。たしかいぜんにはおいてあったようなきがするのだが・・・。クーリエはそういうあつかいだったのだろうか。ちなみに、ひかくてきスペースをとっているのはうれすじのまんがとしんしょ。これはみなみきしゅうよりもあきらかにおおい。

かろうじてブルータスとかはおいてあるのだが、いまさらそんなものかってもなあとおもって、なにもかわずにかえる。けうなこと。ちなみにけいざいしなどもなくて、かわりにあるのはマネーしやなんか。しんしょもそういうたぐいのものがちゅうしん。かつまなんとかとか、むかしであればSAYとか、プレジデントとかビッグ・トゥモローとか、そういうじんせいきょうくんもの(さいきんはライフ・ハックというらしい)。せめてなにかのやくにたっていればいいのだけれど。

しいれにちがずれているだけかもしれないから、またみにいってみよう。そういえばこのほんや、まなつのさかりでもここだけクーラーがかかっていなくて、みせにはいるとむわっとなまあたたかいくうきがおしよせてきていた。もうほんやそのものがリミットにきているのかもしれない。

きゅうにゅうをするようになったらSOPはよなかにおきることはなくなった。

コミュニティとともにいきるということはそれほどかんたんなことではない。

きょうくん

というわけでこのぶんしょうのきょうくんは、にんをきりわけるのはせいさんではなくて、しょうひだということかな。

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2008-11-14 misc.

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ぼうげつぼうじつ

つくえにすわってタイプしていると、はげしいかたこりにおそわれる。なんだかどんどんはげしくなるなあとおもいながらいえにかえる。つぎのにち、めがさめるとどくむしになっていたわけではないけど、くびがみぎにもひだりにもまえにもうしろにもうごかなくなっていた。むりにうごかそうとすると、げきつう。そうなるとねがえりがうてない。ねがえりがうてないとおきることもできない。5ふんなのか10ふんなのかさだかではないけれど、ひっしになっておきてがっこうにいく。すごくしせいのよいロボットのようなかっこうであるく。ひっしになってじゅぎょうしていると、すこしだけくびがうごくようになる。アドレナリンのおかげ? これさいわいとじゅぎょうのじゅんび。つぎのにんはあさいち。

つぎのにちもひっしになっていろんなことをしながら、からだをおこす。ふくはmayakovにきせてもらう。

つぎのにちはローカルカレンダーできゅうこうなので、はやめにかえって、しょうかいされたちかくのじゅうどうせいたいとやらに。じんせいはつせいたい。こうえんをよこぎっていくと、きんじょのこどもとおかあさんたち。あいそうがいいので、にっこりしたつもりだが、あとでmayakovにきくと、SOPちゃんのおとうさんはいつもニコヤカなのに、すごくしんこくそうなかおだったわね、とのこと。

ゆっくりとくびをまわしてもらうと、たしょうはうごくようになった。ギックリくびというものだったのだろうか。

いっしゅうかんほどへってましになったとおもったら、かぜをひいてのどをやられる。いろいろあってやすむにやすめず。つらくてついじゅぎょうちゅうのしっせきがきつくなる。

これがやくどしというものか。

ぼうげつぼうじつ

さらにいっしゅうかんほどたってことでのけんきゅうかい。つらいのをみこしてホテルをとる。mayakovとSOPのさんにんでうのちんときょうとえきで。シーズンなのでちとたかめ。けんきゅうかいはおもしろかったが、せっかくホテルをとったのに、やはりのみかいのとちゅうでたいちょうがおかしい。もっとよるおそくまでのみたいよう、ビールしかのんでないよう、あんなさけやこんなさけがのみたいよう、とおもいながらしぶしぶホテルにかえる。あんのじょう、たいちょうはあっか。

ぼうげつぼうじつ

やらないといけないさくぶんがいよいよまったなし。あらゆるしごとをほうちしてさくぶんにいそしむ。むだになりそうなのがなんとなくとろうかんをふやす。このてのものはかならずいちどしっぱいするというわるいジンクスをおもいだす。

ぼうげつぼうじつ

ようやくきかくちゅうのぼうイベントじゅんびにひとくぎり。mayakovにつくってもらった(ありがとう)ポスターをみずからいんさつしてはっそう。むっちゃかないこうぎょう。あとは12がつのほんばんをまつのみ?。おちついてさゆうをみまわすと、いろんなノルマがまるでこなせていないのにきがついてまっさおになりそうだったので、やまだみのるの『リサおばさん』を100かいどくんで、だいじなことをすべてわすれたきぶんになる。

リサおばさん

リサおばさん

ぼうげつぼうじつ

つくったしょるいにてをいれたり、いんさつしたり。

わすれたきぶんはながくはつづかず。とりあえずひさしぶりににっきをこうしんしてからげんじつをちょくししよう。

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2008-10-17 temjinusさんへのリプライ

もうじゅうごねんいじょうもまえ、がくせいのぎむとしてはじめてろんぶんらしきものをかこうとし、そしてろんぶんというものがよくわからないまま(そしていまでもそれがなにかよくわかっていないのですが)、おわりにちかづくにつれて、あることにきがつきました。つまりじぶんがここにでのべていることに、もしなにかのいみがあるとすると、ここでろんぶんとしてのべているそのやりかたはほとんどむいみであると。つまりないようとけいしきとがまったくむじゅんしつつあることにーもっともいっそうみせいりなかたちではありましたがーきがつきそうになったのだというきがします。そのろんぶんはまさにAlthusserがかんがえたことをかいせつしようとしたものではあったのですが、しめきりのすうかげついじょうまえにないようてきにはふでがとまったまま、そのとうじはいきがきれたのだとおもっていましたが、いまからおもうとないてきなむじゅんというかこんなんのために、いわばじっしつてきにはみかんのまま、ほんらいであればまったくはじめからかきなおすべきまま、とりあえずけいしきてきにていさいをととのえてていしゅつしてしまったようなきがします。

むろんおおかたのにんは15ねんまえのぶんしょうをめのまえにひきだされれば、したをかんでしにたくなるでしょうが、ぼくもれいがいなくそのぶんしょうについてはいまはもうみたくもないというきぶんでいます。ただ、それでもこうしたまちがったぜんていでかきすすめてしまったぶんしょうであるにもかかわらず、もうすこしそのまちがったみちのりをぜんしんすることができていれば、いくらかはたしょうはましであったのに、というきもちもあります。とうじ、もうすぐみえそうになっていながら、あるたねのおそらくはばんゆうがふそくしていたためにとりにがしていたもんだいは、てんじんなすさんがにっきでかいていたようなもんだいであったと、いまではそうおもいます。Althusserがかこうとし、そしてぼくがいいなおそうとしていたものは、はたして「てつがく」であったのか、というもんだいです。じつはひにくもAlthusserじしんが、こうした「てつがくとはなにか」といういわばふもうともいえるもんだいを、みずからの「ばんねん」にやはりじぶんのもんだいとしていたにもかかわらず、じぶんがつきあたろうとしていたもんだいが、まさにそのもんだいであったことにきがついていなかったことは、やはりわかさゆえではない、ひりきをものがたっているようにおもいます。

ひじょうにくだらぬことをいえば、philosopheフィロゾーフというフランスごは、いったいなにをさしているのか、というフランスこゆうのもんだいともかかわるとおもいます。それはそのいみでは、むしろれきしてき、ないしはしゃかいがくてきなもんだいであるといまにしてはそうおもいますが、つまりはルソーは(ヴォルテールは)フィロゾーフだというとき、これを「てつがく」とやくしてよいのか、というそれじたいとしてはbanalなもんだいとかかわっているといまのところはそうおもいます。(それをおしえることはできないいじょう、がっこうの「てつがく」ではありえませんね。)

すこしらんぼうにまとめるとげんごのようほうと、そのきのうをたいしょうとすることが、げんだいてきないみでの「てつがく」であるとすると(そしてぼくは「てつがく」をこれにげんていしてよいとおもっていますが)、おそらくAlthusserがかんがえていたこと(あるいはそうしんじていたこと)は、やはりてつがくとはことなるものだろうとおもいます。ではフィロゾーフたるルソーはなんとよべばよいのでしょうか。あるいはげんざいであればどうよばれるべきであるのでしょうか。だいがくのそとで、ほぼそれとはむかんけいに、まるでおやをもたずにうまれたこのようにせいちょうしたかのようにじぶんのじでんをかいたルソーは、あるいはジャーナリストとよべばよいのでしょうか。ちしきじんとよべばよいのでしょうか。あるいはもうしばらくのちのことになりますが、トラシーやカバニスがときのこうていにそうよばれたように、(いささかひにくなことになりますが)イデオローグとよばれるべきでしょうか。あるいはさよくとよばれるべきなのでしょうか。ひょうろんかでしょうか。ゆうめいじんでしょうか。メディア・スターでしょうか。

とうじのぼくにはきわめてちゅうしょうてきにみえた(そのかぎりでてつがくとよばれることにいわかんはかんじつつもあらためてそれをてっていてきにかんがえてみることができなかった)かの「りろん」ないしは「しゅちょう」は、じつはAlthusserがべつのところで、「せかいかん」とよぼうとしていたなにかと、べつのものではなかったのではないかということを、(たしかにいっしゅんはそうかんがえたきおくもあるのですが)きちんとけんとうしてみるべきではあったとおもっています。

おそらくそれはあるときには「さよく」というものとむすびついており(そしてそのことがはんさよくのひとびとがいまだに、「はん」さよくとして、そのぼうれいにすがりついてみずからのげんろんをはんどうてきにけいせいしてしまうことともかんけいがあるのでしょう)、ちしきじんともむすびついていますが、きゅうきょくてきには「メディア」というものにおそらくはもっともつよくむすびついたなにものかであろうとおもいます。そのかぎりで、それは、パリというしょうひとし、きゅうたいせいのしはいそうもすむ19せいきまではせかいのちゅうしんであったそのぶんかとしに、こゆうのげんしょうとしてうまれ、でんぱしたものであろうとおもうのです。

おそらくそうかんがえてみるとAlthusserが、フランスのこうとうきょういくせいどのいわばうちがわでありかつしゅうえんであるようなばしょにいたひと(かれがやっていたのは、エコール・ノルマルの、いまであれば、いわゆるチューターとよばれるようなしごとでしょう)であるのは、やはりぐうぜんではないようにもおもえます。

そしておそらくはだいがくにおける「さよく」がおうおうにしてめざすものが、なによりも、メディアというものであることも、そしてときにひきげきてきなことに、のべられるりねんが、そのせかいにとうたつするしゅだんとなるといういっけんするとはんてんした、しかしよくかんがえると、やはりあるたねのひつぜんとしてそれらがきんみつにきりはなしがたくむすびついていることも、いまではむえんのことともおもえません(いわばそれはいっしゅのふくさようなのでしょう。だからこそそれはコンテンツとしてのぶんがくとむすびつく)。

Althusserがテクストは、そこにかかれているいじょうのことをかたってしまうと、ざっくばらんにいえば、おおかたそのようなことをいっっているのですが、もしこのかいしゃくがただしいとすれば、ふかひてきにもんだいはそのテクストがかいしゃくされるばしょに、うつされてしまいます。そのことをまるでAlthusserはそれをよむよみてのあたまのなかでおこるできごとであるかのようにかいてしまっていますが、けれどそれはかれじしん、あらっぽいことばをつかえば「そと」のせかいにさしむけるために、ある、りゅうつうしているかいしゃくにいぎをとなえるためにそのようにそうした「かいしゃく」をさしむけたのであれば、やはりふかひてきにそれは「そと」のせかいとむすびつけてかんがえるべきものであったのであって、おそらくはそれは「てつがく」とよばれるべきなにかではなかったのだろうとおもいます。

たぶんぼくはあいまいに「りろん」とよんでいたようにおもいます。しかしそれは「りろん」なのだろうか。ほうがくものとよぶことのできるユマニストはおおいけれど、ユマニストをてつがくしゃとよぶことはいささかためらわれます。だからといって「りろんか」とよぶことはいくらかきみょうなきがします。まだちゅうとはんぱなのです。ストアははてつがくしゃとよびうるのでしょうか。すくなくともこのせまいていぎにはおさまりそうもありません。むしろ「せいじ」いえ、とりわけしついのもとにあるせいじかでしょう。Machiavelliは? しついのもとにあったぎょうせいかんでしょう。そのかぎりでみずからのおこないにちんせんせざるをえなかった、にもかかわらずじゅんすいにめいそうにとどまるでなく、むりょくなせいじかでありつづけ、むりょくなしかしぎょうせいかんでありつづけることをえらばざるをえなかったひとたちでしょう。おそらくこのことをかんがえるべきだったのです。

こうしたことのすべてはしかし、le cas d'Althusserというべきなのでしょうか。かれはこのことをテクストのなかで、いくらかないざいてきに、しかしそれしかえらびようがないためにごかいをあたえがちなけいしきで、かんがえようとしていたようなきはしているのですが・・・。

そのいみでは、いまとなってみると、「てつがく」てきながいかんをあたえようとしたことは、ひょっとすると、それがAlthusserのまちがいであったかもしれませんし、すくなくともぼくのとうじのまちがいは、そこに「りろんてきにみえるがいかん」をふよしようとしたことのまちがいであったようにおもいますが、それはまたべつのはなしであり、このねんになってみると、おかれたじょうきょうのせいやくとよぶほかはないようなきもします・・・。

まとまりませんね。

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2008-10-10 パリこうがい

 こんにちは、パリこうがいのあたらしいじゅうきょとしをみにいくよていだったので、にしむらさんとでかける。どうしはがかで、パリにながくすんでおられるので、つうやくをおねがいしたのである。こうがいでんしゃにのるとすぐいなかへでる。しろいリンゴのはながまんかいでうつくしい。ロバンソンのえきからちいさいバスにゆられていくと、ひなびたみんかのやねにはあかいかわらがふかれ、そのふるびたようすがミレーのえをかんじさせる。

 しずかなむらをとおりぬけると、いしできづいたほりのむこうがわからうしのなきこえがきこえる。そんなルナールのぶんしょうにかかれているようなでんえんふうけいをとおりすぎていくと、がんぜんにモダンなアパートけんちくのだいしゅうだんがあらわれてきたのでおどろく。あたらしいマラブリーのじゅうきょとしである。

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 ・・・ここのじゅうきょとしではやちんがていれんであることにかんしんした。もっともとしんからとおくはなれ、こうつうもふべんであるが、それにしてもとうきょうではげしゅくやのひとまのへやだいがそれよりもこうかであるのにおどろいた。セーヌけんのけんえいで、きぼうしゃはがんしょをだし、みもとちょうさのうえできょかされるのだということである。

 そのうえ、ここのじゅうきょとしではこうきょうしせつがかんびしている。ひろいしきちのちゅうしんにはいけがつくられ、そのまわりがしょうこうえんになっている。さんぽみちみちにははなや、ざっかや、マーケット、パンやなどがうつくしいかざりまどをならべ、しゅふとこどもたちがたのしそうにあるいている。そのほかテニス・コートやトラックなどのうんどうじょうしせつも、ちかくかんせいするよていだといういうことである。

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 マラブリーからつぎにロバンソンのじゅうきょとしまであるいてゆく。とちゅうののはらがうつくしい。わかくさがいちめんにほうえたち、そよかぜがふく。うえころもをてにもち、あかるいきもちであるいていくと、むこうからたいかくよいうしをじゅうあたまばかりぼくどうがおいながらやってくるのにであう。そらにぎんいろのどうたいをひからせながら、いちだいのひこうきがとんでいく。

 かんもなく、ののかなたに、いま、みてきたマラブリーよりももっときぼのおおきいじゅうきょとしがじょうさいのようにみえだした。

 だが、そのロバンソンのじゅうきょとしにちかづくと、けんちくのしつがだいぶおち、へきめんもとそうもそざつである。だがろくかいだててのこのアパートけんちくがすうじゅうとう、せいぜんとならんでいる。そのひとむねのさいじょうかいにまどのおおきいアトリエがならんでいるのは、フランスではがかのきょじゅうにんがおおいので、こんながかせんようのへやもひつようなのであろう。それをめずらしくおもい、わたしはさっそくカメラでさつえいした。

 するとよこちょうからせいふくをつけたふたりのおとこがあらわれ、わたしたちをすいかし、れんこうをもとめた。けんぺいである。・・・

***

 ドランシーのえきでおりると、ふきんはこうじょうちたいらしく、いえもまちもすすけている。えきまえには、くろいとりうちぼうをかぶり、くびまでのセーターをきて、いかにもフランスのろうどうしゃらしいふくそうをしたひとびとがむらがっている。しかし、そのようすにもまちのいんしょうにもなんだかかっきがない。

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 じゅうろくかいもあるたかいとうのようなアパートがいつつも、ゆうひをうけ、すんだそらにそびえている。そのこうけいはすばらしい。しかし、ちかづくとおどろいた。まどガラスがいちめんにわられ、ひどくあれはてている。ないぶをのぞくとかべがしみだらけとなり、こわれたかぐなどがさんらんしている。むろん、にんはすんでいない。むすのはいきょである。

 さんねんほどまえだった。パリでせかいけんちくかかいぎがひらかれたとき、ここのアパートがフランスのもっともあたらしいだいひょうてきけんちくとしてしょうかいされ、おおくのけんがくしゃをあつめたことがせんもんざっしにほうこくされていたのに、それがこんなにひどいあばらやになっている。そのはやいかわりほうにまったくおどろいた。なにかけんちくぎじゅつかせっけいにミスがあったのだろうか。あるいはじゅうきょせいさくのしっぱいか。モダンないしょうがみんしゅうのこのみにはんしたのか。

『せせらぎにっき』たにぐちきちろうよりばっすい

たにぐちきちろうはけんちくか。いとうただしたのでし。1938ねんからドイツりゅうがく、このぶんしょうにかかれたパリりょこうはおそらく1939ねんの1がつのできごと。このあとヨーロッパじょうせいのあっかにより9がつ、にっぽんゆうせんのやすくにまるできゅうきょきこく。きこくごはとうきょうこうだいきょうじゅ。ふじむらきねんどう、とうぐうごしょ、ていこくげきじょう、とうきょうこくりつはくぶつかんとうようかん、げいひんかんわふうべっかんなど。

ふくしこっかにおいては、ていしょえものむけ(とうじとしてはろうどうしゃむけ)ていれんじゅうたくはしゃかいふくしのはんちゅうである。げんざいでもヨーロッパはそうしたニュアンスがつよい。げんざいのアメリカであればいわゆるサブプライム・ローンのたいしょうとなるひとびとである。サブプライムローンとはいわゆるもちいえせいさくのかくだいであろうし、そのいみでは、これもいっしゅのしじょうかとかんがえることはかのうである(ただしかつてのそれとはことなり、そこにはこようのあんていとしょとくのじょうしょう、すくなくともぜんしゃはともなわれていなかったようだ)。

もっともとちのじょうしょうをみこんでのかりかえなどのぎじゅつをくししたりして、へんさいさせていたようだけれど、そういうしさんうんようのちしきのようなもので、ちんろうどう(のたいか)のふそくをおぎなうということであったのか。こういうのは、よりダイレクトによくぼうというかりがいのかんかくにからむものではあるが、それゆえに、なにがおんとうなしゅだんであるかがはんだんできるせいじんをきょういくでいくせいするのは、たいへんにこんなんであろうなと、ぼくなどはおもう。しゃかいのあんていというようなことをかんがえると。ときどきはこうやってききになるけれど、これはしほんしゅぎのリスクだというあるいみでマルクスてきなせかいをこうていするほうが、まだしもすじがとおっているようなきがするな。

ローンのばあい、しょとくがふえてゆかないとかなりしんどかろう。だからこそそれはちんぎんろうどうしゃのぞうだいにたいおうするかたちでひろまりをみせたのであるし。むろん、としんぶであればちかのじょうしょうふんがあるから、そのことをこうりょにいれれば、たんじゅんにちんたいのほうがゆうりだというけつろんにはならないが、しかしこうがいのばあいはそのあたりたいへんにびみょうである。

にっぽんはどうするんでしょう。いや、どうなるんでしょう。せたいががっちりへってゆくとじちたいごとのとしせいさくはたいへんにおおきなもんだいになるようにおもうのだが。

こじんまりとしたまどりで、おおきなガラスまどがついたいまのそとがわにはテラスがもうけられいまのおくはしんしつとこどもしつとなる。だいどころ、よくしつ、べんじょ、そのほかちいさいものおきまでついている。ひろさはにじゅうさんつぼていど。だんぼうはかくまにストーブがとりつけてあるが、やちんはいちカねんに2200フランということだった。ちなみにかんさんするといっかげつ18えんちょっとになるので、そのていれんにおどろく。かぐはじゅうきょにんもちだから、まだしつないはがらんとしていたが、このないぶにいすやテーブルがおかれ、まどにカーテンがかかり、かべにピカソのふくせいでもかかったら、にっぽんではこうきゅうアパートになるだろうとそうぞうする。

 というぶんしょうもある。が、たにぐちのぶんしょうはこのこうがいがけんせつとどうじにすでにげんざいのすがたをつゆわにしはじめていることをほうこくしてくれている。

そういえば

http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/K2008100602860.html?fr=rk

ほんにんはたぶんこういうこといわれてもぜったいにわからないとおもうけど、しゃかいのあんていをどうとくきょういくでなんとかというかぜにかんがえるひとは、ようするにユートピアてききょうさんしゅぎしゃであるというへんけんをぼくはもっている。ポルポト・フラグですよ。いちおうはけんりょくにちかいところにおりますからね。こくごさんすうりかしゃかいだけをきっちりやればよいのは、なぜならそれがきょうわこくのどうとくだからだ。ただ、このどうとくをおしえるだけではいずれにせよしゃかいのあんていはどうにもならない。もしそれがひつようなものであるとして。

しかしあのはばつはきょうわとうのわるいところを、そっくりそのままもっていますな。なんかりゆうはあるのでしょうな。ありがたいのやら、ありがたくないのやら。

echizenechizen 2008/10/10 20:18 フランスのせんぜんとせんごのしゃかいじゅうたくは、にっぽんのこうがいのせんぜんせんごのさ(でんえんちょうふvsたかしまだいら)とはまたちがうけど、やっぱりずいぶんとちがうもので、うえにいんようにあるでんえんとしフランスヴァージョンは、げんざいのあれるこうがいだんちとはまるでべつものでありますぞ。
かつてのろうどうしゃむけでんえんとしてきだんちは、だいたい、いまやちゅうりゅうそうむけのシックなじゅうたくであります。ふるくてちいさいけどていれがいきとどいていてたいへんこのましい。そういうかんじ。

echizenechizen 2008/10/10 20:28 ドランシーは、すうきなうんめいをたどっただんちで、いわゆるタワーかたのたてもののこうしだそうだが、しゅんこうしたじきがわるく、じゅうたくとしてまんぞくにきのうしないままようとがにてんさんてんして、さいしゅうてきにはアウシュヴィッツいきのユダヤにんしゅうようじょにてんようされた。うえのタワーは76ねんにろうきゅうかいちじるしいということでとりこわされていまはそんざいしないが、それいがいのぶぶんはげんぞんしていて、まだひとがすんでいる! いってきましたよ>ドランシー。
ユダヤにんしゅうようじょだったというきねんひ(もうあやまちはくりかえしませぬゆえ……てきなもんごんあり)もたっていて、ぶんかいさんにしていされているんだよな。だからたぶんすみにくいろうきゅうかしたたてものとないぶせつびをむりやりかいしゅうしてにんをすませている。
せんぜんのもののなかでドランシーのラ・ミュエットだんちはややとくいなケースで、それいがいのものは、うえにもかいたように、わりとねっしんにちいきコミュニティけんせつもやったようで、いまは「いごこちのよい」じゅうたくであるばあいがおおいのではないだろうか。

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2008-09-22 ふと

SOPがふとパパなんかいらない、いなくなっていい、とかかわいらしいことをいうので、まあパパがおじいさんになってぼけちゃったらSOPのことわすれちゃうからだいじょうぶだよ、とついぽろりとほんとうのことをいっってしまうと、さすがにちょっとしんこくなかおになって、やっぱりパパいなくならなくていい、とぜんげんてっかいし、だからパパぼくのことわすれないよね、とまたまたかわいらしいことをいうので(おやばか)、うんわすれないわすれないとえがおでこたえると、おやこはしょくたくでつかのまのわかいをたのしむことになる。

そうかんがえるとしかしきおくというのはへんなもので、おやのことはなかなかぼけてもわすれないみたいだ。まあせいぞんにかかわるわけであるから、へんではないのかもしれないが、おやになって、いかにおやはこどものことをあれこれきをもみかんがえているかというようなことがわかったせいで、ついついこちらのあいじょうのほうがふかいはずだとおもいこんでいた。あいじょうとはなにかというようなことをかんがえだすと、いろいろとまずいこともおおいのだけれど、にちじょうせいかつでそんなやっかいことにこうでいするはずもなく、そこはこのこころおやしらずで、こどもはいいきなもんだと、おやはいいきにおもっていたわけなのだった。

が、SOPがぼけるほどねんをとれたならば、そのときSOPはおそらくせかいじゅうでただひとりぼくのことをおもいだしてくれるそんざいであったのだ。そのときかれは、もしいたとしてもつまやこのことはすっかりわすれていたりするのにだ。ぼくらはちじょうにはそんざいしていないそのとき、みずからのさいごのしゅんかんに、もうだれもしらないぼくらをひとときだけおもいだし、もとめてくれるのだ(いっぱんてきなケースのばあい)。なんというかわれながらむようなことをかんがえてしまった。

きおくとあいじょうはちがうよ、というのがたしかにへいわなかいけつほうだ。ただ、このぎゃくせつはうまくふにおちないのだが、なんとなくかんどうしないではない。

が、ははおやはおもいだしても、ちちおやはおもいださないというせつもあったりするのが、このびだんのけってんではある。

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