yeuxquiのにっき

2008-09-11 それにしても

しょもつをひとつのそざいとしてよむくんれんをこのかんつづけてきたわけだけれど、しかしそれにしても、あるいたみをかんじずによむことはむずかしいことはこくはくせざるをえない。

ヨーロッパせんごし (うえ) 1945-1971

ヨーロッパせんごし (うえ) 1945-1971

ヨーロッパ(あだいりく)というちりてきにこうだいなりょういきのせんごしをいわばひとつのパノラマのようにえがきだすというとほうもないこころみ。それはたしかにせいこうしているかのようにみえる(はんぶんほどよんだかぎりでは)。いっぽうでしんきゅうふくめたさよくうんどうについてのれいてつなひっちについては、うえにかいたとおり。たとえもしじぶんでかいたならば、おなじことをかいたとしても、いくらかはそのいたみはけいげんされたかもしれないが、かく、あるいはかたるというかたちでそとにだしつつではなく、よむという、いくらかなりともじゅどうてきなけいしきで、いやおうなくそれをちょくしさせられたせいか、じぶんでもいがいなほどにしんりてきなていこうをかんじつつ、たしかにそうかもしれない、あるいはこのぶぶんのひょうかはいささかバランスをかいているかもしれない、いやそのようにどうじょうてきによむことそのものが、あるたねのたいどてっていのふじゅうぶんさをものがたっているのかもしれないなどと、じもんしながらのどくしょ。

しかしここでかたられるきゅうそくなさんぎょうこうぞうのてんかん、そしてそのきけつとしてのしゃかいせいかつのへんかについて、ユーラシアたいりくのりょうたんでは、あるレベルでは、そしてあるじきまでは、まるでふたごのように(にていないふたごのように?)おなじけいけんをしてきたのだといういんしょうはふかまる。むろんにちべいあんぽじょうやくがヨーロッパにおけるほくだいせいようじょうやくを、そのいくつかのじょうこうはほとんどわやくといってさしつかえないほどには、モデルにしてどうにゅうされたものであるいじょう、とうぜんあるていどはおなじけいけんのみかけをとることはほとんどひつぜんではあるのだが。

むろんそこにはおかれたかんきょうのちがいや、あるいはみえているとしんじていたことと、じっさいにそうであったことのあいだのそういや、それにゆらいするごかいなどがそんざいしているはずであることもまたいうまでもないのであるが。

いつかわれわれはアジアについて、おなじようなきぼのパノラマをえがくことはできるだろうか。

しかしこのしょもつをよみ、またはせいしてあれこれのしょもつをよむと、こうきのじゅぎょうのじゅんびそのものになってしまう。とくしんのいかぬことがあるならば、べつのれきしをかたるしかないのであるから、やはりこのしょもつがあたえてくれるいたみは、ひとつのかだいであるとかんがえるべきだろう。

たしかにこれまでおおくをおしえてくれたのは、つねにいにそまぬどくしょからではあった。いたみはこのときぎりぎりののうどうせいをたんぽするものかもしれない。

しごとよみをしているので、かんしょうしながらよんでいるわけではないのだが、しかしJudtのものかきとしてのうではなかなかのもの。(そういういみでは、いわゆるれきししょというよりは、たとえばアレントの『ぜんたいしゅぎのきげん』などとひかくされるようなしょもつかもしれない)。

ついき

とはいえこうしたいたみに、もしたえるべきいみがあるとすれば、このしょもつのなかでとうおうにかんしてかたられたぶぶんをちゅういぶかくよむことでえられるなにかであるようにもおもう。すなわちとうおうしょこくでの、はんユダヤしゅぎ。それとむすびついたはんちせいしゅぎ(ポーランドにおいては、たいせいにひはんをくりかえすユダヤけいちしきじん(そのなかにはみずからがユダヤけいであることをしらないものさえいた。おやがおしえなかったからである!)にたいして、イスラエルなどへのこくがいたいきょをテレビをつうじてうながしさえした。あいこくものたらざるばくにをでていけばよいということだ。どこかでみたレトリック!)であり、けいざいうんえいのしっぱいからくりかえされるかずかずの「カイカク」のとくちょう、そのせいじしゅぎである。とりあえずせいじしゅぎとなまえをつけてみたが、このてんについては、このしょもつではいまえているいんしょういじょうのものをかくとくするには、じゅうぶんなざいりょうをえることはできない。

いまぼくがえているいんしょうをたんじゅんにいうと、ごうれいをかければ、げんばはしたがうというしんねんであるのだが。これもまた(さゆうをとわず、といっっておこう)よくみられるものである。サプライサイドへのかいかくをあたまごなしにひていするものではないが、しかしそのチャンネルについては、よくかんがえるひつようがある。マルクスしゅぎけいざいがくは、あるいはしゃかいしゅぎはといってもいいが、きほんてきにサプライサイダーにしんわてきなのだ。

はたをふればにんがついてくるのであれば、そしきはひつようない。むりやりにそうしようとするならば、「きょうふ」がひつようで、そのかぎりでけっきょくスターリンがもっとも「うまく」やったともいえる。

いったいどのようなモジュールがくみあわされて、さいしゅうてきにあのようなじょうきょうにいたったのか、そのてんはしかし「まじめに」けんとうするひつようがある(ま、しゅかんてきにはいぜんからしていたつもりなのだが)。で、なおかつそうしたモジュールがなぜ、すくなからぬしじをうけたのか、たとえばにしがわで、そしていちじてきにはであれ、とうおうにおいても。さらにはまた、そのメカニズムはどのようなものか、というあたりだ。もしそうしたぶんせきにあるていどのだとうせいがあるのであれば、ぼくはそのモジュールのそうたいを「しゃかいしゅぎてき」なモジュールとなづけてもいいとすらおもう。しょうじきにこくはくすればくちびるをかみながら、だが。

それができるのは、「われわれ」であり、「われわれ」しかいないからだ。どうやら!

それはいますすみつつあるあれこれのじたいを、あまりに「しゃかいしゅぎてき」であるとひはんしてもよいのではないかとおもう、ということだ。それこそはんせいをこめて。ポリスてきなもの、ぜったいおうせいてきなとうちしそうgouvernementaliteもまた、すくなくともがいけんじょうは、コスト=ベネフィットぶんせきというけいしき、ないしはこうふんをとりうるものだということは、よくよくけんとうするひつようがある。

などなど。

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